17 彼女が侯爵代理になった日
「まだ着かないのかな」
10歳のクラウディアは馬車を打ち付ける激しい雨を見ながら言った。
「御者も頑張っているんだから、そうやって言わない方がいいよ、クラウディア」
クラウディアの隣にいた少年、クラウディアの兄リアムがクラウディアへ向かって声をかける。
「だって……雨だし……怖いよ」
「リアム、クラウディア。大丈夫よ。すぐ着くわ」
2人の向かいに座るはちみつ色の髪の女性、クラウディアの母である侯爵夫人が子供たち2人の不安を打ち消すように穏やかに笑った。
しかしクラウディアの心配は晴れない。馬がぬかるんだ地面を蹴る音、それよりも大きな雨の音。こんな中、外で馬を操っている御者が一番大変なことはわかっていた。それでも、この雨の中休まず走り続けることが怖かった。
「でも……」
ここまでが、クラウディアが家族と会話した最後の記憶だ。
雨の中だというのに、馬たちのいななく声がはっきりと聞こえた。それと同時に馬車が大きく振られ、クラウディアの小さな体が宙へ浮いた。何が起こったのか理解できないまま、気づけばクラウディアの小さな身体は馬車の扉から外へ投げ出され、大粒の雨が大量に打ち付ける中、地面へと叩きつけられる。
雨の寒さ、全身を打つ痛み、泥の味。目にも泥が入り目が開けられない。しばらく動けず、泥の中へ埋もれていたクラウディアは、痛みに耐えながら体を起こした。
「……おかあさま、おとうさま」
ドレスが泥水と雨水を吸って、重く感じる。地面を打ちつけたときに、右腕を打ったのだろう。激しい痛みに、クラウディアの目からは涙がこぼれ落ちる。
「おにいさま、どこ」
家族を呼び、キョロキョロと周りを見渡しても、雨の森の地面にあったのは馬車だったと思しきものの破片だけだった。
「どこ、どこ?どこなの」
よろよろと起き上がる。激しく痛むのは右腕だけで、かろうじて立ち上がることができたクラウディアは、右腕を押さえながら、先程まで会話をしていた家族を探す。どれくらい時間が経ったのだろう。クラウディアにはわからない。寒い雨に打ちつけられながら、家族の名前をひたすら呼ぶものの、誰からもクラウディアの呼びかけに答えるものはない。
馬車が引き摺られた跡は、今のクラウディアでは行くのも恐ろしいところへ繋がっている。クラウディアは本能で、そっちへは行きたくないと思うものの、しかしそんなわけにもいかない。家族がいるかもしれない。
クラウディアは滑らぬよう、跡の続く谷底を恐る恐る覗き込む。雨が轟々と川に落ち、谷底の川は茶色の濁流となって勢いよく下っていく。父たちの姿も馬の姿も、馬車の姿もそこにはなかった。ただ川とも呼べぬような流れがあるだけだ。その濁流の音の恐ろしさにクラウディアは思わず座り込んでしまうものの、いつまでもここにいるわけにもいかない。
クラウディアは体の痛みを我慢しながら立ち上がった。家族を探さなくては、という一心だった。右腕は変わらず痛むものの、それには構っていられない。土地勘のないクラウディアは、打ち付ける雨の中しばらく歩き続けていた。ようやく明かりの灯っている近くの民家へ助けを求めたところで、クラウディアの記憶は途切れている。
クラウディアが次に目覚めたのは、ヴァルトブルグの屋敷のベッドの上だった。ヴェーラー公爵夫人が泣きながら、手を握っていたのを覚えている。右腕は折れていたようで、足や腕、顔までもが傷やアザだらけとなっていた。目覚めたクラウディアは、すぐに夫人へ家族のことを聞いた。しかし夫人は答えなかった。おそらく答えられなかったのだ。クラウディアの気持ちを思えば、口に出すことができなかったのだろう。
結局馬車も御者も、家族も見つかることがなかった。馬車の跡は確実に谷へと続いていたため、馬車は家族達と一緒に谷底へと落ち、あの濁流に巻き込まれたのだろうという話だったが、クラウディアからすればどうでもいいことだった。
3人がいなくなり、クラウディアだけが残った。それだけだった。
誰かを責められれば楽だったろうが、馬も、御者も命を落とし、クラウディアは誰も責めることができずにいた。
黒の喪服に身を包んだクラウディアは固定された右腕ではない左腕で、誰も入っていない三基の棺に花を入れていく。庭師であるゲルトナーが用意した、母の好きな花だった。
「クラウディア、ここにいたのか」
「……おじさま」
クラウディアは自分を呼ぶ声がしたので振り返る。
黒い服を纏ったヴェーラー公爵が、クラウディアを迎えに来たようだった。まだ10歳のクラウディアに喪主を務めることはできないため、親戚であるヴェーラー公爵が喪主を務めることになっていた。今日は最後の別れの日で、クラウディアは朝から3人の棺の前にいたのだった。
「ここは寒いだろう。さあ、戻ろう」
「ううん、ここにいたい」
「……クラウディア」
クラウディアの左手を取ったヴェーラー公爵はすっかり冷え切ったクラウディアの手に驚いたようだった。
