第一章:灰色の水槽
1
午前十時のオフィスは、乾いた電子音とキーボードを叩く硬質な音で満たされていた。 都心にある中堅商社の営業事務フロア。空調は常に一定の温度に保たれ、窓の外の季節が春なのか秋なのかさえ、ここには関係がないように思える。 紗江は自身のデスクで、膨大な伝票の数字をひたすらエクセルのセルに打ち込んでいた。 正確に、迅速に。思考を挟む余地を与えない単純作業は、紗江にとって精神安定剤のようなものだった。数字は嘘をつかない。感情を持たない。ただそこにある事実として並んでいるだけだ。それが今の紗江には何よりも心地よかった。
「あ、雨宮先輩。ここ、ちょっといいですか?」
斜め向かいの席から声がかかる。後輩の絵里子だ。入社三年目、二十五歳。明るく染めた栗色の巻き髪と、流行のオフィスカジュアルを着こなす彼女は、この無機質なフロアに咲いた造花のように華やかだ。
「うん、どうしたの?」
紗江はモニターから視線を外し、極めて穏やかな、訓練された微笑みを浮かべて顔を上げた。 絵里子が持ってきた書類の不備を指摘し、訂正箇所を教える。紗江の説明は常に簡潔で分かりやすいと評判だった。感情を乗せない言葉は、余計なノイズがない分、相手に届きやすいのかもしれない。
「ありがとうございますぅ。やっぱり先輩すごい。私、ここ何回やっても間違えちゃって」 「慣れだよ。ここさえ気をつければ、あとは同じパターンの繰り返しだから」 「はーい。……あ、そういえば雨宮先輩」
業務の話が終わった瞬間、絵里子の声のトーンが少し低く、親密な響きを帯びた。紗江の背筋がわずかに強張る。
「先輩って、やっぱり今年の社内イベント、パスですか? 営業二課の佐藤さんが、雨宮さんも誘ってよってうるさくて」
社内イベント。バーベキューか、あるいは屋形船か。内容は聞いてすらいなかったが、紗江にとっては拷問と同義語だ。アルコールの入った空間、無防備な会話、「プライベート」という領域への土足での侵入。
「ごめんね。その日はちょっと、先約があって」
嘘だ。予定など何もない。あるとすれば、薄暗い自室で読みかけの本を読み、死んだように眠るだけだ。 しかし、絵里子は疑う様子もなく、「ですよねぇ」と大げさに肩をすくめた。
「先輩、ミステリアスすぎますよ。こないだの合コンの誘いも断っちゃうし。佐藤さん、先輩のこと『高嶺の花』だって言ってましたよ。美人なのに隙がないって」 「……買い被りすぎだよ。ただ、人付き合いが苦手なだけ」
美人。高嶺の花。 その言葉が耳に入るたび、紗江の胸の奥で、ドロリとした何かが蠢くのを感じる。 もし佐藤という男が、あるいは目の前の絵里子が、私の内側に巣食う「秘密」を知ったとしたら。彼らは同じ言葉を吐けるだろうか。 おそらく、絶句するだろう。そして、汚らわしいものを見る目で私を軽蔑し、二度と近づこうとはしないはずだ。 紗江はデスクの下で、膝の上に乗せた両手をきつく握りしめた。爪が手のひらに食い込む痛みが、浮つきそうになる意識を現実に繋ぎ止める。
「まあ、佐藤さんは諦めてもらうとして。……ねえ先輩、これ見てくださいよ」
絵里子は周囲を憚るように声を潜め、自分のスマートフォンの画面を紗江に向けた。 画面いっぱいに表示されていたのは、薬指に嵌められた婚約指輪の写真だった。背景には夜景の見えるレストラン。典型的な、そして完璧な「幸せ」の具現化。
「同期のミナ、昨日プロポーズされたんですって。一カラットですよ、すごくないですか?」 「……へえ、すごいね。綺麗」
紗江は精一杯の相槌を打った。 ダイヤモンドの輝きが、網膜を刺す。それはあまりにも眩しく、あまりにも遠い世界の光景だった。 同年代の女性たちが当たり前に夢見、当たり前に手に入れていく幸福。結婚、家庭、子供、未来。 それらは全て、紗江が二十八年前に生を受けた瞬間には持っていたはずの選択肢だった。しかし、ある時点を境に、それらは全て焼却されたのだ。彼女自身の手によって、あるいは運命という名の残酷な手によって。
「いいなぁ、私も早く結婚したい。先輩は結婚願望とか、ないんですか?」
