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静寂の檻、遠き雷鳴  作者: 久遠 睦


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第三章:赤土の迷宮

 世界から色が消え、漆黒の闇が訪れた時、紗江は自分がとんでもない過ちを犯したのではないかと後悔し始めていた。


 ルカに連れられて辿り着いたその村は、紗江の想像を絶する場所に在った。  幹線道路から乗合バスを乗り継ぎ、さらに荷台だけのトラックに揺られ、最後は道なき道を一時間以上歩いた先。  アカシアのとげで作られたボマに囲まれた集落。それがルカの故郷だった。


 電気はない。ガスも、水道もない。  あるのは、牛の糞と土を固めて作られた低い家々と、家畜の強烈な獣臭、そして飛び交うハエの羽音だけだ。


「ここが、俺の家だ」


 ルカは平然と言ったが、紗江は言葉を失っていた。  村人たちが集まってくる。極彩色の布を巻き、ビーズの装飾品をつけた女性たちや、半裸の子供たち。彼らは異星人を見るような目で紗江を取り囲み、早口の現地語で何かを囁き合っている。  好奇心と、警戒心。  子供の一人が恐る恐る手を伸ばし、紗江の白い肌に触れた。そして「キャッ」と声を上げて逃げていく。  紗江は晒し者にされた見世物のように、ただ硬直して立ち尽くすしかなかった。


「……トイレは、どこ?」


 長時間移動の疲れもあり、紗江は切実な問いをルカに投げかけた。  ルカは顎で柵の外の茂みをしゃくった。


「あっちだ。ハイエナが出るかもしれないから、あまり遠くへ行くなよ」 「え……?」 「冗談じゃないぞ。ここは動物たちの領域だ。人間はお邪魔させてもらってる立場なんだ」


 青ざめる紗江を置いて、ルカは「母さん!」と叫んで一軒の家に入っていった。  残された紗江は、東京の清潔な温水洗浄便座を思い出し、眩暈めまいがした。  とんでもないところに来てしまった。  癒やし? 救済? そんなロマンチックなものはここにはない。あるのは、生きるか死ぬかという、あまりに原始的で粗野な現実だけだ。  私はここで、一晩たりとも耐えられないかもしれない。


 しかし、夜は容赦なく訪れた。  太陽が地平線に沈むと、世界は一瞬で闇に塗りつぶされた。  街灯など一本もない。家の中には小さなランプの火が揺れるだけで、手元さえおぼつかない。


 夕食は、焚き火を囲んで行われた。  メニューは、トウモロコシの粉を練った白いウガリと、ヤギ肉の煮込みだけ。  フォークもスプーンもない。ルカや家族たちは、器用に右手でウガリを丸め、スープに浸して口に運んでいる。  紗江も見よう見まねで手を伸ばした。  指先が熱い。衛生面への不安が頭をよぎる。けれど、空腹はプライドを凌駕していた。


 口に入れる。  味付けは塩だけのシンプルなものだ。しかし、噛みしめると穀物の甘みと、肉の野性味あふれる旨味が口いっぱいに広がった。


「……おいしい」


 思わず呟くと、ルカの母親らしき老女が、皺くちゃの顔をほころばせて何か言った。 「歓迎する、と言ってるよ」とルカが訳す。


 食事を終える頃には、焚き火の爆ぜる音だけが響いていた。  パチッ、パチッ。  オレンジ色の炎が、人々の顔を照らし出している。  スマホを見る人もいない。テレビの音もない。  ただ、火を見つめ、静かに過ごす時間。  東京では、「何もしない時間」は不安の種だった。時間を無駄にしているという焦燥感に駆られたものだ。  けれどここでは、何もしないことが、とても自然で豊かなことに思えた。


「上を見てみろ」


 ルカに促され、紗江は夜空を見上げた。


「あっ……」


 息を飲んだ。  そこには、空という概念を覆す光景があった。  星。星。星。  隙間がないほどに埋め尽くされた光の粒。天の川が、まるで白い雲のように空を横切っている。  あまりにも星が多すぎて、星座の形さえ分からない。  自分が宇宙の中に浮かんでいるような、圧倒的な浮遊感。


「すごい……」 「ここでは、星が近すぎるんだ」  ルカは焚き火に枝をくべながら言った。 「東京の空は、ビルの明かりで見えないんだろう? 自分たちが作った光で、本当の光を消してしまっている」


