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静寂の檻、遠き雷鳴  作者: 久遠 睦


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序章:深海の呼吸

 その秘密は、冷たい鉛の塊によく似ていた。  あるいは、飲み込んだまま決して消化されることのない、鋭利なガラス片のようでもあった。

 雨宮紗江あまみや さえは、鏡に映る自分の顔を見つめた。  二十八歳。世間一般で見れば、若さと成熟の狭間にある華やかな季節なのかもしれない。肌にはまだ張りがあり、瞳には光が宿っているように見える。少なくとも、他人からはそう見えるはずだ。  けれど、紗江だけは知っている。その瞳の奥底に、決して人には見せられないおりが沈んでいることを。皮膚の一枚下には、誰にも言えない過去が、どろりとしたタールのように張り付いていることを。

 洗面台の蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく流れ出した。両手で水を掬い、顔に打ち付ける。冷たさが皮膚を刺し、一瞬だけ思考が止まる。その瞬間だけが、紗江にとっての救いだった。

「……おはよう」

 誰に聞かせるわけでもなく、低く呟く。その声は、深海から漏れ出た泡のように頼りなく、湿った空気の中に溶けて消えた。  鏡の中の自分と目が合う。整っているが、どこか温度の欠けた顔立ち。  もしも、この皮膚を剥いで、骨の髄まで晒すことができたなら、人は私を何と呼ぶだろうか。  化け物、と呼ぶだろうか。それとも、哀れな罪人、と蔑むだろうか。

 紗江には秘密があった。  墓場まで持っていくと誓った、たった一つの秘密。  それは彼女の人生を根本から規定し、すべての選択肢を奪い去った呪いのようなものだった。恋愛も、結婚も、ありふれた幸せも、その秘密がある限り、紗江にとっては対岸の火事ごときに過ぎない。  手を伸ばせば火傷をする。近づけば、すべてを焼き尽くしてしまう。だから彼女は、自分の周囲に目に見えない高い壁を築き、その内側に閉じこもることを選んだのだ。

 リビングに戻ると、スマートフォンが震えているのが見えた。画面には「由香ゆか」という文字。大学時代の友人だ。 『来週末のランチ、どう? 久しぶりにみんなで集まろうって話になってて』  ポップなスタンプと共に送られてきたメッセージ。由香は先月、第一子を出産したばかりだ。話題が何になるかは、火を見るよりも明らかだった。子供の成長、夫の愚痴、マイホームの計画、あるいは独身組への「いい人いないの?」という無邪気な干渉。

 紗江は指先だけで画面をスクロールし、既読をつけないまま画面を伏せた。  悪意はないのだ。彼女たちは、光の世界の住人だから。自分たちが浴びている光が、誰かにとっては網膜を焼くほどの暴力になることを知らないだけだ。

 ――私は、そっち側には行けない。

 コーヒーメーカーのスイッチを入れる。抽出される黒い液体を眺めながら、紗江は改めて自分の体に巻き付いている鎖の感触を確かめた。  重く、冷たく、決して外れることのない鎖。  一生、これを背負って生きていく。そう決めたのは自分自身だ。償いとも違う、諦めとも違う。それは、自分が自分であるための、唯一のよすがですらあった。

 窓の外は、今日も曇天だった。  薄墨色の雲が低く垂れ込め、街全体を押し潰そうとしている。  紗江はその景色を愛していた。晴れ渡る青空よりも、今の自分の心には、この塞いだ空の方がずっと優しかったからだ。

 着替えを済ませ、丁寧にメイクを施す。  ファンデーションで肌のくすみを隠し、ルージュで唇に血色を足す。それは、社会という名の劇団に紛れ込むための、精巧な擬態カモフラージュ。  パンプスに足を入れると、コツ、と硬い音が玄関に響いた。

「行ってきます」

 返事のない部屋に告げ、紗江は重い鉄の扉を開けた。  扉の向こうには、いつもと変わらない、息の詰まるような「日常」が待っている。  まだ、何も起きていない。  あのアフリカの風が、彼女の干からびた魂を揺さぶるその時まで、あと一年。  今はまだ、深海のような静寂の中で、ただ息を潜めているしかなかった。



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