第3話 また会えたね
あれから、どれくらい歩いただろう。
気がつけば私は、またあの大樹の前に立っていた。
アルベールのもとから離れようとしたはずなのに。
もう二度と振り返らないと、そう決めたはずなのに。
どうしても、あの声が頭から離れなかった。
――よしの。
誰もいなかった。
アルベールにも聞こえていなかった。
それでも私は、確かに名前を呼ばれたような気がした。
そして、もう一つ。
――また、会おう。
誰と交わしたのかも分からない約束。
小さな誰かと笑ったこと。
名前を呼び合ったこと。
思い出そうとするたび、記憶は霧の向こうへ逃げていく。
「……あなたなの?」
大樹を見上げる。
もちろん、返事はない。
私は少し迷ってから、もう一度その幹へ手を伸ばした。
触れた瞬間――。
温かい。
あのときと同じだった。
まるで、向こう側から誰かが手を重ねてくれているような。
目を閉じる。
「……誰なの?」
今度は、はっきり聞こえた。
――芳乃ちゃん。
「……っ!」
目を開ける。
風景が変わっていた。
さっきまでいた学園の中庭ではない。
けれど、目の前には同じ大樹が立っている。
そして――。
その木の前に、小さな女の子がいた。
いや。
立っているのではない。
地面から少し離れたところに、ふわりと浮かんでいる。
背中には、光を透かす小さな羽。
花を飾った黒い髪。
黄色と赤を基調にした衣。
姿は少し違う。
それなのに。
私は、その子を知っていた。
「……芳乃ちゃん?」
小さな少女が私の名前を呼んだ。
その瞬間だった。
胸の奥で、何かが弾けた。
木の下。
二人で笑った。
同じ名前だと知って、驚いて。
たくさん話した。
何を話したのかは、まだ全部思い出せない。
けれど。
最後に交わした言葉だけは――。
「また会えるかな」
「……うん」
私の目から、涙がこぼれた。
「また会おうね」
あの日の声と、目の前の声が重なる。
「……思い出した」
「ほんと?」
「全部じゃない。でも……あなたのこと、覚えてる」
少女が笑った。
ずっと昔に見た笑顔だった。
「やっと、また会えたね」
「……うん」
今度は私も笑った。
「また会えた」
少女は、あの頃とほとんど変わらない。
けれど、同じではなかった。
「その姿……」
「ああ、これ?」
少女は自分の小さな身体を見下ろした。
「ずっと、この姿だったわけじゃないよ」
「え……?」
「あの日から、ちゃんと時間は流れたの」
少女は大樹を見上げた。
「大きくなって、いろんなことがあって……ずっと生きたよ」
その言葉に、私は息をのんだ。
私が忘れていた間にも、芳乃の時間は流れていたのだ。
「じゃあ……」
少女は、静かにうなずいた。
「今は、精霊みたいなものかな」
寂しそうには言わなかった。
むしろ、どこか楽しそうだった。
私は何も言えず、小さな芳乃を見つめた。
あの日の少女は、私の知らない時間を生きた。
そして、その時間の果てで。
また、ここにいる。
「待っててくれたの?」
尋ねると、少女は少し考えた。
そして笑った。
「だって、約束したから」
また、涙が出た。
今度は隠さなかった。
しばらくして。
私は大樹の根元に腰を下ろした。
芳乃は私のそばを、ふわふわと漂っている。
「芳乃ちゃん、泣いてる」
「……ちょっとだけね」
「悲しいの?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
「……大切な人がいたの」
「うん」
「ずっと一緒にいたかった人。でも……今はもう、私のことを覚えてないんだ」
芳乃は何も言わなかった。
大丈夫とも。
忘れればいいとも言わなかった。
ただ、私のそばにいてくれた。
それだけでよかった。
「取り戻したかったんだ」
言葉が、少しずつこぼれていく。
「前と同じように、一緒に笑って、一緒に過ごしたかった。でも……駄目だった」
アルベール。
もう私を「芳乃」と呼んでくれない人。
私を知らない人。
それでも、大切だった人。
