仮面を外した人
王宮の小さな客間には、焼きたてのパンと温かいスープが運ばれていた。ノエルは椅子に座ったまま、何度も扉を振り返っている。リディアが隣に座っても、弟はまだ安心できないらしい。
「姉さん、あの人はもう来ない?」
「今夜は来ないわ。衛兵が外にいるもの」
「明日は?」
リディアはすぐに答えられなかった。侯爵の後見権がどうなるのかは、まだ何も決まっていない。弟を安心させるためだけに、絶対に大丈夫だと言うことはできなかった。
「明日も、私が一緒にいる。もし伯父様が来ても、今度は二人で断るわ」
ノエルはしばらく考え、スープの器を両手で持った。
「姉さんも、怖かった?」
「とても」
「でも、みんなの前で怒ったんでしょう。衛兵の人が教えてくれた」
「怒ったわ。あなたを勝手に連れて行ったことが、許せなかった」
ノエルはスプーンを置き、リディアに抱きついた。
「僕も怒ってる。姉さんに嫌なことを言った人、許さない」
「ありがとう。でも、あなたが仕返しをする必要はないの」
「じゃあ、どうしたらいい?」
「私たちの家に帰ろう。庭の木を見て、母さんが植えた花が残っているか確かめたい」
弟はようやく笑った。母が亡くなる前、庭には白い小花がたくさん咲いていた。侯爵は庭師を解雇したと聞いている。荒れているかもしれないが、それでも帰りたい。自分たちの家を、自分たちの手で整え直したかった。
ノックの音がして、ミナが顔を出した。
「お嬢様、王家の書記官様がお見えです」
リディアは立ち上がった。ノエルが不安そうに袖をつかむ。
「ここにいていいのよ。私もすぐ戻るわ」
「僕も話を聞く。自分のことだから」
弟の言葉に、リディアは驚いた。まだ十三歳だが、今夜の出来事で自分の意思を伝えることの大切さを知ったのだろう。
「そうね。一緒に聞きましょう」
書記官は二人の向かいに座り、裁判官から預かった保護の決定書を広げた。裁判官が改めて判断を下すまで、侯爵はノエルに面会も連れ出しもできない。リディアが決定書を弟の前に寄せると、ノエルは自分の名前のある行を見つけ、指でなぞった。
「今夜は、ここで寝ていいんだね」
「ええ。私もここにいるわ」
書記官は、侯爵がノエルも学院からの転出を望んでいたと主張していることを伝えた。
「僕、誰にも聞かれてないよ」
ノエルは決定書から顔を上げた。リディアは膝の上で拳を握った。話を聞きもしない相手の同意を持ち出すのは、舞踏会で伯父が自分にしたことと同じだった。
「裁判官の前で、僕が話してもいいの?」
弟は書記官に聞いた。答えを待つ間に、リディアは彼のためにパンをちぎって皿に置いた。許可が下りれば、伯父のいるところで話さなければならないかもしれない。だが、弟の代わりに断る気にはなれなかった。
「お話は伺えます。明朝、姉上とご一緒に来てください」
ノエルは一度リディアを見て、うなずいた。書記官が帰ると、自分の皿のパンを一つ取って半分に割り、大きいほうを彼女に差し出した。
「姉さんも食べて。僕、もう少し食べられそうだから」
リディアは大きいほうを受け取って、弟と同じようにスープに浸した。書記官が帰ってからは、二人とも伯父の話をしなかった。
窓が白み始めるころ、リディアは毛布を蹴って眠る弟にそっと掛け直した。昨夜は廊下に足音がするたびに起き上がっていたが、今は扉の外を衛兵が通っても目を覚まさない。もう少し眠っていられるよう、彼女は椅子を窓辺へ引き寄せ、母の櫛で髪を結い直した。
朝食をすませ、書記官の案内で裁判官のもとへ行くと、侯爵はすでに来ていた。舞踏会ではリディアのすぐ後ろに立っていた人が、今日は長机の向こうにいる。ノエルは伯父に気づくと足を止めた。リディアはその隣で待ち、弟が歩き出してから一緒に席についた。
「今の学院でうまくいっていなかったのです。本人のために環境を変えてやろうとしただけです」
侯爵は裁判官に向かって言った。リディアは弟のほうへ椅子を向けた。
「ノエル。あなたは、どこへ行くと聞かされていたの?」
「家に帰るんだって。だから馬車に乗った。でも、家に帰るなら通らない道に入ったから、止めてって言ったんだ」
ノエルは膝の上で握っていた手を開き、机に置いた。
「そしたら、馬車の人に、もう姉さんには会えないって言われた」
「護衛が勝手に言ったことでしょう」
「護衛の供述はすでに取っています」