 本当の光。  紗江は首が痛くなるまで空を見上げ続けた。  この巨大な宇宙の下では、私が抱えている悩みも、罪も、悲しみも、砂粒ひとつ分の重さもないように思えた。  あるいは、その砂粒も含めて、すべてがこの星空の一部として許されているような。


 不便だ。不潔だ。過酷だ。  けれど、この静寂はなんだろう。  心臓の鼓動が、大地の脈動と同期していくような感覚。  日本にいた頃、あんなに欲しくてたまらなかった睡眠導入剤が、ここには必要ない。


「長老には、明日の朝、会わせてやる」  ルカが立ち上がり、寝床となる小屋へ案内してくれた。  ベッドとは名ばかりの、硬い牛皮を敷いただけの寝床。  けれど、横になった瞬間、紗江の意識は泥のように沈んでいった。


 遠くで、ハイエナの鳴き声が聞こえる。  それは恐怖ではなく、子守唄のように響いた。  私は今、地球の鼓動の中で眠っている。  その確かな実感が、傷ついた紗江の魂を、少しずつ、少しずつ癒やし始めていた。



 鶏の鳴き声と、牛の首につけられたベルの音で目が覚めた。  目覚まし時計の電子音がない朝は、不思議なほど穏やかだった。  硬い牛皮の寝床で身体は少し痛んだが、頭の中にかかっていた霧は晴れている気がした。


 小屋を出ると、すでに村は動き出していた。  女たちが楽しげに歌いながら牛の乳を搾り、子供たちが走り回っている。  紗江は井戸水が入ったバケツで顔を洗い、ルカから渡されたチャイ(ミルクティー)を飲んだ。砂糖とスパイスがたっぷりと入った甘い液体が、空っぽの胃に染み渡る。


「眠れたか?」  ルカが近づいてきた。朝陽を浴びた彼は、昨日よりもさらに逞しく見えた。 「うん。思ったよりもずっと深く」 「それはよかった。……準備ができたら、長老のところへ行こう。待っているはずだ」


 紗江はカップを置き、居住まいを正した。  いよいよだ。  ここに来た本当の目的。私の呪いを解くための審判の時。


 案内されたのは、村の最も奥にある、少し大きな円形の小屋だった。  入り口には得体の知れない動物の骨や、乾燥した植物の束が飾られている。  中に入ると、外の陽光とは対照的な薄暗さに包まれた。薬草をいぶしたような、甘く重たい香りが充満している。


 その奥に、一人の老人が座っていた。  紗江は息を飲んだ。  老人という言葉では足りない。まるで数百年を生きた古木のような佇まいだった。皮膚は乾燥した大地のようにひび割れ、深く刻まれた皺の一つ一つに歴史が宿っているようだ。  しかし、その瞳だけが、暗闇の中で松明のように鋭く光っていた。


「座りなさい」  ルカが促し、紗江は老人の前のゴザに正座した。  ルカは紗江の横に座り、通訳の役を買って出るようだ。


 老人はしばらくの間、何も言わずに紗江をじっと見つめていた。  値踏みするような視線ではない。紗江の皮膚を透過し、内臓を見透かし、さらにその奥にある魂の形を確認しているような、絶対的な視線だった。  紗江は思わず目を逸らしたくなったが、蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。


 やがて、老人が乾いた唇を開き、低くしわがれた声で何かを言った。  現地語の響きは呪文のように聞こえた。


「『お前の後ろに、二人立っている』と言っている」


 ルカの訳を聞いた瞬間、紗江の背筋に冷たいものが走った。


「一人は男。もう一人は、小さな子供だ」


 心臓が止まるかと思った。  ルカには何も話していない。もちろん、この老人にも。  なのに、なぜ。


「……彼らは、怒っているのですか?」  紗江は震える声で尋ねた。  きっとそうだ。私を恨んで、私を許さないために、ずっと憑いているのだ。


 老人は紗江の問いを聞くと、ゆっくりと首を横に振った。  そして、今まで聞いたこともないほど優しい響きの言葉を紡いだ。


「『違う』と、長老は言っている」  ルカが静かに訳す。 「彼らは怒っていない。悲しんでいるのだ、と」 「悲しんで……?」 「そうだ。『お前が彼らを離そうとしないから、彼らも逝くことができずに困っている』と言っている」


 頭を殴られたような衝撃だった。  私が、離そうとしていない?  逆だ。私は忘れたくて、逃げたくて、ここまで来たのに。


「そんなはずはありません! 私は……私は毎日、忘れたいと願っています。彼らのことを考えると苦しくて、消えてしまいたくて……」


 紗江の叫びを聞いても、老人の表情は変わらなかった。  老人は骨のような指で、紗江の胸元を指差した。


「口ではそう言うが、魂は違うことを叫んでいる。『私が悪い』『私が殺した』『私が幸せになってはいけない』……そうやって自分を鎖で縛り上げ、その鎖の端を、死者たちに握らせているのはお前自身だ」


