26 だから、私はもうあなたの手を離さない。
クラウディアがその人物の名前を口にしようとしたときだった。
「すぐ戻ります。必ず、ここで待っていてください」
半年ぶりの挨拶よりも先に、その男は言った。
「え?」
クラウディアがその言葉の意味を聞き直すよりも前に小さなファンファーレが鳴る。どこかの王族が来たという意味だ。
「サンティエ王国より、テオドール・ド・ラヴァル・サンティエ王弟殿下でございます」
紹介の言葉を侍従が大勢に聞こえるような声で言った。
クラウディアは、唖然としてそのサンティエ王国の王弟と呼ばれた男を見る。その男は少し名残惜しそうに、クラウディアの前から離れ、赤いカーペットを歩いて行く。後ろにはサンティエ王国の侍従らしき男も美しい箱を持って歩いて行った。
その王弟の麗しい姿は、貴族たちの目を引いたらしい。一気に会場がざわめき、ダンスを踊っていた者たちも足を止めてしまうほどだった。
いつの間にかダンスから戻っていたエドワードとアイリスも、その王弟には見覚えがあったようで、顔を見合わせている。
王弟が玉座の前で足を止めると、礼をする。
「サンティエ王弟殿下よ、大変だったようだな。途中道が崖崩れにあったと聞いたぞ。さぞ大変だったに違いない。よくこの祝賀会に間に合わせてくれた」
「災害とはいえ、喜ばしい席に遅れてしまったこと、大変申し訳ありません。また本日はサンティエ国王が参じるべきですが、王妃殿下との子が生まれるとのことで、本日は代わりに私が参りました。王子殿下と王子妃殿下の婚姻のお祝いにサンティエ王国のみで産出される加工する前の鉱石を持って参りました」
男の後ろにいた侍従が、箱を前で開けて見せる。クラウディアにはそれが何かわからなかったが、おそらくとても価値のある鉱石なのだろう。一気に国王と王子の表情が驚きに変わったのがわかる。
「なんと、貴重なものを。サンティエ国王にも礼を言っておいてほしい」
国王のその言葉に、男は頭を下げる。その所作でさえも、とても美しい。
「この喜ばしい日に、国王陛下にお願いしたいことがございます」
王弟は言った。
「なんだ?」
「本日は愛の日であると伺っております。そこで国王陛下に貴国の貴族との婚約を認めていただきたいのです」
王弟の声が聞こえたところからはざわめきが起こる。
「貴族?」「まさかどこかの令嬢と?」「王弟殿下とは……」「誰かしら」「そんな方がいらっしゃるの?」と貴族たちは口々に話し始めている。
「ふむ……しかし王弟ともある貴殿には、貴国の令嬢との婚約話があるのではないか?」
普通ならそうだろう。そんな身分では、自由な恋愛など許されるはずもない。クラウディアは改めて現実に突き戻されたように感じる。それならば、テオが平民の方がまだ気楽でいられた。
「いいえ。サンティエ国王からの許可は得ております。また、その方と一緒になれぬのなら、この地位を捨てる覚悟でいます」
その言葉に、驚いたようなアイリスの顔。どこか不満げなエドワード。そして、あの時と同じように何かを企んだように笑う国王。
再び会場がどよめいた。王弟が地位を捨てることなど考えられないことだからだ。
「もちろん、本日は愛の日だ。貴族たちにも伝えたよう、今日求婚に成功した者は、私から婚約証明書を送ることになっている。それはこの国の貴族ならば誰にでも適用される。つまり貴族と婚約を結びたい貴殿も例外ではない。その貴族がどう返事をするかだが」
国王の目が一瞬、端にいたクラウディアを捉えた、ような気がした。「お前はヴァルトブルグを捨てるのか?」とでも言いたげなその目に、クラウディアもたじろいでしまう。
「寛大なお心遣い、感謝します。王子殿下、王子妃殿下。本日は誠におめでとうございます」
王弟は深々と礼をした。これで挨拶が終わったということを表す。
クラウディアがその王弟に近づこうとしたときだった。後ろを向いて歩き始めた王弟の元へ、一斉に貴族たちが向かってくる。貴族の当主からすれば、我が子をぜひ王弟妃にしたいという思いがあるのだろう。
その力にクラウディアは敵うはずもなく、呆然としばらくその様子を見るしかない。それはちょうど良い時間とも言えたのかもしれない。クラウディアの心を整理するのには必要な時間だった。
「クラウディア様、ですよね?」
その呆然としたクラウディアは、自分を呼ぶ声で現実に戻される。
「あ、アイリス様?」
驚くことに本日の主役であるアイリスが、後ろにエドワードを連れてクラウディアの前に立っている。ぼんやりとしていたクラウディアは慌てて、挨拶の姿勢をとった。