裁判官が言うと、書記官が配車票を机に置いた。ノエルは票にある名前を見て、馬車で隣に座っていた男の名だと言った。侯爵は商館に立ち寄るだけだと繰り返した。リディアは書記官の手元にある学院の退学申請書を見た。病気を理由に退学させるという申請で、末尾には伯父の署名があった。
「環境を変えるためだとおっしゃいましたね。では、なぜ学院には病気を理由に退学を申請したのですか」
侯爵は答えず、裁判官の前に積まれた書類のうち一冊を指した。
「そもそも、私が金を出さなければ、この子は学院へも行けなかったのです」
「父の遺産からお支払いいただいていたはずです。帳簿を見せていただけますか」
書記官がリディアの前で、婚姻契約に添えられていた財産管理報告を開いた。庭師を辞めさせたと聞いた月にも、庭の維持費が支払われている。受取人は、伯父の私邸の改修を請け負った商人だった。リディアは舞踏会へ発つまで伯父が着けていた、父の指輪を思い出した。
「この支払いで、誰の庭を直したのですか」
侯爵が答えないので、リディアはその行を裁判官に示した。確認が必要な支払いを読み上げるうちに、伯父は一度もノエルのほうを見なかった。
休廷を告げられると、廊下に出たノエルが、リディアの袖をそっとつかんだ。
「ちゃんと言えたかな」
「ええ。馬車の人が言ったこと、私は知らなかった。話してくれてありがとう」
「声、変じゃなかった?」
「私も昨夜、名前を言うときに声が震えたわ」
ノエルが笑った。二人で窓のそばに腰を下ろし、書記官が呼びに来るまで、弟が学院に置いてきた荷物の話をした。机の引き出しには姉に渡すつもりで描いた船の絵もあるという。取りに行くときは一緒に行こうと約束した。
審理が再開され、裁判官は、ノエルを本人に行き先を知らせず国外へ移そうとした行為を理由に、侯爵の後見権を取り消した。ノエルは後見人に誰を望むかと聞かれ、リディアを指した。彼女は会計人の監督を受けて家産を管理する条件を受け入れ、後見を引き受ける書類に自分の名を書いた。昨夜の婚姻簿と違って、書き終えるまで急かす者はいなかった。
侯爵は家産の管理権も失った。休廷中、会計人はリディアが指摘した支出を領収書と照合していた。伯父の私邸の改修に使われたと確認できた分について、裁判官は侯爵の私財からの返還を命じた。書記官が決定書を読み終えると、王家の使者が侯爵の前に立ち、式典への参加資格と婚姻仲介の公的資格を取り消すと告げた。伯父は昨夜の伯爵の名を口にしかけたが、使者は返事を待たずに下がった。
「姉さん、もう帰れるんだね」
リディアは弟と並んで決定書を見た。今度は、伯父がそこに書かれた名前を消すことはできない。
「ええ。家に帰りましょう」
客間へ戻り、ミナと一緒に帰り支度を始めたところで、エドガーが訪ねてきた。近衛服の上着を脱ぎ、白いシャツに濃紺のベストを着ている。彼はノエルに軽く頭を下げた。
「無事に姉上と会えてよかった」
「隊長さん、助けてくれてありがとう」
「礼なら、姉上に言うといい。君を諦めなかったのは彼女だ」
ノエルはリディアを見て、少し考え込んだ。
「姉さんは、僕を助けるために結婚しようとしてたの?」
リディアは言葉に詰まった。弟に余計な負担をかけたくなくて、ずっと事情を隠していた。だが、もう隠す必要はない。
「そうよ。伯父様に、結婚しなければあなたに会わせないと言われたの」
「僕のせい?」
「違う。伯父様が悪いの。あなたは何も悪くない」
ノエルは唇をかみ、うつむいた。リディアは弟の隣に座り直す。
「私はあなたを守りたかった。でも、あなたのためだと言って、何も相談しなかった。それは間違っていたと思う」
「僕も、姉さんを守りたかった」
「知っているわ」
「今度から、僕にも話して。子どもだからって、全部隠さないで」
リディアは弟の手を握った。
「約束する」
エドガーは二人の会話を静かに聞いていた。リディアが顔を上げると、彼は少しだけ笑った。
「君たちは、よく似ている」
「どこがですか」
「大切な相手を守ろうとして、自分のことを後回しにするところだ」
ノエルはすぐに言い返した。
「じゃあ、姉さんは隊長さんにも似てるね」
エドガーが目を丸くした。リディアは思わず笑ってしまった。
「どうしてそう思うの?」
「だって、隊長さんも姉さんを守ろうとしてたんでしょ」
ノエルは当然のことのように言った。エドガーは少し困った顔をしたが、否定しなかった。
「そのとおりだ」
リディアは笑いながら、昨夜の「もう一曲」のやり取りを思い出した。あの一曲だけを頼むと言った人が、仕事を終え、用事を告げるでもなくここにいる。今日は自分から誘ってみたいと思った。