無邪気な刃が、紗江の心臓を正確に貫く。 結婚願望。 そんな言葉を口にする資格さえ、私にはない。誰かを愛すること、誰かに愛されること。それは「秘密」を持つ私にとって、最大の禁忌なのだから。
「……私は、そういうの向いてないから」
曖昧に笑って、紗江は視線をパソコンの画面に戻した。これ以上、この話題を続けさせるわけにはいかない。 絵里子は少しつまらなそうな顔をしたが、すぐに「じゃあ、仕事戻りまーす」と軽い足取りで自分の席へ帰っていった。
後に残されたのは、再びの静寂と、より一層濃くなった孤独の気配だけだった。 キーボードに指を置く。 カタ、カタ、カタ。 無機質な音が、紗江の鼓動と重なる。 私はここで、ただ息をしているだけの装置だ。仕事をこなし、給料をもらい、誰にも迷惑をかけずに生きていく。それ以上の何かを望むことは、許されない。
ふと、視界の隅に入ったカレンダーを見る。 二十八歳。 あと一年と少しで、二十九歳になる。 三十代という未知の領域が近づいてくる恐怖と、何も変わらないまま歳を重ねていく絶望。 その時、ふと胸の奥の「秘密」が熱を持った気がした。 ――お前は逃げられない。 そんな声が聞こえたような気がして、紗江は思わず息を止めた。
昼休みを告げるチャイムが鳴るまで、あと一時間。 紗江は逃げるように、再び数字の羅列の中へと没入していった。
2
玄関の鍵を閉める音は、世界との境界線を引く音だ。 カチャリ、という冷たい金属音が響いた瞬間、紗江の肩からようやく力が抜けた。 オートロックのマンションの三階。1LDKのこの部屋だけが、紗江にとって唯一、息をすることが許された場所だった。
部屋の空気は、朝出かけた時のまま澱んでいる。 誰の匂いもしない。生活の温かみもない。モデルルームのように片付いた部屋は、住人の気配を拒絶しているかのようだった。余計なものを置かないのは、趣味ではなく防衛本能だ。物が少なければ、過去を思い出させるトリガーも減る。そう信じて、紗江は身の回りのものを極限まで削ぎ落として生活していた。
ヒールを脱ぎ揃え、スーツのジャケットをハンガーにかける。 キッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に喉へ流し込んだ。冷たさが食道を落ちていき、身体の内側の熱を無理やり冷ましていく。 ふと、シンクのステンレスに映り込んだ自分の顔を見た。 能面のような無表情。会社で見せていた柔和な微笑みは、もう跡形もない。
「……疲れた」
独り言は、壁に吸い込まれて消えた。 夕食を作る気力はなかった。帰りにコンビニで買ったサラダと、味気ないサンドイッチをテーブルに置く。テレビはつけない。バラエティ番組の笑い声や、ニュースキャスターの深刻ぶった声は、今の紗江には雑音でしかなかった。
無音の中で食事を摂る。咀嚼音だけが耳に響く。 味などわからなかった。ただ、生命を維持するために必要なカロリーを摂取している、それだけの作業だ。 かつて、紗江にも「美味しい」と笑い合える食卓があったはずだ。温かい湯気、家族の会話、テレビの音。けれど、それらの記憶は濃い霧の向こう側にあり、手を伸ばそうとすれば、鋭い痛みが胸を走る。
――お前には、幸せになる権利なんてない。
脳裏にこびりついたその言葉が、サラダのドレッシングの酸味と共に蘇る。 誰に言われたわけでもない。紗江自身が、毎晩のように自分自身に言い聞かせている呪いの言葉だ。 あの日。あの瞬間。紗江の人生は不可逆的にねじ曲がった。 誰にも言えない秘密。それを抱えたまま生きると決めた時、紗江は自分の未来を、自分で殺したのだ。
食事を終え、シャワーを浴びる。 熱い湯が肌を叩く。メイクを落とし、素の自分に戻るこの時間は、禊にも似ていた。けれど、どれだけ丁寧に肌を洗っても、皮膚の下に染みついた「汚れ」までは落ちない気がした。 鏡の前で髪を拭きながら、紗江は自分の身体を見つめる。 二十八歳の、女性の身体。 本来ならば、誰かに愛され、抱きしめられるためにあるはずのその身体は、紗江にとっては罪を閉じ込めておくための器でしかなかった。