 ルカの言葉の一つ一つが、鋭いナイフとなって紗江の心の防壁を切り裂いていく。


「お前は、自分が罪人であるという物語に安住している。その物語の中にいれば、これ以上傷つかずに済むからだ。死者を盾にして、生きることから逃げているだけだ」


「……っ」


 反論できなかった。  図星だった。  罪悪感は苦しい。けれど、それは同時に甘美な免罪符でもあった。「私は罪人だから」と自分を卑下していれば、新しい挑戦もしなくていい。誰かと深く関わる必要もない。幸せになるための努力もしなくていい。  私は、彼らの死を利用して、自分の殻に閉じこもっていただけなのか。


 涙が溢れた。  止まらなかった。  これまで流せなかった涙が、堰を切ったように流れ落ちた。


「私は……私は……っ、ただ、彼らに笑ってほしかった……。あの子に、もっと生きてほしかった……!」


 紗江は床に崩れ落ち、声を上げて泣いた。  薄暗い小屋の中に、二十九歳の女性の、子供のような慟哭が響き渡った。  誰も止めなかった。  ルカも、長老も、ただ静かに彼女が泣き止むのを待っていた。まるで、体の中の毒素が涙と共に排出されるのを見守るように。


 どれくらいの時間が経っただろうか。  涙が枯れ、呼吸が整い始めた頃、老人が手招きをした。  這うようにして近づくと、老人は古びた木の器に入った、白い粘土のようなものを指先につけ、紗江の額に塗った。  ひんやりとして、土の匂いがした。


「今夜、儀式を行う」  ルカが告げた。 「お前が握りしめている鎖を断ち切るための儀式だ。だが、最後に鎖を離すかどうかは、お前次第だ」


 老人は、深く、静かな瞳で紗江を見つめ、一言だけ日本語のような響きの言葉を口にした。


「ポレポレ(ゆっくりとな)」


 スワヒリ語で「ゆっくり」という意味だと、後で知った。  焦ることはない。時間はかかるものだ。傷が癒えるのと同じように。


 小屋を出ると、外の陽光が眩しかった。  けれど、その眩しさは、昨日までのように痛いものではなかった。  額に塗られた白い土が乾いていくのを感じながら、紗江は大きく息を吸い込んだ。  肺の奥まで、アフリカの風が入ってきた。


 今夜。  私は、本当の意味で彼らと別れるのだ。



 夜のとばりが下りると同時に、世界はその様相を一変させた。


 ドォン、ドォン、ドォン……。  腹の底に響くような、重く低い音が大地を震わせ始めた。太鼓の音だ。  村の中央広場には、昼間のうちに積み上げられた木材が山となり、そこに火が放たれた。  轟音と共に炎が天を焦がす勢いで舞い上がる。その高さは数メートルにも及び、爆ぜる火の粉が星空に向かって赤い雪のように舞い散っていく。


 紗江はルカに連れられ、広場の端に立っていた。  村中の人々が集まっている。男も女も、老人も子供も。  彼らの肌は炎の照り返しで赤銅色に輝き、瞳はトランス状態のように一点を見つめていた。


「始まるぞ」  ルカが紗江の耳元で叫んだ。太鼓の音と、人々の歌声にかき消されそうだったからだ。 「これは祭りであり、とむらいであり、誕生の儀式だ。紗江、お前のためだけの夜だ」


 お前のためだけの夜。  その言葉に、紗江は身震いした。  怖い。  東京の整然としたオフィスや、静かなマンションの一室とは対極にある光景。ここにあるのは、剥き出しの「生」と「熱」だ。理性を保とうとする紗江の本能が、ここから逃げ出せと警告を発している。


 しかし、逃げ場などどこにもなかった。  太鼓のリズムが早くなる。  ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ。  それは心臓の鼓動よりも早く、強く、強制的に紗江の血流を加速させた。


 長老が現れた。  極彩色の羽飾りを頭につけ、杖を掲げている。彼が一声叫ぶと、村人たちが一斉に奇声を上げ、火の周りを回り始めた。  ダンスだ。  だが、それは優雅な舞踊などではない。  大地を強く踏み鳴らし、天に向かって手を突き上げ、全身を激しく揺さぶる。魂の咆哮ほうこうのような動き。


 ルカが紗江の手を引いた。 「来い! 見るんじゃない、やるんだ!」 「無理よ! 私、踊れない……!」 「頭で考えるな! 身体の中の毒を、汗と一緒に全部絞り出せ!」


 強引に輪の中へ引きずり込まれる。  熱い。火の熱気と、人々の体温で息が詰まりそうになる。  隣の女性が、何かの呪文のような歌を歌いながら、激しく肩を揺らしている。彼女の汗が飛び散り、紗江の頬にかかる。  不潔だとか、失礼だとか、そんな概念は一瞬で吹き飛んだ。


 ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ!


