名前を呼ばれない花嫁
リディアが弟の手紙を見せられたのは、婚礼用の仮面を渡されたときだった。
「白い絹のほうが似合うだろう。今夜、お前はこれを着けて踊る」
グレイヴ侯爵は机の上に仮面を置き、もう一方の手で小さな封筒を押さえていた。弟ノエルの筆跡で宛名が書かれている。リディアが手を伸ばすと、侯爵は封筒を引いた。
「先に返事を聞こう。王家の婚姻簿に署名するなとは言わないだろうね」
「相手が誰なのかも知らされていません」
「知る必要があるか? お前の家は私が立て直してやった。礼を尽くすのが筋だ」
侯爵の指には、父が亡くなるまで子爵家の金庫に収められていた赤い宝石の指輪があった。父の遺品を侯爵が身につけていることにも、リディアは抗議できずにいた。弟の後見人として財産の管理を任された伯父は、異議を唱えればノエルの教育費を打ち切ると脅してきたからだ。
「ノエルは、どこにいるのですか」
「安全な場所だよ。お前が賢く振る舞う限りはね」
封筒の端から、紙片が少しのぞいた。リディアは弟が文字を覚え始めたころから、手紙の末尾に必ず小さな船を描くことを知っている。いま見えているのは、その船の帆の一角だった。
「手紙を読ませてください」
「署名が済んだら、いくらでも」
「本人が書いたものか、確かめたいのです」
侯爵は椅子から立ち上がり、封筒を暖炉の火に近づけた。リディアが思わず一歩踏み出すと、彼は満足そうに口元を曲げる。
「よく分かっているじゃないか。お前が言うことを聞かなければ、弟の暮らしもこうなる」
「やめて!」
リディアが叫んだときには、封筒の角が焦げていた。侯爵は火から離して灰皿に投げ入れ、手袋をはめ直した。燃えた部分から煙が細く上がる。リディアは灰皿を抱え、指先で火を消した。熱さよりも、弟の書いた文字が失われたことがつらかった。
「お前の母親は最後まで強情だった。だが、結局あの女が守ったものは何だった? 何も残せなかったではないか」
「母のことを言わないでください」
「ならば私の機嫌を損ねるな」
侯爵は扉へ向かった。出る直前に振り返り、灰皿を抱えたままのリディアを見下ろす。
「今夜の相手は、王家が決める。花嫁が仮面を着けて踊り、最後に名を記す。それが百年続いた習わしだ。お前の希望を聞く場ではない」
扉が閉まると、リディアは床に膝をついた。焦げた封筒から手紙を抜き、破れないように広げる。短い文章の最後に、弟の描いた船があった。帆の下には小さな字で「姉さんの誕生日までに帰る」と書かれている。
誕生日は三日後だ。
侯爵はノエルの居場所を教えなかった。だが、弟が帰るつもりでいることだけは分かった。リディアは手紙を畳んで胸元の内ポケットにしまい、仮面を拾い上げた。白い絹の裏には、侯爵家の紋章が縫い込まれている。自分の顔を隠す道具にまで、伯父の所有物である印がついていた。
控えめなノックがした。侍女のミナが扉を開け、廊下を確かめてから入ってくる。
「お嬢様、馬車の支度が始まりました」
「まだ日が高いわ」
「侯爵様は、先に王宮の控え室へお連れするようにと」
ミナは灰皿の焦げ跡を見つけ、表情を変えた。リディアは手紙のことを説明しなかった。ミナは幼いころから仕えているが、侯爵の命令に背けば仕事を失う。彼女を巻き込むことはできない。
「ドレスを着るわ。手伝ってくれる?」
「本当に、あの方のおっしゃるとおりになさるのですか」
「今夜、王宮へ行く。それだけは決めたの」
リディアが立ち上がると、ミナは化粧台の引き出しから母の形見の櫛を取り出した。木製の柄には、小さな花の模様が刻まれている。