寝室に入り、ベッドに潜り込む。 シーツの冷たさが心地よかった。目を閉じると、暗闇の中に様々なイメージが浮かんでは消える。 昼間、絵里子が見せてくれた婚約指輪の輝き。 すれ違うカップルの繋いだ手。 それらが、鋭い棘となって紗江の心を突く。羨望ではない。嫉妬ですらない。ただ、自分があの世界から永久追放された存在であることを再確認させられる、鈍い痛みだ。
枕元のスマートフォンを手に取る。 検索履歴には、相変わらず無意味な言葉が並んでいる。『過去 忘れる方法』『罪悪感 消し方』『一人で生きる 老後』。 指先が滑り、ふとあるサイトが表示された。 アフリカの旅行記だった。 なぜそれを開いたのかは分からない。ただ、画面の中に広がる赤土の大地と、どこまでも続くサバンナの空が、妙に紗江の目を引いた。 そこには、日本の社会のような複雑な人間関係も、紗江を縛る世間の目もないように見えた。あるのは、生と死が隣り合わせにある、剥き出しの自然だけ。
「……遠いな」
呟いて、画面を消した。 今の自分には関係のない世界だ。飛行機のチケットを買う勇気も、今の生活を捨てる覚悟もない。 ただ、この窒息しそうな部屋の外に、果てしなく広い世界があるということだけが、ほんの少しの救いだった。
意識がとろりと沈んでいく。 眠りにつく直前、紗江はいつも祈る。 どうか、明日の朝が来なければいいのに、と。 しかし、無情にも夜明けは必ずやってくる。そしてまた、仮面を被って「雨宮紗江」という役を演じる日々が始まるのだ。
深い眠りの底で、遠い雷鳴のような音が聞こえた気がした。 それが自分の運命を変える予兆だとは気づかぬまま、紗江は静寂の闇へと落ちていった。
3
その亀裂は、音もなく走った。
月曜日、午後二時。 窓の外では朝から降り続く雨が、ガラスを執拗に叩いていた。気圧のせいか、朝からこめかみの奥が鈍く痛む。紗江は鎮痛剤を二錠飲み下し、無理やり意識を覚醒させてデスクに向かっていた。
月末の繁忙期。フロア全体が殺気立っている。電話の呼び出し音が鳴り止まず、コピー機は悲鳴のような駆動音を上げ続けていた。 紗江の手元には、至急処理しなければならない請求書の山が積まれている。 いつもの彼女なら、この程度の量は定時までに涼しい顔で片付けていただろう。しかし、今日は何かが違った。 モニターの文字が、時折ぐにゃりと歪んで見える。キーボードを叩く指先が、微かに震えている。
「……しっかりしろ」
小さく唇を噛み、痛覚で集中力を繋ぎ止める。 その時だった。背後の通路で、営業部の男性社員たちが雑談しながら通り過ぎた。
「いやあ、参ったよ。昨日の事故、見た?」 「ああ、ニュースでやってたやつ? 子供が巻き込まれたって……」
――子供。事故。
その単語が耳に入った瞬間、紗江の世界が白く弾けた。 全身の血液が一瞬で逆流するような感覚。 オフィスの喧騒が遠のき、代わりに耳の奥で「あの音」が響き渡った。 ブレーキ音。鈍い衝撃音。そして、世界を切り裂くような悲鳴。
「っ……!」
紗江は弾かれたように両手で耳を塞ぎかけた。 だが、ここは職場だ。理性が辛うじて動作を止める。 しかし、指先は制御を失っていた。 痙攣した右手の人差し指が、マウスのボタンを意図しないタイミングでクリックしてしまったのだ。
画面上のウィンドウが消える。 と同時に、不穏な警告音がパソコンから鳴り響いた。
「え?」
紗江の口から、間の抜けた声が漏れる。 目の前のモニターには、『送信完了』の文字が表示されていた。 背筋が凍りついた。 今、送ったのは何だ? 作成途中の、まだ社内秘の数字が含まれた見積書だ。宛先は――取引先のメイン担当者。しかも、修正前の大幅な値引き額が記載されたままのデータを。
血の気が引く音が聞こえた気がした。 ミスなどという生易しいものではない。これは、会社の信用に関わる重大な過失だ。 これまで六年かけて築き上げてきた「完璧な雨宮さん」という虚像が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
「あ、雨宮先輩?」