「妃殿下、王子殿下。本日は婚姻おめでとうございます」
「クラウディア様、お顔をあげてください」
本日の主役の1人であるアイリスは花が咲くような笑顔で言った。後ろにいたもう1人の主役のエドワードは相変わらずクラウディアに対する視線は冷たいものの、クラウディアは全く気にならなかった。
「本日は、おいでいただきありがとうございます。とても嬉しいです。クラウディア様がとても美しすぎて、話しかけるのを戸惑ってしまうほどでした」
「私こそ、アイリス様の美しい晴れ姿を目に入れることができて嬉しいです。本当に美しくて、春の妖精みたいです。まさかアイリス様から話しかけてきてくださるなんて……」
今日のアイリスが殊更忙しいのがわかっていた。そのため、あとで感想を手紙で送ろうと思っていたくらいだったのだ。
「クラウディア様、覚えていますか?私が、前にお話ししたこと」
アイリスはクラウディアの両手をとり、小さく囁いた。
「え?」
「クラウディア様のおかげで、私は、エドワード様に見合うために努力ができました。それを忘れないでほしいのです」
「……アイリス様?」
アイリスは笑顔でクラウディアに向き合った。次の言葉をアイリスは何か言おうとしていたのだった。しかし、その言葉は他の貴族からの言葉に遮られる。主役であるアイリスへと話したい貴族は多いに決まっているからしょうがないことだろう。「アイリス様、本日はおめでとうございます」と声をかけられ、アイリスはそちらへ対応せざるを得ない状況になってしまった。
どうしたら良いのだろうと迷っているところに次に声をかけてきたのは、クラウディアにとって意外な人物だった。
「クラウディア・ヴァルトブルグ。お前のことはいまだに気に食わないが、アイリスとの出会いの場を提供してくれたことだけは感謝している。アイリスはお前のことを心配している。まあ、お前と同じ日に婚約したのに関わらず婚約破棄したら溜まったものではないしな」
本日のもう1人の主役エドワードは話をするのも忌々しいという声で吐き捨てるように言った。そしてすぐにエドワードは囲まれてしまったアイリスを助けるべくそちらへと入っていく。
エドワードの言葉はともかくとして、アイリスの言葉はどういう意味だったのだろう。
王子のことを好きではなかったことは、この前の国王との会話で気持ちもはっきりとした。第二妃になる提案も迷いなく断ることができた。きっとアイリスが言いたかったのはその部分ではない。
しかしクラウディアはその意味を考えるよりも前に、今しなくてはいけないことを実行に移すことにした。
クラウディアは人だかりのようにもなっている王弟のところへ向かう。もうこうなってしまっては、マナーも何もないだろう。クラウディアは、ドレスが巻き込まれないギリギリの位置で、声をあげる。
「サンティエ王弟殿下」
本来なら、名前を呼びたかった。しかし今のクラウディアと王弟は、他人同士であるとも言えるため、そういうわけにもいかなかった。クラウディアは、この騒ぎの中でも声が届きますようにと祈るしかない。
背の高い王弟は、その声を聞き分けたらしい。声のした方を向き、視線の先にクラウディアを見つけると、今までの笑顔ではないクラウディアのよく知る柔らかい笑顔を作った。「失礼します」と貴族たちの間を通り、クラウディアの前に立った。
クラウディアは改めてその男を見上げる。やはりその髪色も瞳も、その表情も、クラウディアがよく知る、クラウディアが最も会いたかった人と同じようだった。王弟の着ているフロックコートは、茶色に金色の刺繍がされている。色は地味ともいえるが、それでも顔によく似合っている。要は完璧な人だと、改めて思い知らされる。
「麗しいレディー。よければ私に貴女のダンスの相手になる栄誉をお与えください」
王弟はクラウディアに手を差し出す。差し出された手を拒む理由はクラウディアにはない。
「はい、喜んで」
王弟が自ら相手を選んだことに、貴族からのあからさまな落胆が目に見えるが、クラウディアはそれに構っている場合ではなかった。王弟に手をとられ、ダンスホールまでエスコートされるがままだ。
楽団の音楽がちょうど切り替わるところで、2人はダンスの姿勢を組む。腰に当たる手に、自分が勝手に意識してしまい顔が熱くなるのを感じる。ゆっくりとした曲が始まり、クラウディアは王弟のリードに身を任すことに決めた。
「クラウディア」
踊り始めたところで、ようやく、王弟が自分の名前を口にした。クラウディアは王弟に名乗っていない。クラウディアの名を知るということは、この王弟はやはり自分の知る人物に違いなかった。