 音が、紗江の思考回路を断ち切っていく。  もう、恥じらっている余裕などなかった。  見よう見まねで足を動かす。大地を踏む。ドン。踏む。ドン。  硬い赤土の感触が足の裏から伝わり、背骨を駆け上がる。


「うああああっ!」  誰かの叫び声が聞こえる。それが自分の喉から出ていることに気づくのに、数秒かかった。


 身体が熱い。  心臓が破裂しそうだ。  けれど、足を止められない。太鼓のリズムが、紗江の身体を操り人形のように動かし続ける。


 踊っているうちに、視界が滲んできた。  炎の揺らめきの中に、幻影が見える。


 ――ママ、見て。  無邪気に笑う息子の顔。  ――紗江、愛してるよ。  優しく微笑む夫の顔。


 あの日以来、思い出すたびに鋭い痛みと共に現れた彼らの顔が、今は炎の中で揺れている。  苦しい。悲しい。会いたい。  感情の濁流が渦を巻き、紗江の胸を引き裂く。


「許して……! お願い、私を許して……!」


 歌声に紛れて、紗江は絶叫した。  日本語の意味など、誰も分からない。けれど、その悲痛な響きだけは、周囲の村人たちに伝播したようだった。  彼らはより一層激しく大地を踏み鳴らし、紗江を囲むようにして歌のボリュームを上げた。  まるで、彼女の悲しみを音の壁で閉じ込め、粉々に砕こうとするかのように。


 髪は振り乱され、顔に塗られた白い土は汗と涙でドロドロに溶け落ちていた。  美しい雨宮紗江は、もういない。  そこにいるのは、ただ一匹の、傷つき、咆哮する獣だった。


 何分経ったのか、何時間経ったのか。  時間の感覚は消失していた。  ふいに、長老が杖を振り下ろした。


 ドンッ!


 太鼓の音がピタリと止んだ。  静寂が、爆発音のように耳を打つ。  荒い息遣いだけが広場に響く。  紗江はその場に膝から崩れ落ちた。足の感覚がない。肺が焼けるように熱い。  けれど、不思議な感覚があった。  身体の中身が、ごっそりと入れ替わったような空虚感と、そして清涼感。


 長老がゆっくりと、倒れ込んだ紗江の前に歩み寄ってきた。  炎を背にしたその姿は、巨大な影となって紗江を覆った。


「出したか」  ルカが訳す前に、紗江にはその意味が分かった気がした。


 紗江は肩で息をしながら、濡れた顔を上げた。  涙なのか汗なのか分からない液体が、顎から滴り落ちる。  その雫は、赤土の大地に吸い込まれ、一瞬で消えた。


「……はい」


 掠れた声で答える。  出し切った。  六年分のうみを、後悔を、自己憐憫を。  この灼熱のダンスの中で、全て吐き出した。


 長老は満足そうに頷くと、懐から何かを取り出した。  それは、小さな乾燥した木の実のようなものだった。


「ここからが、仕上げだ」  ルカが紗江の肩に手を置いた。 「お前が持ってきた『一番大切な重荷』を、ここへ出せ」


 紗江は震える手で、ポケットを探った。  ずっと肌身離さず持っていた、あの手帳。  その間に挟まれた、一枚の写真。


 いよいよ、その時が来たのだ。



 紗江の手の中で、一枚の写真が小刻みに震えていた。


 手帳から取り出したその写真は、先ほどの激しいダンスによる汗と熱気で少し湿り、端がよれてしまっていた。  けれど、そこに写る夫と息子の笑顔は、あの日のまま鮮明だった。  紗江にとっては、この長方形の紙切れこそが、彼らがこの世に存在した唯一の証拠であり、同時に彼女を責めさいなむ罪状でもあった。


 これを、燃やす?