異変に気づいた絵里子が、不安げな顔で覗き込んできた。 紗江は答えることができなかった。喉が引きつり、呼吸が浅くなる。指先が氷のように冷たい。
「あ、あの、すみません……私、今……」
声が震える。いつもの冷静なアルトボイスが出ない。 すぐに訂正の連絡を入れなければ。上司に報告しなければ。頭では分かっているのに、体が鉛のように重くて動かない。 過去のフラッシュバックと、現在のミスの恐怖が混ざり合い、パニックが津波のように押し寄せる。
「雨宮さん、どうした? 顔色が真っ青だぞ」
騒ぎを聞きつけた課長が近づいてきた。 五十代の温厚な上司だ。しかし、今の紗江には、その心配そうな表情さえもが、自分を断罪する裁判官のように見えた。 見ないで。私を見ないで。 私の内側の醜い動揺を、悟られたくない。
「申し訳、ありません……誤って、データを……」
蚊の鳴くような声で報告するのが精一杯だった。 課長はモニターを一瞥し、事態を把握すると表情を引き締めたが、すぐに「落ち着いて」と紗江を制した。 課長が電話を取り、取引先に連絡を入れる。絵里子が送信取り消しが可能かシステムを確認する。 周囲が慌ただしく動く中、紗江だけが台風の目のように、呆然と椅子に座り込んでいた。
私は、何をしているんだろう。 普通の生活を送るふりをして、結局、何もできていないじゃないか。 過去に囚われ、幻聴に怯え、その結果がこれだ。 やっぱり私は、ここにいてはいけない人間なんだ。
「雨宮さん、先方は笑って許してくれたよ。まだ正式発注前だったから助かった」
電話を置いた課長が、安堵のため息と共に言った。 しかし、紗江の震えは止まらなかった。許されたという事実よりも、自分がコントロールを失ったという事実が恐ろしかった。
「……すみません。本当に、申し訳ありません」 「いいんだよ、誰にだってミスはある。君にしては珍しいな。少し疲れてるんじゃないか?」 「……はい」
違う。疲れなんかじゃない。 私は壊れているんです。最初から、欠陥品なんです。 そう叫び出しそうになるのを必死で飲み込み、紗江は立ち上がった。
「すみません、少しだけ……席を外してもいいですか」 「ああ、顔を洗っておいで。無理しなくていいから」
逃げるようにフロアを出た。 化粧室の個室に駆け込み、鍵をかける。 その瞬間、堰を切ったように過呼吸が襲ってきた。
ヒュッ、ヒュッ、ハッ。
便座の蓋の上に座り込み、胸をかきむしる。酸素が入ってこない。視界が明滅する。 狭い個室の空間が、自分を閉じ込める棺桶のように思えた。
――逃げたい。 ここではない、どこか遠くへ。 私を知る人が誰もいない、私の「秘密」が意味を持たない場所へ。
ポケットの中で、スマートフォンが冷たく重い存在感を放っていた。 昨夜見た、あのアフリカの光景が、薄れゆく意識の端で強烈に明滅した。 赤土。乾いた風。 ここにあるのは、湿った絶望だけだ。
紗江は震える手で自身の冷たい頬に触れた。 仮面には、修復不可能なヒビが入ってしまった。 もう、元のようには笑えないかもしれない。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見るのが怖くて、紗江はしばらくの間、個室から出ることができなかった。
4
午前二時。丑三つ時。 世界がもっとも深く眠り、そしてもっとも濃い闇が人の心の隙間に入り込む時間だ。
紗江はベッドの上に膝を抱えて座っていた。 部屋の明かりは消している。唯一の光源は、膝の上に開かれたノートパソコンの液晶画面だけだ。青白い人工的な光が、紗江の蒼白な顔を幽霊のように照らし出している。
眠れるはずがなかった。 目を閉じれば、昼間の光景がリプレイされる。上司の呆れたような安堵の顔、絵里子の心配そうな、しかしどこか優越感を含んだような瞳。そして、自分が送ってしまったデータの残像。 薬は飲んだ。いつもの倍の量を飲んだ。けれど、脳の芯が焼けつくように覚醒していて、睡魔は訪れる気配すらなかった。
「……消えたい」
喉の奥から絞り出した言葉は、本心だった。 死にたいわけではない。ただ、自分の存在をこの世界から消しゴムでこするように消してしまいたい。 誰の記憶にも残らず、最初から「雨宮紗江」など存在しなかったことになりたい。