その事実まで消してしまうことはできない。
「そっか」
芳乃は、それだけ言った。
しばらく、二人で大樹を見上げた。
やがて私は、小さく息を吐いた。
「ねえ」
「なあに?」
「今度は、もっといっぱい話したいな」
「うん!」
「それから……一緒に遊びたい」
「遊ぶ?」
小さな芳乃は、少しだけ胸を張った。
「私、ゲームなら結構得意だったんだよ」
「げーむ?」
「……あ」
思わず顔を見合わせる。
「そっか。そこから説明しないと駄目なんだ」
「げーむって、なに?」
「ええっとね……」
どう説明すればいいのだろう。
小さな芳乃が考え込んでいる。
その様子を見ているうちに、なんだかおかしくなってきた。
私が笑うと、芳乃も笑った。
大樹の下に、二人の笑い声が重なった。
あの日と同じように。
でも、今度は違う。
もう、名前だけではない。
これから知っていけばいい。
好きなものも。
嫌いなものも。
どんな遊びが好きなのかも。
どんな食べ物が好きなのかも。
話したいことは、いくらでもあった。
「芳乃ちゃんは、これからどうするの?」
不意に尋ねられて、私は言葉を失った。
これから。
考えていなかった。
そのときだった。
大樹の葉が、さわりと揺れた。
「……?」
顔を上げる。
一瞬、見知らぬ時間が重なった。
私とよく似た少女。
その隣には、アルベールがいる。
けれど、何かが違う。
私たちとは違う。
それでも彼は、その少女を確かに――
「芳乃」と呼んだ。
「……今のは?」
私は思わず立ち上がった。
けれど、そこにはもう何もない。
大樹の葉が、静かに揺れているだけだった。
あれが何だったのか、私には分からない。
過去なのか。
未来なのか。
それとも――どこかにある、別の時間なのか。
「芳乃ちゃん?」
小さな芳乃が、不思議そうに私を見る。
「……ううん。なんでもない」
なぜだろう。
不思議と、悲しくはなかった。
あの人が「芳乃」と呼ぶ声だけが、いつまでも耳に残っていた。
「私ね」
私は大樹から目を離した。
「もう、帰るところもないんだ」
帰る家はない。
私を待っている家族もいない。
世界は、私がいた痕跡をすべて消してしまった。
「……だから、これからどうしたらいいのか、分からない」
それが、今の私に言えるすべてだった。
芳乃は少し考え込んだ。
そして、何かを思いついたように顔を上げた。
「じゃあ、一緒に食堂をやらない?」
「……食堂?」
思いもしなかった言葉だった。
「うん」
「私たちが?」
「二人で」
芳乃は当たり前のことのように笑っている。
料理はどうするのか。
店はどうするのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
それなのに。
「……ふふっ」
笑ってしまった。
「変かな?」
「ううん」
私は首を振った。
「やってみたい」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
これから何をしたいのか。
そんなことを考えたのは、いつ以来だろう。
アルベールと過ごした時間は戻らない。
失ったものも、なかったことにはできない。
きっと、これからも思い出す。
悲しくなる日もあるだろう。
それでも。
「一緒にやろう」
「うん!」
小さな芳乃が笑った。
「それから、ゲームも教えてあげる」
「げーむ……」
私はまだ聞き慣れない言葉を繰り返した。
「まずはそこからだね」
また、二人で笑った。
失った時間は、もう戻らない。
けれど。
これから作っていく時間まで、失ったわけではない。
世界から私の居場所は消えてしまった。
だったら――。
これから、新しい居場所を作ればいい。
一人ではなく。
あの日、また会おうと約束した人と一緒に。
頭上で、大樹の葉が静かに揺れた。
長い長い時を越えて。
二人の芳乃が交わした約束を、ようやく見届けたかのように。
そして私たちは、もう一度歩き始めた。
今度は――二人で。




