仮面の裏の約束
侯爵の小箱には、エルヴェン家の古い紋章が刻まれていた。リディアが子どものころ、父が大切な書類をしまっていた箱と同じものだ。伯父はそれを片手で弄びながら、エドガーを値踏みするように眺めた。
「近衛隊長殿。家の事情に口を挟まれるのは困りますな」
「婚姻への同意を確認しただけです」
「姪は緊張しているのです。若い娘が結婚を前に取り乱すのは珍しくない」
「私は取り乱していません」
リディアが言うと、侯爵は笑顔のまま彼女の腕をつかんだ。手袋越しでも痛みが伝わるほど強い。
「お前は少し休んだほうがいい」
「離してください」
「リディア」
「離して、と言いました」
伯父の顔から笑みが消えた。エドガーは侯爵の手首に視線を落とし、ゆっくりと二人の間へ踏み込んだ。
「王宮内で招待客に暴力を振るうなら、身分にかかわらず警備記録に残します」
「暴力とは大げさな」
「では、手を離せるはずです」
侯爵はリディアを突き放した。よろめいた彼女をエドガーが支える。腰ではなく肘に軽く触れ、立ち直るとすぐ手を離した。その慎重さが、かえってリディアにはありがたかった。
「舞踏会まで一時間ある。姪には私の控え室で休んでもらう」
「本人の希望を聞いてください」
「隊長殿は、どうしてそこまでこの娘を気にかけるのですかな」
エドガーは迷わなかった。
「嫌がっている人間を無理に連れて行く者がいるからです」
侯爵は返答を失った。周囲にはすでに数人の給仕と衛兵が集まっている。伯父は人前での評判を何より気にする。リディアはそれを知っていた。
「私はここに残ります」
侯爵は彼女をにらんだが、やがて小箱を懐へしまった。
「よろしい。だが、夜が終わるまでに考えを改めなさい。お前の弟は、まだ幼いのだから」
侯爵が去ると、リディアは壁に手をついた。今の言葉を、エドガーも聞いていた。弟のことを話すべきか迷う。助けを求めれば、この男性まで伯父の敵になる。それでも一人で抱え込めば、今夜の署名を拒む方法は見つからない。
「弟がいます。十三歳です」
エドガーは彼女を急かさず、廊下の端にある長椅子を示した。リディアが座ると、彼は少し離れた位置に腰を下ろす。
「父が亡くなって、伯父が後見人になりました。母も亡くなり、私には弟を引き取る権利がないと言われました。今は伯父が決めた学校に預けられています。学校の名前も教えてもらえません」
「あなたは成人しているのか」
「二十一歳です」
「ならば、後見人の指定を争うことはできる。少なくとも、婚姻の同意と弟の後見は別の問題だ」
「伯父はそう扱いません」
「だから脅迫になる」
エドガーは事実を簡潔に言った。侯爵の権威に遠慮する言葉はない。リディアは初めて、自分が受けてきた扱いに名前がついた気がした。
「もし私が拒んだら、弟を遠くへ送ると言われています」
「その言葉を聞いた者は?」
「あなたと、従者が二人。屋敷では侍女のミナも聞いたことがあります」
「証言を頼めるか」
「ミナを危険にさらしたくありません」
「無理に頼まない。だが、あなたが守りたい相手を一人で守らなければならないという決まりもない」
リディアは膝の上で仮面を裏返した。侯爵家の紋章が見える。
「今夜、断れば婚姻は成立しないのですね」
「本人が名を記さなければ成立しない。ただし、侯爵が別の書類を持ち出す可能性はある。公証人に確認する必要がある」
「公証人は伯父の知り合いです」
「それなら、別の証人を増やそう」
エドガーは立ち上がり、近くにいた衛兵を呼んだ。王宮の婚姻簿を管理する書記官を呼び、式典の規則と本人確認の手続きを持参させるよう命じる。衛兵が走り去ると、彼はリディアの前へ戻った。
「あなたが断る場に、私も立つ。侯爵が何を言っても、あなたの返事を聞く」
「なぜ、そこまでしてくださるのですか」
エドガーはしばらく考えた。
「あなたがさっき、衛兵のために責任を引き受けたからだ。誰かを守るために自分が傷つくことを選ぶ人間を、私は放っておけない」
「そんなことをしたら、あなたも損をします」
「損得で決めるなら、近衛には入っていない」
リディアは思わず笑った。エドガーは意外そうに彼女を見たが、すぐに表情を和らげる。
「初めて笑ったな」
「伯父の前では、笑うと油断していると言われます」
「私の前では、好きにすればいい」
その言葉を聞いた途端、リディアは目を伏せた。侯爵の命令に従うことが習慣になっていた自分にとって、好きにしていいと言われることは簡単ではない。けれど、エドガーが差し出してくれたのは新しい命令ではなかった。
書記官が到着した。灰色の髪をきっちり結った女性で、分厚い規則集を抱えている。彼女はエドガーに一礼すると、リディアの前に本を開いた。
「舞踏会の花嫁選定に関する条文です。参加者は最後の鐘が鳴るまでに、本人の意思で署名するか、拒否を宣言できます。代理署名は認められません」
「拒否した人は、どうなりますか」
「何も。婚姻が成立しないだけです」
「伯父が弟の後見人であることは、変わりませんか」
「それは別の手続きです。婚姻を拒否したことを理由に後見契約の条件を変える条項はありません」
リディアは本の文字を一行ずつ追った。そこには、侯爵が語ったような義務は一つも書かれていない。
「この条文を、会場で読み上げてもらえますか」
「必要ならば。私は式典の公証を担当しますから」
リディアはエドガーを見た。彼は彼女の代わりに返事をしなかった。
「お願いします。私は自分の名前で拒否したいのです」
書記官がうなずいた。エドガーは小さく息を吐き、初めて安心したような顔を見せた。
そのとき、控え室から侍女のミナが駆け込んできた。頬を青くし、両手で一枚の紙を握りしめている。
「お嬢様、侯爵様が……ノエル様を今夜のうちに国外へ移すよう、馬車の手配をなさっています!」
リディアは立ち上がった。婚姻を拒否するための言葉を見つけたばかりなのに、伯父はすでに弟を奪う準備を始めていた。
ミナの持つ配車票には、侯爵家の馬車番号が記されていた。リディアはその数字を見つめ、弟と最後に会った日のことを思い出す。ノエルは寄宿学校へ向かう馬車に乗る直前、窓から身を乗り出して手を振っていた。姉さんが迎えに来るなら、門の前で待っている、と笑っていたのだ。
「私、迎えに行くと約束したの」
リディアはミナに向かって言った。自分に言い聞かせるためでもあった。
「弟を待たせたまま、知らない人の妻になんてなれない。今夜は、私があの子のところへ帰るために使うわ」
エドガーはすぐに答えず、ミナの手元へ目を落とした。紙には、馬車が出る時刻と行き先が書かれているらしい。
「ならば、間に合わせよう。あなたが選んだ道だ」