「……テオ」
いろいろな思いがこもり、名前を呼ぶので精一杯だ。本当なら、開口一番に問い詰めたかった。少しは叱ってやりたかった。
「半年以上も、待たせてしまいすみませんでした」
テオからの謝罪に、クラウディアは目の奥が熱くなるのを感じる。
「……戻ってこないのかと思って、正直不安でした。寂しかったです、テオ」
コツンとクラウディアはテオの胸に頭を預ける。今の泣き出しそうな顔を見られたくなかった。
「あなたの元へ戻ってきたら、全てをお話しする約束でしたよね。世界一素敵な婚約者を置いていった、世界一馬鹿な男の話を聞いていただけますか?」
クラウディアはそのまま頷いた。
「テオ・ルグランというのは偽名で、本当の名はテオドール・ド・ラヴァルと言います。サンティエ国王の実の弟になります」
ここまでは、クラウディアも予想していたことだった。
「10歳離れた国王である兄はとても優秀で、素晴らしい君主です。私自身が兄が国王を継ぐことに何一つ不満もありませんでしたが、ある貴族たちにとってはそのことに不満を持っていました」
これは最近の新聞記事を読んで知ったことだった。
サンティエ国王はまだ若いが、すでに名君とも呼ばれるほど政治的手腕に長けている人だ。腐敗した貴族を是正しようと働きかけていたが、それを煙たく思っていたのがその腐敗していた貴族本人達だった。その貴族たちはは、まだ言うことを聞きそうな王弟をなんとかして王の座にあがらせようと働きかけていたのだ。
「尊敬する兄を貶され、どうにか王を廃位させるようにも言われることもありました。それを躱すことも面倒になる程負担に感じた私は他国の視察と称して、国外へと逃げることを決めました。親戚であるライエン家、そしてルグラン家に世話になり、平民のテオ・ルグランとなることができました。二年前のことです」
テオは逃げ出したくなるほど辛いことを言われたり、何かされてきたのだろう。自分がいなくなった方が、王も政治がしやすいとも思ったのかもしれない。その気持ちは、なんとなくクラウディアにもわかる。
「仮面舞踏会の前から、貴女のことを知っていました。雇い主であるシュナイダー先生のところで資料をまとめていたときに、ヴァルトブルグ侯爵代理と呼ばれる貴女のことを知りました。先生の話と資料のみで知るくらいでしたが、若くして侯爵領を任され、領地を発展させている人なのだと聞いて、興味が湧いたのです」
やはりテオはクラウディアのことを知っていたのだ。クラウディアは、テオを見上げる。目があったテオは少し辛そうな顔をして笑いかけてくる。
「一年前の愛の日、シュナイダー先生と3人でたくさん領地経営について話しましたよね。先生が部屋を空けた時、2人で長く話しました。あの時間は久々に楽しかったのをよく覚えています。その後も、先生に遣いを頼まれて、よく貴女に会って、少し話をしたこともあったのですが……それも覚えていないようですね」
クラウディアは思い返すものの、一切テオのことは浮かんでこない。クラウディアが複雑そうな顔をしたのに、テオは笑った。
「気にしなくていいですよ。貴女はいつも領地経営で一生懸命で、私の容姿でさえ一切気にすることはありませんでしたので。私は、そんな貴女に既に惹かれていたのですから」
テオはそんな前から、クラウディアのことを知っていて、そして良い感情を抱いてくれていたことにクラウディアは驚きを隠せず顔はさらに熱を帯びてくる。
「ライエン家から仮面舞踏会が行われることと、貴女が参加することを教えてもらい、すぐに手配してもらいました。貴女とゆっくり話すことができるかもしれないと期待して」
クラウディアは一つ疑問に思う。
「テオは「金狂いのクラウディア」を知らないと言いましたよね?でも私のことを知っていたのに、どうして……」
「貴女がそれを聞いてきた時ですよね。すぐに私は仮面をつけていても貴女だとわかっていました。私は「金狂いのクラウディア」と呼ばれる人は知りません。私が知っているのは、「領民思いのクラウディア」ですから」
テオは、クラウディアのことは知っていた。けれどクラウディアの不名誉な二つ名のことを認めなかったのだ。真の金狂いではないことをわかっていたから、あの時「知らない」と答えたのだった。
「そのあと、貴女に求婚され、断る理由もありませんでした。あの急な求婚には訳があったのでしょう?見ず知らずの男と婚約するような人ではないと思っていましたから」
今度はクラウディアが正直に打ち明ける番だった。