「ノエル、少しだけ席を外してもらえる?」
弟は二人を交互に見て、にやりと笑った。
「分かった。ミナにお茶を頼んでくる」
「そんなに急がなくても」
「急いでないよ」
ノエルはそう言いながら、ほとんど走るように部屋を出た。扉が閉まると、リディアは急に緊張した。エドガーは向かいの椅子に座り、彼女の言葉を待っている。
「昨夜、もう一曲と言ったらどうするか、私が聞いたのを覚えていますか」
「覚えている。あのときは、また誘ってもらえるとは思わなかった」
「聞くだけで精いっぱいだったんです。今は、次に会う約束をして帰りたいです」
エドガーは向かいの椅子に座ったまま、姿勢を正した。断る理由を探しているようには見えなかったのに、彼はしばらく答えなかった。
「私も、そのつもりで来た。だが、ここまで来てから、何と誘えばいいか分からなくなった」
「踊りに誘うときは迷わなかったのに?」
「昨夜は、一曲踊れたら十分だった。今日は、その先も望んでいる」
リディアは向かいの椅子から立ち上がり、窓辺に寄った。庭園の道が途中で二つに分かれている。昨日は、王宮に着いてからどこへ行くにも、誰かの用意した道を歩いていた。
「では、明日、庭園を一緒に歩きませんか。仕事の話は少しだけにして、あなたのことを教えてください」
「何から話せばいい?」
「私が一歩遅れたら、すぐ気づきましたね。誰に踊りを習ったんですか」
「近衛に入ってから、式典の練習で。足を踏むたびに、一度止まって相手を見ろと叱られた」
リディアは振り向いた。足を踏んで叱られる彼など想像したこともなかった。もう少しその話を聞きたいと思ったし、明日もきっと、思いがけない顔を見せてくれるのだろう。
エドガーが立ち上がった。彼女のそばまで来て、手を差し出しかけたところで止まる。
「手を取っても?」
リディアは自分から手を重ねた。
「昨日は踊るためでしたけど、今日はこうしたかっただけです」
言ってから気恥ずかしくなった。目をそらしかけたが、彼が指を閉じるのを待ち、そのまま顔を上げた。
「エドガー、私、あなたが好きです。これからは恋人として会いたいです」
「私もあなたが好きだ、リディア。明日は近衛の制服を置いてくる」
「では私も、仮面は置いていきますね」
彼が声を立てて笑った。昨夜、広間ではほとんど表情を崩さなかった人の笑い声を、リディアはつないだ手を離さずに聞いていた。
扉の向こうで、ノエルとミナの話し声が聞こえた。弟はお茶を運ぶのに苦労しているらしい。リディアはエドガーと顔を見合わせ、二人で扉を開けた。
ノエルは盆を持ったまま立っていた。ミナが隣で支えている。
「姉さん、もう話は終わった?」
「ええ。ありがとう」
「隊長さん、明日も来る?」
エドガーはリディアを見た。
「彼女がよければ」
「来てください」
リディアが答えると、ノエルは満足そうにうなずいた。
客間のテーブルに四人分の茶器が並んだ。ミナは最初、使用人だからと遠慮したが、リディアは隣の椅子を引いた。
「帰る前に、一緒に飲みましょう。あなたも私たちを守ってくれたのだから」
ミナは少し戸惑い、それから椅子に座った。ノエルが自分の皿から菓子を一つ取り、ミナの前に置く。エドガーは茶を注ぎ、リディアに砂糖を勧めた。
「甘いものは好きか」
「好きです。でも、今日はこのままで」
リディアは湯気の立つ茶を口にした。疲れが少しずつほどけていく。窓の外では、庭師が生け垣に沿って落ち葉を集めていた。
エドガーが小さな声で尋ねた。
「明日の庭園では、どこを歩きたい?」
「母が好きだった白い花の咲く場所を探したいです」
「一緒に探そう」
リディアはうなずいた。もう、誰かの命令で歩く道ではない。自分で選んだ人と、自分で選んだ場所へ行く。そんな当たり前のことが、今は何より嬉しかった。
ノエルが菓子を食べ終え、眠そうに目をこすった。リディアは弟の肩に毛布をかけ、エドガーとミナに小さく礼を言った。
「今日は、本当にありがとうございました」
「礼は明日の散歩で聞こう」
エドガーはそう言って、少し照れたように笑った。
返してもらった白い仮面を、リディアは帰り支度の包みから取り出した。侯爵家の紋章を上にして置いてみても、もう伯父の顔を思い浮かべずにいられた。
彼女は仮面を伏せ、弟の隣に座り直した。エドガーが注いでくれた茶は、まだ温かかった。