指先が、勝手にトラックパッドを滑る。 画面には、広大な地図が表示されていた。 日本ではない。アジアでもない。 アフリカ大陸。 人類発祥の地と呼ばれる、巨大な大陸。
昨夜の検索履歴が、まるで導火線のように紗江をそこへ導いていた。 最初は、ただの現実逃避だった。美しい風景写真を見て、束の間の癒やしを得ようとしただけだった。 だが、今の紗江の目は、獲物を探す獣のように血走っている。
検索ワードを変える。 『アフリカ 一人旅』『秘境 ツアー』『世界 最果て』。 画面に次々と現れる画像や文章を、貪るように読み漁る。 マサイマラの夕陽、ナミブ砂漠の枯れた木々、ヴィクトリアの滝の轟音。 それらは、東京の灰色のビル群とは対極にあるものだった。 そこには、秩序も、建前も、息苦しい社会のルールもないように思えた。あるのは、生きるか死ぬかという単純明快な自然の摂理だけ。
「ここなら……」
紗江は画面上の赤い大地を指でなぞった。 ここなら、私の「秘密」も、ちっぽけな砂粒の一つになって紛れてしまうのではないか。 誰にも言えない過去も、背負い続けてきた罪悪感も、あの圧倒的な太陽の下では蒸発してしまうのではないか。
カチ、カチ、カチ。 クリックする音が、部屋に響く。 憑かれたように、紗江は情報を収集し続けた。 治安、予防接種、ビザ、フライト時間。 普段の慎重な彼女なら、「危険だ」「無謀だ」と一蹴するような情報ばかりだ。しかし、今の彼女には、その「危険」という文字さえもが魅力的に映った。 安全な場所で腐っていくくらいなら、危険な場所で血を流したほうがマシだ。そんな破滅的な思考が、頭をもたげてくる。
ふと、ある旅行代理店のサイトで手が止まった。 『魂を揺さぶる旅。あなたの知らない、本当の地球に出会う』 そんな陳腐なキャッチコピーが添えられたツアー詳細ページ。 その行程表の中に、「現地の部族との交流」という文字を見つけた時、紗江の心臓がドクリと跳ねた。
――呪縛から解放されるおまじない。
そんなものがあるはずはない。文明社会に生きる大人が信じるような話ではない。 けれど、もしも。 もしも、科学や理屈では説明できない何かが、この世界のどこかに残っているとしたら。 今の私を救えるのは、カウンセリングでも薬でもなく、そういう目に見えない力だけなのかもしれない。
画面の右下には、予約ボタンが表示されている。 金額は、三ヶ月分の給料が吹き飛ぶほど高額だ。 だが、紗江の貯金通帳には、使う当てのない金が溜まっていた。遊びにも行かず、恋人も作らず、ただただ贖罪のように貯め込んできた金。 これは、そのためにあったのか。
カーソルを予約ボタンに合わせる。 人差し指に力が入る。 あとワンクリック。 それを押せば、もう戻れない。
心臓が早鐘を打つ。 恐怖と、高揚感。相反する二つの感情が、渦を巻いて紗江を飲み込もうとしていた。
その時、窓の外が白み始めていることに気づいた。 夜明けだ。 雀の鳴き声が聞こえる。新聞配達のバイクの音が遠くでする。 日常が、また始まろうとしている。
紗江は、ふう、と長く息を吐き出し、パソコンをパタンと閉じた。 予約はしなかった。 まだだ。まだ、その時ではない。 今の精神状態で決めても、それはただの「逃げ」になってしまう。もっと決定的な、後戻りできない理由が必要だ。
だが、種は蒔かれた。 紗江の胸の奥底、冷たい深海のような場所に、赤く熱い火種が落ちたのだ。 それはこれから一年かけて、ゆっくりと、しかし確実に彼女を焦がし、やがて爆発する時を待つことになる。
紗江は立ち上がり、カーテンを開けた。 朝焼けの空は、毒々しいほどに赤かった。 その赤が、いつか見たアフリカの大地の色と重なって見えた。
「……二十九歳まで、あと一年」
最後の二十代をどう生きるか。 答えはもう、出かかっていた。
5