「君が風邪をひいたら、みんな悲しむ。さあ、一度戻ろう。後で3人にはまた花を届けよう」
これ以上公爵を心配させてはいけない、とクラウディアは頷いた。ヴェーラー公爵はクラウディアの手を握り、弔問客の待つホールへと歩き始めた。
ホールに入ろうとヴェーラー公爵が扉に手をかけたが、動きがぴたりと止まる。公爵の動きが止まったことに、クラウディアは公爵を見上げた。
「気の毒になあ」
「幼い娘1人じゃあ心残りだろうに」
「せめて跡継ぎのリアムが生きていればなあ。安心できただろう」
「娘よりも息子の方をなぜ助けてくれなかったのだろうな、神も意地が悪い」
「侯爵領もこれで終わりか」
「まあ、侯爵領はヴェーラー公爵が引き継ぐだけさ」
ホールの中で、貴族の弔問客が会話をしているのが聞こえてくる。全ては聞こえたわけではないが、その弔問客の言葉にヴェーラー公爵の顔が変わった。
そうか、自分が生きているのは間違いなのか。
お父様はヴァルトブルグ領を愛していたのに、私がそれを潰すことになるのか。
みんな、お父様たちが亡くなったことよりも、爵位を気にしているのか。
「クラウディア、ここにいなさい」
そう言った公爵はクラウディアの手を離すと扉を開け、その客に一喝したようだった。しかしヴェーラー公爵が何を言ったのかはこの時のクラウディアには記憶に残っていない。怒りの表情の公爵に、クラウディアを見て気まずそうな顔をする弔問客の貴族達。
その時クラウディアは決めた。
私は何があっても、このヴァルトブルグ領を守ってみせる。
気まずい葬式が続いたものの、クラウディアは表情を変えることはなかった。遺体のない棺を土へ還し、客はそれぞれ引き上げていったが、クラウディアは最後までその場所を離れることができなかった。
「クラウディア、帰ろう」
クラウディアと同じように残っていた公爵が声をかけてくれるが、クラウディアは首を横に振った。
「ヴェーラー公爵。私に、侯爵領を、お父様達の守ってきたこの土地を受け継がせてください」
公爵はクラウディアがおじさまではなく公爵と読んだことに驚いたようだった。隣にいた公爵夫人も、目を見開いている。
「クラウディア……そうしてあげたいが……」
女は爵位を受け継ぐことはできない、と公爵は言いたかったのだろう。それはクラウディアも知っていることだ。
「私はお兄様とは違って、領地のことを何も知らないし、何も勉強してきませんでした。でも……この土地を守りたい。これから必死で勉強します。なんでもやります。公爵のお力を貸してください」
2人はじっとクラウディアを見ていた。クラウディアには何を2人が考えているのかわからなかったが、ここで目線を外すわけにはいかないとただ黙って2人を見ていた。公爵夫人は心配そうにクラウディアを見つめていたが、しばらくして口を開いた。
「あなた、陛下に口添えして、クラウディアにヴァルトブルグ家を受け継がせてあげましょう」
夫人の発言に、公爵は驚いたようだった。
「ヒルデガルド……クラウディアを養女にしたいと言ったのは君だっただろ?」
「もちろん、その意志は変わらないけど……クラウディアを助けてあげられるのはあなたしかいないわ」
「……今ここで返事はできないよ、クラウディア。女性が爵位を受け継いだ前例もない。君の希望を叶えさせてあげたいが……」
公爵は戸惑いながら言うものの、クラウディアは頷いた。無理な願いだということは10歳のクラウディアでさえよくわかっていた。ただ、その意志があることを公爵に伝えたかった。
その後、公爵は自分の権力を出来うる限り行使し、国王へ交渉してくれたようだった。クラウディアは侯爵にはなれなかったものの、公爵の監督の元、幼い上に女性であったクラウディアに侯爵代理という特殊な爵位を与えることまでしてくれたのだった。おそらく大変なことだったろうが、公爵はクラウディアにその大変さを感じさせることなく、「侯爵代理になったから、これからは心しなさい」と告げただけだった。
その日から、クラウディアは今までと全く違う、勉強を行うことになった。刺繍やダンスの代わりに領地の経営学、政治学、歴史、語学。もっと幼い頃から兄のリアムはこの勉強を行っていたが、10歳のクラウディアにはこの歳から始めることはとても大変なことであった。
しかし、一度も弱音を吐くことはなかった。弱音を吐いた時点で、侯爵の資格はないとクラウディアは思っていたからだった。
朝早くから勉強し、昼は家庭教師達に教わり、夜も勉強。時折公爵と一緒に領地を回って実地を見る。初めは公爵に仕事の教えを請いながらだったが、時が経つにつれ、侯爵としての仕事をこなせるようになってきた。
周りの令嬢からは冷たい目で見られた。それが常識ではありえないことだったからだ。クラウディアに今までいた友達は皆距離を取るようになり、クラウディアも令嬢達の集まりへは勉強を理由にいくことはなくなっていった。