「そのときのことについては……テオに話さずにいてすみませんでした。……私は王子殿下とアイリス様に対し、爵位を剥奪されてもおかしくないほど、酷いことをしてきました。その処罰を受けたくないがために、顔も何も知らないあなたに求婚してしまいました……ごめんなさい」
「そうですか。正直に言ってくれてありがとうございます。私はそのことを気にしていません。結果として、貴女は私を選んでくれたのだから。私は、貴女と婚約できて本当に幸せでした」
テオはそう言ってくれるものの、クラウディアは心の中に罪悪感が湧き上がってくるのがわかる。結局はテオを騙して婚約させてしまったようなものなのだから。
「私も、幸せでした。テオと一緒にいると、いつも楽しくて、嬉しくて……自分が騙して婚約させてしまったのに……でもどうして、テオは出て行ったのですか?……私が嫌なことを言いましたか?どうしてなのか全然わからなくて、」
「クラウディアのせいではありません」
テオは言い切った。そして、クラウディアの瞳をじっと見つめる。テオの瞳にはクラウディアが映っていた。
「クラウディアが自分の昔話を聞かせてくれた時に、自分を恥じました。二年前、私はただ自分が苦しいからという理由で、この国へ逃げてきました。しかし貴女はヴァルトブルグを守るために、逃げもせず血も滲むような努力をしてきたのをその時知りました。逃げてきたこの馬鹿な男は、貴女に見合うことはないと思ったのです」
「そんな」
「貴女に見合うためには、正式な王弟として活動できるようにならなくてはいけないと思いました。そのためには、国へ戻り、その貴族達を粛清する必要がありました。兄は協力して欲しいと連絡を寄越してきていましたから。兄の計画では順調にいっても半年かかると言われ、その間は外部との連絡を遮断してほしいと言われていました。何か私の弱点が見つかっては大変なことになりますから……連絡ができず、心配させてしまいましたよね。本当にすみません」
リヒト卿がなぜクラウディアの護衛になっていたのか、わかったような気がした。テオは国へ戻っていたから、リヒト卿だけをテオの護衛につかせる必要がなくなった。またテオの弱点を知られた場合、クラウディアが狙われる危険があったからリヒト卿にこっそり護衛させたのだろう。結果としては、それとは無関係なところでリヒト卿に守ってもらうことになったが。
「……私のことを嫌いになったのかと思いました」
「嫌いになることなんて、決してありません。今日貴女が婚姻式に参加することがわかったので、ドレスを贈らせてもらいましたし、手紙も添えましたよね?」
「ドレス?手紙?」
全く記憶にない話だ。このドレスはヴェーラー公爵からの贈り物だとハンナから聞いていたし、ヴェーラー公爵にもきちんとドレスの礼を言ったはずだ。確かに、夫人がそのことを知らない様子だったのが気になったが……まさか本当はテオの贈り物だったとは。あとでヴェーラー公爵を問い詰めなくては。
まさかの事実に唖然とするクラウディアだったが、テオはそこは気に留めないようだった。
「今日のクラウディアはいつもに増してとても美しいです。貴女の魅力にようやく気づいた男達がたくさん話しかけてきていたと、ライエン前公爵より聞きました」
ライエン前公爵はやはりテオの大伯父のようだった。道理でサンティエ王国の使者がこないことを気にしていたし、1人でいるクラウディアを守っていてくれたのかもしれない。
「だから、独占欲しかないドレスを贈ってしまいました。すみません……」
背が高いのに子犬のように悲しげな顔をするテオに思わずクラウディアは笑ってしまう。
「このドレス、とても気に入っているんです。テオの髪の色で、テオに包まれているみたいですから」
その言葉に一気にテオの顔が赤くなる。
「……それなら、そのネックレスやイヤリングは、貴女が選んでくれたのですか?」
「はい。テオの瞳の色と一緒でしょう?あなたに会えると思っていなかったけど……」
テオは唇をかみ、少し横を向く。なんとなくクラウディアにはそのテオの行動に見覚えがある。
「テオ、照れて、いるのですか?」
「わかっていることを聞かないでください、クラウディア」
クラウディアは笑った。テオも笑った。
ダンスが苦手なクラウディアだったが、もうそんなことは全く気にならなかった。周りからどう見えたって、今はテオと踊れることが何より幸せだった。
4曲ほど踊りながら話し続けたところで、テオはクラウディアの腰に当てていた手を離し、その手でもう片方の手を握った。
「場所を移動していいですか?」
テオからの提案にクラウディアは頷いた。