季節が四つ、通り過ぎていった。 あの日、雨の中で狂いそうになった神経も、深夜にアフリカの地図を貪った衝動も、表面上は鳴りを潜めた。紗江は再び、完璧な事務機器としての日常を取り戻していた。 ミスはあの一度きり。それ以降、彼女の仕事ぶりは以前にも増して研ぎ澄まされ、周囲が恐縮するほどの正確さを誇っていた。
けれど、それは治癒ではなかった。 傷口を縫い合わせず、ただ分厚い包帯でぐるぐる巻きにして見えなくしただけのことだ。包帯の下では、傷は依然として熱を持ち、時折ドクリと脈打って彼女の生存を脅かした。
変わったことが一つだけある。 紗江の銀行口座の残高だ。 給料のほぼ全てと、ボーナスの全額。衣服も買わず、交際費も削り、食費さえ切り詰めた結果、通帳の数字は、ある「逃走資金」として十分な額に達していた。
そして、その日はやってきた。
六月十五日。 梅雨入りしたばかりの東京は、湿った空気に包まれていた。 二十九回目の誕生日。 二十代最後の年が始まる日。
帰宅した紗江の手には、小さなコンビニの袋が一つだけ。中に入っているのは、ショートケーキでもシャンパンでもなく、缶ビールが一本と、少し上等なチーズだけだった。 誰からも「おめでとう」の言葉は届かない。実家の母から短いメールが来ていたが、それも「元気にしてるの?」という定型文だけだ。 それでよかった。祝われるべき命ではない。生まれたことを感謝する日ではなく、死なずに一年を生き延びたことを確認する日だ。
シャワーを浴び、髪を乾かす。 いつものルーティンを終え、紗江はデスクの前に座った。 目の前には、あの日と同じようにノートパソコンが開かれている。
壁掛け時計の針が、午後十一時五十分を指していた。 あと十分で、誕生日が終わる。
「……長かった」
紗江は缶ビールのプルタブをプシュッと開け、一口だけ喉に流し込んだ。 苦い。 二十八歳の味は、どこまでも苦く、そして灰色の味がした。 この一年、紗江は何度も心が折れそうになった。街で見かける幸せそうな家族連れ、SNSに流れてくる友人の結婚報告、そして夜ごとに蘇る過去の記憶。 それらに押しつぶされそうになるたび、紗江はこのパソコンの中に広がる「赤い大地」にすがった。 まだ見ぬ大陸。私の罪を知らない土地。
ブラウザのお気に入りに登録されたページを開く。 『ケニア・タンザニア周遊 大自然と魂の旅 14日間』 一年間、何百回と眺め、夢想したページだ。 日程は三ヶ月後。 会社には、辞表を出すつもりだった。有給消化などという生ぬるいものではない。退路を断つのだ。この「灰色の水槽」から飛び出すには、それくらいの覚悟が必要だった。
画面をスクロールし、最下部の『申し込み』ボタンを表示させる。 一年前は、指が震えて押せなかったボタン。 今は、不思議と震えはなかった。心は凪いだ海のように静かだった。
なぜアフリカなのか、論理的な理由は未だにない。 ただ、呼ばれている気がするのだ。 お前のような人間を許容できるのは、あの大地だけだ、と。
時計を見る。 十一時五十九分。
紗江はクレジットカードを取り出し、番号を入力した。 迷いはなかった。 これは、自分自身への誕生日プレゼントではない。 これは「手切れ金」だ。 過去に縛られ、膝を抱えて震えていた、二十代の自分への。
カチッ。
日付が変わる瞬間、紗江はエンターキーを叩いた。
画面が切り替わる。 読み込み中のサークルがぐるぐると回り、やがて『予約が完了しました』という素っ気ない文字が表示された。 確認メールの着信音が、静寂を破ってピロンと鳴る。
終わった。 そして、始まった。
紗江は椅子の背もたれに深く体を預け、天井を見上げた。 天井のシミが、アフリカ大陸の形に見えるような気がした。 胸の奥にある「秘密」という名の重い鉛。それはまだ、消えてはいない。 けれど、その鉛を背負ったまま、歩き出す準備は整った。
「行ってきます」
誰にともなく、紗江は呟いた。 その声は、一年前のあの日よりも、ほんの少しだけ強く、そして確かな熱を帯びていた。
窓の外では、雨が激しさを増している。 その雨音は、まるで遠くから近づいてくる祭囃子のように、紗江の鼓動を高鳴らせていた。 二十九歳。 彼女の人生を賭けた、最初で最後の旅が始まろうとしている。




