弟の船
「どこへ送るつもりなの」
リディアはミナの肩を支えた。侍女は走ってきたせいで息を切らしていたが、握っていた紙を広げる。
「港を経由して国外へ出すそうです。侯爵様の馬車係が、夜半までに東門へ来るよう命じられていました。馬車の番号と、護衛の名前も書いてあります」
配車票に記された行き先は、港町にある侯爵家の商館だった。リディアはそこを知っている。伯父が外国との取引に使う場所だ。国境を越えるまでのどこかで馬車を止めなければ、王都から弟の行方を追うのは難しくなる。
「この紙はどうしたの」
「馬車係が捨てた控えです。わたしが拾いました。盗んだわけではありません」
「ありがとう。危険なことをさせてしまったわね」
「わたしは、お嬢様が怖い顔で我慢なさるのを、もう見たくありません」
ミナは目を赤くした。リディアは紙を受け取り、エドガーへ差し出す。
「弟を連れ戻したい。今すぐに」
「配車票だけでは、どこにいるか分からない」
「伯父は学校だと言っています。でも、この商館へ送るなら、学校から連れ出す手続きが必要なはずです」
エドガーは衛兵に王都内の寄宿学校の一覧を持ってくるよう命じた。侯爵の名前で後見人登録されている生徒を探す。リディアは待つ間、胸元から焦げた手紙を取り出した。
「ノエルは三日後までに帰ると書いていました。だから、まだ学校にいると思います」
エドガーは封筒の焦げ跡を見た。
「これを侯爵が燃やしたのか」
「ええ。私が婚姻を拒むと、弟の暮らしもこうなると言って」
「それも証言する。あなたが話したことを、私は忘れない」
リディアは手紙を畳んだ。エドガーは彼女を慰めるために大丈夫だとは言わなかった。代わりに、できることを一つずつ実行している。それが頼もしかった。
衛兵が戻り、学校の名簿を差し出した。侯爵の名が後見人欄にある生徒は三人。そのうち十三歳の少年は一人だけだった。
「ノエル・エルヴェン。南門の聖ラウル寄宿学院です」
リディアは学校名を口にした。そこは母が生前、弟を通わせたいと言っていた学校だった。伯父が同じ学校を選んだことが、今は皮肉に感じられる。
「今から行けますか」
「私が部下を向かわせる。あなたは舞踏会で侯爵の注意を引いてほしい」
「弟を置いて、踊るのですか」
「救出に向かう隊員がいると知られれば、侯爵は移送を早める。あなたが会場にいれば、彼は今夜の婚姻がまだ成立すると思うだろう」
リディアは首を振りかけた。自分の知らない場所で弟が助けを待っているのに、ここに残るのは耐え難い。けれど、伯父の目を引きつける役割なら、自分にできる。
「ノエルが無事だと、必ず知らせてください」
「約束する」
エドガーは隊員を呼び、配車票を渡した。学院への確認、少年の保護、東門の馬車の確保。命令は短く、明確だった。リディアは一つも聞き逃すまいと耳を傾けた。
舞踏会の開始を告げる鐘が鳴った。
リディアが白い仮面をつけて大広間へ入ると、壁際に並んだ貴族たちが一斉に振り向いた。中央には金色の婚姻簿が置かれ、六人の花嫁候補の名前が伏せられている。王家の使者が選んだ相手と踊り、最後に本人が名前を書く。それが今夜の手順だった。
赤い仮面の女性が近づいてきた。
「あなた、侯爵様に叱られたそうね。今からでも帰ったら?」
「帰りたいと思っています」
「なら、なぜここにいるの」
「帰るために、必要なことがあるからです」
女性は意味が分からないという顔で離れた。リディアは広間の奥に立つ侯爵を見つけた。彼は王家の使者と談笑しながら、何度も婚姻簿へ視線を送っている。弟のことなど、まるで気にしていないように見えた。
最初の曲が始まった。六人の花嫁候補が順に招かれ、男性たちと踊る。リディアの相手は、侯爵と話をつけていた年配の伯爵だった。伯爵は挨拶もそこそこに、彼女の腰へ手を回した。
「グレイヴ侯爵から聞いている。お前は大人しい娘だそうだな」
「私の名前をご存じですか」
「名前など、婚姻簿に書けば分かる」
「私の意思は、必要ないのですか」
「侯爵の同意がある。何を心配する」
リディアは足を止めた。伯爵は不機嫌そうに眉を上げる。
「踊りの途中だぞ」
「申し訳ありません。でも、私はあなたと結婚しません」
「何だと」
伯爵はリディアの腕を強く引いた。周囲の踊り手が驚いて道を空ける。彼女が振りほどこうとしたとき、近衛服の男性が間に入った。
「手を離していただきたい」
エドガーだった。伯爵は相手の階級章を見て、ようやくリディアを解放した。
「隊長、これは私の花嫁だ」
「まだ婚姻は成立していません」
「侯爵が許可した」
「本人は拒否しています」
エドガーはリディアに手を差し出した。今度は支えるためではない。踊りの相手として、彼女を誘っている。
「一曲、私と踊っていただけますか」
リディアは広間の視線を感じた。侯爵は怒りを隠そうともしていない。だが、エドガーの手は彼女が選ぶまで動かなかった。
「喜んで」
リディアは自分から手を重ねた。
曲が変わり、二人は踊り始めた。エドガーは近衛の礼装で舞踏会に立つことなど滅多にないと言ったが、足運びは正確だった。リディアが緊張で一歩遅れると、彼は速度を落とす。
「私が手を取らなかったら、どうなさるつもりでしたか」
「礼をして、下がるつもりだった」
「皆が見ている前で?」
「ああ。私が誘ったのだから、断られたら私が引く」
伯爵に腕を引かれたところがまだ痛む。リディアは、曲が始まってからもエドガーがその腕に触れていないことに気づいた。
「では、私がもう一曲と言ったら?」
「喜んで。だが、今は一曲しか頼んでいない」
生真面目な返事に笑ってしまった。伯父の立っている方角へ背を向けて回るとき、リディアは自分から歩幅を広げた。彼はすぐに合わせてくれた。もう一曲踊りたいと思ったのは、本当だった。
曲が終わると、エドガーの部下が広間の入り口に現れた。彼は隊長に短く報告する。リディアには声が聞こえなかったが、エドガーの表情が険しくなった。
「どうしたのですか」
「学院に着いたとき、弟さんはもういなかった」
リディアは立ちすくんだ。
「移送されたのですか」
「馬車は東門へ向かっている。部下が追っている」
侯爵が近づいてきた。彼は二人の間に割り込み、リディアの仮面に指をかけた。
「もう遊びは終わりだ。次の鐘で、お前は署名する」
リディアは仮面を押さえ、伯父の手を払った。
「弟をどこへ連れて行ったのですか」
「さあね。お前が賢ければ、また会えるかもしれない」
エドガーが一歩踏み出したが、リディアは彼を制した。ここで伯父を殴っても、ノエルの居場所は分からない。必要なのは、伯父が弟を動かす理由を奪うことだった。
「分かりました。最後の鐘まで、ここにいます」
侯爵は勝ち誇ったように笑った。リディアは彼の顔を見ながら、婚姻簿の前に立つ自分を思い浮かべた。
そこではもう、誰の命令にも従わない。