 紗江は目の前で荒れ狂う炎を見上げた。  熱い。近づくだけで皮膚が焼けるようだ。  この業火ごうかの中に彼らを投げ込めば、一瞬で灰になるだろう。  そうすれば、本当に何もなくなってしまう。私の罪も消える代わりに、彼らとの繋がりも断ち切られてしまう。


「……できない」


 紗江は写真を胸に抱き寄せ、首を振った。  後ずさりしようとする。  罪悪感という鎖が、再び紗江の足首に絡みつく。「忘れるな」「裏切るな」という幻聴が聞こえる。


 その時、長老が静かに杖を地面に突いた。  彼はルカに向かって、短く言葉をかけた。


「長老が言っている」  ルカの声は、夜の空気のように澄んでいた。 「『お前は勘違いをしている。火は消滅ではない。火は、かえすものだ』」


「……還す?」


「『そうだ。形あるものを解き放ち、煙に変え、天上の星へと還す乗り物だ。お前は彼らを、いつまでその小さな紙の中に閉じ込めておくつもりだ?』」


 紗江はハッとして写真を見た。  色褪せた紙の中。静止した時間。  私は、彼らを愛していると言いながら、実は彼らをこの狭い檻の中に監禁していただけなのかもしれない。自分の罪悪感を満たすための道具として。


「『彼らは自由になりたがっている。そして、お前の中で生きたがっている』」


 私の中で、生きる。


 長老がゆっくりと手を開き、炎を指し示した。  それは命令ではなかった。許しであり、導きだった。


 紗江は深呼吸をした。  肺の奥まで、薪の焼ける匂いが満ちる。  指先の力が抜けていく。


「……ごめんね」


 紗江は写真に向かって呟いた。  それは謝罪ではなかった。長い間、引き止めてしまったことへの詫びと、そして愛の言葉だった。


「……さようなら」


 腕を伸ばす。  指を離す。


 ひらりと、写真が宙を舞った。  上昇気流に乗った写真は、一瞬だけふわりと浮き上がり、次の瞬間、赤い炎の舌に飲み込まれた。


 ジッ。


 燃える音は、あまりにも短く、儚かった。  夫の笑顔が、息子の愛らしい瞳が、黒く変色し、崩れ落ち、そして白い煙となって夜空へと昇っていく。  紗江はその行方を、涙で見えなくなるまで目で追った。  煙は天の川へと吸い込まれ、星の一部になったように見えた。


 胸の中にぽっかりと穴が空いた気がした。  けれど、それは喪失感ではなかった。  風が通り抜けるような、清々しい空洞だった。


 長老が近づいてきた。  紗江の目の前に立つと、彼は両手を広げ、紗江のこめかみを挟むようにして触れた。  温かく、乾いたてのひら


 長老は紗江の目を覗き込み、呪文のような言葉を唱えた。  低く、地響きのように響く声。


「――サファリ・ニ・ンデフ、ラキニ・ウポ・ナ・ワオ」


 言葉の意味は分からなかった。  けれど、その響きが鼓膜を震わせた瞬間、紗江の身体の内側で何かが弾けた。  背負っていた重い鉛が溶け出し、温かい血液となって全身を巡り始める感覚。


 ルカが静かに訳した。


「『旅は長い。だが、彼らはお前の中にいる』」


 ルカは言葉を続けた。 「長老からの、おまじないだ。 『お前はもう、彼らの墓守ではない。  お前は、彼らの目となり、足となり、この美しい世界を見るための器だ。  お前が笑えば、彼らも笑う。  お前が生きれば、彼らも生きる。  だから、背負うな。ただ、共に在れ』」


 共に在れ。


 その言葉が、空っぽだった紗江の胸の穴に、すっぽりと収まった。  忘れる必要などなかったのだ。  ただ、持ち方を変えればよかったのだ。  重い荷物として背中に担ぐのではなく、自分の細胞の一つ一つに溶かしてしまえばよかったのだ。


 紗江の目から、再び涙が溢れた。  それは先ほどの激しい慟哭とは違う、温かく、静かな涙だった。  十年分くらいの息を、一度に吐き出したような気がした。


「……はい」


 紗江は地面に額を擦り付けるようにして、長老に平伏した。  言葉にならなかった。  ただ、感謝の念だけが全身を駆け巡っていた。


 炎が静かに小さくなっていく。  祭りの後の静寂が戻ってくる。  しかし、紗江の世界はもう、以前のような灰色ではなかった。  夜空の星も、土の匂いも、遠くで聞こえる虫の音も、すべてが鮮やかに、生き生きと感じられた。