「奥様はいつも、嫌なことを言われた日ほど、この櫛でお嬢様の髪を結っていましたね」
「ええ。泣き顔で人に会わないためだと言っていたわ」
「でも、お嬢様が泣くことまで禁じたわけではありません」
ミナが櫛を差し出した。リディアは受け取ったまま、しばらく動けなかった。母が亡くなってから、伯父の前で泣くことはなかった。泣けば弱みを握られる。怒れば弟が困る。どちらも許されないまま過ごしてきた。
「今は泣かない。夜が終わるまで、泣かないわ」
ミナは何も言わず、ドレスの背中の留め具を外した。
王宮へ向かう馬車には、侯爵の従者が二人乗り込んだ。リディアの隣ではなく向かい側に座り、逃げ道を塞ぐように膝を広げている。窓から見える街並みは、母と買い物に来たころと変わらない。石畳の隙間に咲く花、果物屋の赤い天幕、角を曲がるたびに鳴る馬車の鈴。リディアが手を伸ばせば触れられそうな日常が、今日は遠く感じられた。
王宮の門をくぐると、従者の一人が口を開いた。
「侯爵様からの伝言です。余計な人間と話をなさらぬように」
「私は囚人ではありません」
「もちろんです。ただ、今夜は大切な夜ですから」
男は礼儀正しい口調のまま、馬車の扉に手をかけた。リディアが降りるまで、ほかの誰も近づけないように立っている。抗議しても聞き入れられないことは、屋敷で十分に学んだ。
控え室には花嫁候補のための椅子が六脚並んでいた。すでに五人が座り、それぞれ違う色の仮面を手にしている。リディアが入ると、赤い仮面の女性が目を細めた。
「まあ、子爵家の方までいらしたの。侯爵様はずいぶんお優しいのね」
「ご挨拶が遅れました。リディア・エルヴェンと申します」
「名前は結構よ。今夜は仮面で選ばれるのだから」
女性は隣の友人と笑い合った。リディアは空いた椅子に腰を下ろしたが、侍女が飲み物を配り始めても自分の前にだけ杯が置かれないことに気づいた。赤い仮面の女性が給仕に小さく指示している。侯爵から何か言われているのかもしれない。
喉は渇いていた。それでも、リディアは立ち上がって水を求める気になれなかった。ここで争えば、また弟の名前を持ち出されるだろう。
扉の向こうで金属の落ちる音がした。続いて、若い衛兵が叱責される声が聞こえる。
「お前は何をしている! この廊下は招待客以外通すなと命じただろう!」
「申し訳ありません。こちらの方が道に迷われて」
「迷ったなら追い返せ!」
リディアは廊下へ出た。衛兵が抱えているのは、銀色の皿と割れた水差しだった。床に水が広がり、制服の裾が濡れている。叱っている男は宮廷の上級侍従らしい。
「水差しは私が頼んだものです」
思わずそう言うと、侍従が振り向いた。
「あなたは?」
「花嫁候補のリディア・エルヴェンです。こちらの衛兵には、私が水を運ぶようにお願いしました。責任は私にあります」
頼んでいない。だが、衛兵の肩が震えているのを見て、そのまま通り過ぎることはできなかった。
「そうですか。では、お嬢様に弁償していただきましょう」
「承知しました。費用を書いた紙をください」
侍従は鼻を鳴らし、足早に去っていった。衛兵は深々と頭を下げた。
「助かりました。僕は本当に道を間違えただけで」
「怪我はありませんか」
「はい。でも、お嬢様にご迷惑を」
「水差しは割れてしまったけれど、あなたは無事です。それで十分よ」
リディアがしゃがんで破片を拾おうとすると、背後から低い声がした。
「触るな。指を切る」
振り返ると、濃紺の近衛服を着た男性が立っていた。銀の階級章は隊長のものだ。背が高く、黒髪を短く整えている。無愛想な顔立ちだったが、衛兵の濡れた袖を見てすぐに手袋を外した。