かといって、貴族達との集まりにも混ぜてもらえることはない。
クラウディアはただ1人で、やるしかなかったのだ。
父の守ってきた土地を守るために、もっと良くするために、いろいろな事業を始めて、がむしゃらに仕事をするしかなかった。他の人たちからすると、異様だと言われても。
気づけば領地のために金策に励むクラウディアを、貴族達は「金狂いのクラウディア」と呼ぶようになっていった。クラウディアのことをほとんどの貴族は軽蔑した。貴族が金に執着し、事業を新たに始めることをよくないと思っている人間が多いからだ。
どんなに周りから嘲笑われても、軽蔑されても、クラウディアは歩みを止めることはできなかった。父の望みは、ヴァルトブルグ家を守ることだったのだろうから。そのためなら、クラウディアはどんなことでもしてみせると、決めていた。
「だから私はルイスを始め、周りの貴族から、よく思われていません。私と一緒にいたら、あなたまでそう思われるに違いありません。「金狂いのクラウディア」と婚約した馬鹿な男だと言われているかもしれません」
クラウディアにとって、自分が悪く言われることは大したことでもなかった。しかし、テオが言われるのは心外だった。悪いのはテオではない。そして自分はテオを騙して婚約させてしまったのに等しい。テオがもしクラウディアのことを知っていれば、あの時婚約を断ったことだろう。今の自分なら、どうするだろう。きっとテオが悪く言われるのなら、プロポーズなんてしなかったはずだ。
テオは今まで握り続けていたクラウディアの手を離す。その温もりが消えたことに、クラウディアは動揺するものの、しょうがない、と俯いた。テオはきっともう自分から離れてしまうのだろうと、覚悟を決めるしかなかった。しかしテオがしたことは、クラウディアの予想と反することだった。
ふわりとテオの香りがクラウディアの目の前に感じられる。クラウディアはテオにぎゅ、と優しく抱きしめられていた。クラウディアの顔に、テオの胸が当たる。
「クラウディア。話してくれて、ありがとう。……私は、貴女が今ここでこうやって、私のそばにいて生きてくれていることが何より、嬉しいです」
テオの心臓の音をクラウディアは聞く。少し早い。心地いい。
「貴女がいてくれれば、いいです。クラウディアが、こうやっていてくれるだけで」
私も、あなたがいてくれればいい。あなたがこうやって私のそばにいてくれるだけで。
テオの言葉をクラウディアも心の中で繰り返す。クラウディアはゆっくり、テオの体に腕を回した。
「私も、あなたが、テオが、私の一番近くにいてくれて……本当に、」
嬉しい。私と、私と婚約してくれて、ありがとう。どれだけ礼を言っても、言い切れないほど。
クラウディアはテオの温もりに目を瞑る。
テオの抱きしめ方は、柔らかいが少し苦しくなるほどで、気持ちを込めて抱きしめてくれているのがわかる。
「たとえ、あなたが私の爵位やお金を欲しくて婚約したとしても、私は、あなたが……」
好きです。
クラウディアがそう言おうとした時だった。
「貴女はそう思っていたんですね」
テオの声色が少し変わったことに、クラウディアは気付き、顔を上げた。テオのクラウディアを抱きしめる腕はそのままだったが、泣き出しそうな、辛そうな顔をしている。
「テオ?」
「公爵の言う通りでした。私の努力が足らなかった……」
「私、変なことを、言いましたか?」
「いいえ。これは私の問題ですから」
「テオ、話してくれないと全然意味がわかりません」
しかしそれにはテオは答えない。クラウディアを優しく体から離す時には、テオはあの苦しそうな顔ではなく、笑顔に戻っていた。
「あまりにも不公平でしたね。貴女は、領地も辛い過去まで全て私に見せてくれたのに。私のことは何も話さず隠してしまった」
「それは、別にテオのことを知らなくても、テオがいい人だってわかっているからで……」
テオはクラウディアのはちみつ色の髪の毛を一房触れて、口付ける。
「用事を済ませなくてはいけなくなりました。時間はかかりますが、必ず戻るので、待っていてくれませんか」
「……いやです」
クラウディアは真っ直ぐテオを見つめ、そして初めてテオに意見した。
「テオの用事が何かはわかりません。けど、私は、テオに、私のそばにいて欲しい」
「いつも私のすることを認めてくれるのに、今日は違うんですね」
テオが困ったように笑った。
「だって、私、あなたのことが……」
好きなんです。と口を開く前に、テオがクラウディアの額にキスを落とした。
「全部の私を知ってから、その続きを聞かせてください」
もう何を言ってもきっと今のテオには無駄であると、直感的にクラウディアは理解した。テオの意志は何よりも固そうで、クラウディアがどうこう言ったところで変えられそうにない。クラウディアはどうテオに声をかけていいかわからず、呆然とするしかなかった。