 私は生きている。  そして、私の中で、彼らもまた生きている。


 二十九歳の夜。  アフリカの赤土の上で、雨宮紗江は初めて、自分の人生を肯定することができた。



 夜明け前、世界がまだ青黒い闇に包まれている頃、紗江は目を覚ました。  目覚めは驚くほど軽やかだった。  毎朝、鉛のように重かったまぶたが、今日は羽のように開いた。  小屋の外に出ると、空気は凛と冷たく、昨夜の儀式の熱狂が嘘のように静まり返っていた。


 広場の中央には、燃え尽きた焚き火の跡があった。  山のように積まれていた木材は、真っ白な灰へと姿を変えている。  紗江はその灰の山に近づき、しゃがみ込んだ。  まだ微かに熱を帯びている。  この白い灰の中に、あの写真の分子も混ざっているのだろうか。  紗江はそっと灰に触れた。指先が黒く汚れたが、不思議と汚いとは感じなかった。  それは、終わりの色であり、始まりの色でもあった。


「行くのか」


 背後から声をかけられた。  振り返ると、ルカが立っていた。彼はまだ眠そうな目を擦りながらも、紗江の姿を見て微かに微笑んだ。


「うん。……ありがとう、ルカ。本当に」 「礼を言うのは俺じゃない。じいさん(長老)と、あんた自身だ」


 ルカは紗江の顔を覗き込んだ。 「いい顔になった。昨日は死に損ないの幽霊みたいだったが、今はちゃんと人間だ」 「ひどい言い草ね」  紗江は苦笑した。自然と笑みがこぼれたのは、いつぶりだろうか。  頬の筋肉が強張らずに動く感覚が、新鮮だった。


 荷造りはすぐに終わった。  バックパックの重さは変わらない。けれど、背負った時の感覚は劇的に軽くなっていた。  一番大切なポケットに入っていた手帳は、もう膨らんでいない。  空っぽになったその隙間に、紗江はアフリカの乾いた空気と、新しい決意を詰め込んだ。


 長老の小屋の前まで行き、深々と頭を下げた。  小屋の中からは、規則正しい寝息が聞こえるだけだった。挨拶はいらない。言葉以上のものを、昨夜すでに受け取ったのだから。  紗江は心の中で「アサンテ(ありがとう)」と呟き、きびすを返した。


 村の入り口まで、ルカが見送りに来てくれた。  朝日が地平線から顔を出し、草原を黄金色に染め始めている。


「この道をまっすぐ行けば、二時間ほどで幹線道路に出る。そこからナイロビ行きのバスを拾え」 「分かった」 「気をつけてな。……また、迷ったら来ればいい」


 ルカの言葉に、紗江は首を横に振った。


「ううん。もう迷わないと思う」  紗江はまっすぐにルカの目を見て言った。 「迷路の出口は、もう見つけたから」


 ルカは眩しそうに目を細め、短く「そうか」と言って、右手を差し出した。  紗江はその手をしっかりと握り返した。  強く、温かく、ざらついた手。  この手の温もりを、私は一生忘れないだろう。


 別れの言葉は短かった。  紗江は背を向け、歩き出した。  一度も振り返らなかった。  振り返れば、寂しさが決意を鈍らせてしまいそうだったからだ。


 ザッ、ザッ、ザッ。  赤土を踏むブーツの音が、規則正しく響く。  一人だ。  広大なサバンナの真ん中で、私はたった一つの点に過ぎない。  けれど、孤独ではなかった。


 ――お前はもう、彼らの墓守ではない。  ――共に生きる器だ。


 長老の言葉が、風に乗って聞こえた気がした。  空を見上げる。  抜けるような青。  その青の中に、夫と息子の気配が溶けているのを感じた。  彼らはもう、私の背中に張り付く亡霊ではない。私の隣を歩き、私の目を通してこの世界を見ている、光の粒子だ。


「行こう」


 紗江は前を向いた。  この道の先には、またあの喧騒と、複雑で息苦しい社会が待っている。  けれど、今の私なら大丈夫だ。  どんな色の世界に戻っても、私の中にあるこの鮮やかな赤と青は、決して消えない。


 紗江の歩調が速くなる。  その背中は、来た時よりもひと回り大きく、そして揺るぎない力強さを帯びていた。  影が長く伸び、彼女の進むべき道を指し示していた。


 二十九歳の旅は、まだ終わらない。  これは、帰還の旅ではない。  新しい雨宮紗江として、世界と再び出会うための、はじまりの旅路だった。


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