次のダンスの相手をしたいと何人かが待っていたようだったが、それを気にしている余裕は2人にはなかった。2人はホールから逃げるように抜け出すと、中央の庭園へ出る。この庭園はヴァルトブルグの迎賓館とは違い、薔薇のみが美しく咲き誇る庭園のようだった。何組か先客がいるようだったが、2人は特にそれは気にしなかった。あのホールの人数に比べれば微々たることだ。
開けたところまでくると、テオは足を止め、クラウディアに向き合った。もうほとんど陽が沈みかけ、夜空には星が輝き始めるところだ。かろうじてテオの表情がわかるくらいの暗さだった。
テオは自分の両手でクラウディアの手を優しく握る。テオの熱がクラウディアに伝わってくる。
「クラウディア・ヴァルトブルグ侯爵。貴女のことを心から、愛しています。私と婚約してください」
テオの真っ直ぐな視線がクラウディアの胸を突き刺す。嬉しい気持ちが心の大半を占めているのに、クラウディアはすぐにその言葉を受け取ることはできなかった。
「私に……王弟妃が務まるとは思えません。それに……ヴァルトブルグを離れることもできません」
テオが王弟でなければ、クラウディアは喜んで、何も考えることなくこの申し出を受けていただろう。しかし立場が違う。ただの貴族と、隣国の王族では釣り合うはずもない。
そして王弟という立場なら、サンティエ王国で国務に当たらなくてはならないだろう。クラウディアには何よりも大切なヴァルトブルグの領民がいる。その領民を置いて出ていくわけにもいかなかった。
テオはなんと返事をするのだろうと、クラウディアは痛む心でテオを見つめる。しかしテオはクラウディアに向ける優しい微笑みを変えることはなかった。
「それなら、私が平民になったら、ずっと一緒にいていただけますか?」
「……え?」
クラウディアは聞き直す。
「貴女に見合う人間になるために、王弟に戻ることに決めた、ただそれだけです。貴女の隣に立つために王弟になった私にとって、貴女のためにその地位を捨てることは何も問題はありません」
「そんな」
正直なところ、クラウディアはサンティエ王国における王弟の立場の重要性など何も知らない。しかしこれだけ有能なテオのことだ。きっと王国にとって本当は不可欠な存在なのだろう。
そのテオを自分のそばにいてほしいという理由だけで、この国の人間にしてしまってもいいのだろうか。
「平民の私は嫌ですか?」
「嫌なわけ、ないじゃないですか!」
クラウディアは小さく叫ぶ。
「どんなあなたでも……平民でも、王弟でもなんでも、好きです。好きに決まってます。でも、私の都合で平民にさせるわけにはいかなくて……」
しかしクラウディアの言葉はそこで止まった。アイリスの言葉を思い出したからだ。
好きなら、ずっと一緒にいたいです。好きなら、他の女性が一緒にいるだけで、辛くなります。好きなら、何があっても彼の手を取りたいと思います。
何があっても、彼の手を取りたいと思います。
そうだ、なぜ私はテオばかりが苦労するようなことしか考えられなかったのだろう。テオが変わらなくたっていい。私が、変わればいい。アイリスが、王子のために努力したように。
私は金狂いだと言われるほど貪欲なはずなのに、どうしてこうやって二つを求める答えをすぐ出てこなかったのだろう。王弟妃になる努力が必要ならすればいい。人の何倍もの努力が必要なら、死に物狂いでやればいい。すぐに認められないのなら時間をかけてでも周りに認めさせればいい。ただそれだけなのに。
だから、私はもうあなたの手を離さない。
クラウディアの答えは出た。クラウディアもテオの手を優しく握る。テオの目を見て言う。
「テオは、王弟のままでいてください。私、領主も、王弟妃としても相応しくなれるように……努力します。あなたが王弟になるために努力したように……。だから、テオ、私と……婚約してください」
クラウディアの言葉に、テオは嬉しさを隠しきれずに頷いて微笑んだ。
「本当に嬉しいです。クラウディアから断られたらどうしようと流石に緊張しました」
「私が断るはずがないって、わかっていますよね……?」
クラウディアが見上げ、睨みつけてやると、「そうですね」とテオは右手でクラウディアの右頬を優しく包む。その手の心地よさに、クラウディアは目を細めた。
誰かが2人のことで何かを話しているのが耳に入るが、クラウディアに顔を近づけるテオと目を閉じ始めたクラウディアにはもう関係のないことだった。
読んでいただき、本当にありがとうございます。
今回も長すぎてしまったため、あと蛇足の1話で最後になります。