「お前は医務室へ行け。床は私が片づけさせる」
「隊長、ですが」
「命令だ。怪我を隠して持ち場に戻るな」
衛兵が走り去ると、男性はリディアに向き直った。
「なぜ自分が頼んだと言った」
「彼が困っていたからです」
「嘘をついたわけだ」
責められると思い、リディアは身構えた。しかし男性は、床に落ちた銀の皿を拾い、端に寄せただけだった。
「あなたが頼んでいないことは分かる。給仕の通路は反対側だ。あの衛兵は配属されたばかりで迷ったのだろう」
「では、どうして訂正なさらないのですか」
「あなたが彼を助けようとしたからだ。その選択を、私が無かったことにはしない」
リディアは返す言葉を探した。屋敷では、善意で何かをすれば必ず代償を求められた。侯爵は彼女が従った理由さえ自分の功績に変えてしまう。この男性は、会ったばかりの彼女の選択を、そのまま認めている。
「お名前を伺っても?」
「エドガー・レイン。近衛第一隊長だ」
「私はリディアです」
「知っている。花嫁候補の名簿にあった」
エドガーは廊下の奥へ視線を向けた。控え室から笑い声が漏れている。リディアは白い仮面を握り直した。
「今夜の舞踏会は、花嫁が選ばれる場だと聞きました」
「それだけではない」
「どういう意味でしょう」
「花嫁が断るための場でもある」
リディアは顔を上げた。侯爵が語った習わしと、目の前の近衛隊長の言葉は違う。
「断ることが、できるのですか」
「できる。古い婚姻法には、最後に名を記す前なら本人が撤回できるとある。仮面は、家名ではなく本人の意思を問うためのものだ」
リディアは一歩近づいた。
「それは、本当ですか」
「私が嘘をつく理由はない」
「伯父は、希望を聞く場ではないと言いました」
エドガーは一度だけ眉を寄せた。
「誰の言葉より、あなた自身の返事が優先される。それが法だ」
控え室の扉が開き、侯爵の従者が姿を現した。リディアを探していたらしい。彼はエドガーの階級章を見て慌てて礼をした。
「お嬢様、お戻りください。侯爵様がお待ちです」
リディアはすぐに動けなかった。戻れば、また弟のことを持ち出される。ここで逃げれば、ノエルに何をされるか分からない。どちらも恐ろしかった。
エドガーが従者の前に立った。
「彼女は私と話している。急ぎの用なら、侯爵本人が来ればいい」
「ですが、侯爵様のご命令で」
「私は侯爵の部下ではない」
従者は口をつぐんだ。リディアは初めて、伯父の命令が通じない相手を目の前にした。
エドガーは彼女のほうへ体を向け、声を落とした。
「あなたは、今夜の婚姻を望んでいるのか」
答えようとして、弟の手紙を思い出した。胸元の内ポケットにある紙が、歩くたびにかすかに擦れる。ノエルの船の絵を守るためなら、どんな言葉でも飲み込めると思っていた。
けれど、エドガーは彼女の代わりに答えようとしない。
「望んでいません」
リディアは初めて、はっきりと口にした。
「私は、誰とも結婚したくありません。少なくとも、今夜、名前も知らない方とは」
エドガーは静かにうなずいた。
「ならば、その返事を守れ。私も立ち会う」
その言葉に救われかけたとき、廊下の向こうから聞き慣れた拍手が響いた。
「実に感動的だ。だが、姪は一つ、大切なことを忘れているようだね」
グレイヴ侯爵が立っていた。彼は焦げた封筒と同じ色の小箱を掲げ、リディアに向かって笑った。
「ノエルの後見契約書だ。お前が署名を拒めば、弟がどうなるか、よく考えるといい」
リディアは仮面を握ったまま、侯爵とエドガーの間に立ち尽くした。




