最後の鐘の前で
王宮の大広間に、二度目の鐘が鳴った。花嫁候補たちが中央の婚姻簿の前へ集まり、王家の書記官が席につく。侯爵はリディアの背後に立ち、逃げ道を塞ぐように片手を椅子の背へ置いた。
「ここまで来れば、もう余計なことは考えまい」
「伯父様は、私が何を考えているかご存じないでしょう」
「考える必要などない。お前の役目は家のために嫁ぐことだ」
リディアは振り返らなかった。視線の先にはエドガーがいる。彼は衛兵と話していたが、リディアが顔を向けるとすぐにこちらを見た。近づいてきた彼は、リディアに問いかける。
「立っていられるか」
「ええ。最後まで、自分で話します」
「分かった」
それだけ言って、エドガーは彼女の隣に立った。侯爵は露骨に舌打ちをした。
王家の使者が宣言する。
「婚姻簿に記名する者は、仮面を外し、本人の名を告げよ。拒否する者は、最後の鐘が鳴る前にその意思を示すこと」
赤い仮面の女性が最初に進み出て、婚約者の隣で名前を書いた。続いて二人、三人と署名が進む。リディアの番が近づくにつれ、侯爵は落ち着かなくなった。彼女の肩に触れようとしたが、エドガーが間にいるため手を出せない。
四人目の署名が終わったとき、侯爵が小声で囁いた。
「今ならまだ、馬車を引き返させてやれる」
「どうして弟を連れて行ったのですか」
「お前が私を困らせるからだ」
「私が結婚したくないと言っただけで?」
「家を支える責任を知らない娘には、少々厳しい教育が必要だ」
リディアは伯父の言葉を聞きながら、ずっと抱えていた疑問に答えを見つけた。侯爵は弟を守るために後見人になったのではない。二人が逆らえないように、弟を遠ざけているのだ。
「伯父様は、ノエルを人質にしているのですね」
「人聞きの悪いことを言うな」
「では、今ここで弟を帰すと約束してください」
「署名を済ませたらな」
リディアは大きく息を吸った。広間の人々がこちらを見始めている。伯父は彼女の袖を引き、前へ押し出した。
「さあ、名前を書け」
リディアは婚姻簿の前へ進んだ。書記官が羽根ペンを脇に置く。白い紙には、相手の伯爵の名がすでに記されていた。自分の名前を書くための空欄が、ひどく小さく見えた。
「婚姻を承諾しますか」
書記官の声はよく通った。
リディアは羽根ペンを取らなかった。
「承諾しません」
広間が静まり返った。侯爵が一歩前へ出る。
「この娘は緊張しているだけです。私が後見人として承諾しています」
侯爵は書記官の返事を待たず、羽根ペンを取った。リディアは婚姻簿の上に手を置いた。伯父がペン先を止めたところで、仮面を外して傍らに置く。白い絹の裏に縫い込まれた紋章が、伯父にも書記官にも見える向きだった。
「リディア・エルヴェンです。今の返事を、私の名前で記録してください」
侯爵は羽根ペンを机に置き、伯爵を振り返った。書記官はそのペンを取り、リディアの返事を書き留めた。
「閣下。お約束どおりです。少しお待ちいただければ、姪は分別を取り戻します」
伯爵は返事をしなかった。踊っている最中にも断ったことを、リディアは覚えている。聞こえなかったふりをさせたくはなかった。
「先ほど、踊りながらもお断りしました。あのときのお返事を、今ここで聞かせてください。私が署名をしなくても、伯父とのお約束は守られるおつもりですか」
伯爵は周りを見た。誰も近づいてこない。彼は書記官が書き留めたばかりの記録に目を落とした。
「私が話を受けたのは、ご本人も承知していると聞いたからです。話が違うのであれば、この縁談から降ります」
「閣下!」
侯爵が呼び止めても、伯爵はもう婚姻簿から離れていく。最後の鐘が鳴ると、書記官はリディアの拒否を書き留めた記録を読み上げ、婚姻簿を閉じた。空欄は空欄のままだった。
侯爵がリディアの袖をつかんだ。
「今ならまだ話をつけられる。考え直せ。お前が署名しないなら、弟の将来は保証できんぞ!」
もう鐘は鳴り終わっている。それでも伯父は、弟の名を出せば従うと思っているのだ。リディアは袖を引いて伯父の手から外し、広間の奥まで聞こえるよう声を上げた。
「東門の馬車を呼び戻してください。弟を港の商館へ送るよう命じたのは、伯父様ですね」
「寄るだけだ。あの子の行き先にお前の許しなど要らん」
「では、そのまま弟を連れていくおつもりですか。縁談を断った私への罰として?」
侯爵は口を開いたが、答えなかった。先ほどまで彼と談笑していた貴族たちがこちらを見ている。リディアは書記官に向き直った。
「今お聞きになったことも、記録してください。私はノエルの姉として、弟の保護を求めます」
「私も証言します」
ミナが人垣から進み出た。リディアの隣まで来ると、両手を前で組み、侯爵を見た。
「ノエル様の居場所をお嬢様に知らせるなと、侯爵様から直接申しつけられました。移送の馬車を手配したのも侯爵様です。配車票の控えは、お嬢様から近衛の方へ渡っています」
侯爵が詰め寄ろうとするのを、エドガーが遮った。書記官はミナに名を尋ね、証言を書き留めた。リディアも胸元から焦げた封筒を出し、伯父が何と言って火をつけたかを話した。封筒を押さえていないと、指が震えてしまいそうだった。弟の無事はまだ分からない。近衛が間に合うよう、せめて最後までここで伯父を引き留めておきたかった。
広間の入り口で衛兵が道を空けた。エドガーの部下が歩み寄り、東門で馬車を止めたと告げる。
「ノエルは、怪我をしていませんか」
「ありません。姉上に会いたいと申しております。こちらへお連れしています」
椅子の背につかまって、リディアはようやく息をついた。侯爵が何か言いかけたが、もう彼の顔を見る気にはなれなかった。
広間の扉が開き、衛兵に付き添われた少年が現れた。リディアはその顔を見た瞬間、侯爵のことも婚姻簿のことも忘れて走り出した。
「ノエル!」
「姉さん!」
弟が飛び込んできた。リディアは強く抱きしめ、何度も名前を呼んだ。ノエルは泣きながら、彼女のドレスをつかんでいる。
「帰れないかと思った。僕、姉さんに手紙を書いたのに、返事が来なくて」
「読んだわ。ちゃんと読んだ。ごめんね、すぐに迎えに行けなくて」
「姉さんが悪いんじゃない」
ノエルは涙を拭い、リディアを見上げた。
「僕、もうあの人のところへ戻りたくない」
「戻さない。今度こそ、私が守るわ」
リディアが言うと、エドガーが二人の前へ来た。
「弟君は王宮の保護下に入る。後見の手続きが終わるまで、あなたと一緒に過ごせるよう手配する」
リディアはノエルを抱いたまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、弟君を安全に帰してからだ」
エドガーはそう言ったが、リディアは首を振った。
「いいえ。あなたが私の返事を聞いてくれたから、ここまで来られました」
エドガーは少し困ったように笑った。
「あなたが自分で言ったんだ。私は、その言葉が届くようにしただけだ」
リディアはノエルの手を握り直した。最後の鐘は鳴り終わった。婚姻簿にリディアの署名はなかったが、彼女は失ったと思っていたものを取り戻し始めていた。




