第9話 賽の河原
ヴァロワ家の商館の融資が正式にまとまってから、四か月。
ル・ノームル支部は期の目標を達成し、祝勝会が開かれることになった。
大広間に樽が並び、商員たちが上座を囲むように集まっている。
支部長のグランヴィル伯爵が立ち上がった。
「今期の個人目標達成者は壇上へ」
広間が静まった。
数名の名が読み上げられ、そのたびに拍手が起こる。
「――次は」
支部長が帳面から目を上げた。
「シャルロット・ダルジャン嬢」
名を呼ばれ、あたしは前へ出た。
「目標比、二倍と二割」
広間が、どよめいた。
「ヴァロワ伯爵家への純新規で金貨千五百枚。小口貸付、百五十枚。合計、千六百五十枚。新任にして、この数字だ」
支部長が一枚の羊皮紙を掲げた。
「ダルジャン嬢、地域で優れた新規先を創出した者に贈られる頭商特別賞が届いているぞ」
拍手が広間を満たした。
あたしは羊皮紙を恭しく受け取り、深く一礼した。
胸の内で、四か月前の言葉が甦る。
――お主の今期の目標は、ソレイユ嬢の半分の金貨七百五十枚でよい。
半分でよいと言われた数字の、倍。
カトリーヌの目標額を、まるまる一人で達成してやったのだ。
荒れ地から素手で掘り起こした手が、じんと熱かった。
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「――そして」
支部長が続けた。
「今期の数字が最も多かったソレイユ嬢。金貨千九百枚。ソレイユ嬢、前へ」
薔薇色のドレスが、しずしずと進み出た。
衣擦れの音もなく、カトリーヌがあたしの隣に並ぶ。
「内訳も見事なものだった」
支部長が帳面をめくった。
「まず、系列の土地建物仲介だ。王家の縁につながる伝手を活かし、大貴族どうしの土地の取引を、いくつもまとめた」
売り手と買い手を引き合わせ、系列の仲介商会が取次料を受け取る。
貸すのと同時に、繋いで稼ぐ商いだった。
「普通であれば、そもそも席にすら着けぬ話だ。生まれ持った縁を、そのまま数字に変えた。見事だ」
血脈と後ろ盾。
あたしには逆立ちしても手の届かぬもの。
それを武器に、カトリーヌは系列へ繋ぎ、数字を積んでいた。
それだけではない。
登商試験の日、あたしが並べた言葉が頭をよぎる。
頂点を束ね、その総力を一件へ注ぎ込む。
その絵図を、カトリーヌは生まれ持った手札で描いていた。
あたしは、ラ・トゥールの営業を思い出していた。
銀商の外の取引先を連れてくる。
見事な手管だ。
けれど、取引先はあくまで外の家だ。
普請の儲けは取引先の懐へ落ち、赤嶺銀商に残るのは融資の利息だけになる。
カトリーヌは違う。
系列の商会を使えば、仲介の取次料も、つなぎの利息も、一枚残らず内に落ちる。
同じ一件から、カトリーヌはラ・トゥールより多くの金貨を積めるのだ。
あたしは、強烈な一撃を食らった。
「そして、何より」
支部長が間を置いた。
「ラ・フォンテーヌ建会への融資、金貨九百枚。これが大きかったな」
――ラ・フォンテーヌ建会。
思わず、カトリーヌへ目を向けた。
あたしがヴァロワ商館の建設で使った、あの建会だ。
なぜそれがカトリーヌの数字に?
カトリーヌが、壇の上で膝を折った。
淀みのない笑みが壇上の燭台に照らされていた。
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表彰が終わり、ようやく杯が配られた。
宴が始まると、あたしは人をかき分け、カトリーヌの傍へ寄った。
「ソレイユ様」
「あら、ダルジャン様」
カトリーヌが振り向いた。
杯の面は、揺れなかった。
「ラ・フォンテーヌ建会の九百枚。あれは、どういうことですの?」
カトリーヌは、ゆっくりと杯を揺らした。
「どうしたも、こうしたも」
さらりと、言った。
「ヴァロワ家の商館を、金貨三千枚かけて建てますでしょう。石も木も先に買わねばなりませんし、職人の工賃も毎月出ていきます」
カトリーヌは愉快そうに続ける。
「手付けは頂戴しますけれど、残りが入るのは建て上がった後ですのよ。だから、その間をつなぐ金貨が要るのです。それを融資したのですわ」
――え?
ヴァロワ家の融資が金利で緑翼銀商に持っていかれかけた、あの日。
万策尽きて、あたしは川辺で諦めていた。
それを覆したのは棟梁の土下座だった。
そして、その土下座を棟梁に授けたのがカトリーヌだった。
利で勝てぬときは、熱意を見せるしかありません。
あなたの熱意を見せておいでなさいませ、と。
あの言葉を聞いたとき、あたしは泣いた。
カトリーヌが後ろから押してくれたのだと。
数字では動かぬものが、あたしを救ったのだと。
だが――違う。
建会を紹介した、あのとき。
カトリーヌには、すでにこの先が見えていた。
大仕事を取らせれば、建会には先に出ていく金が要る。
その金を融通するのは、建会の担当者であるカトリーヌだ。
あたしはラ・トゥールを真似て、利益を外へ逃がしたつもりでいた。
しかし、その外は、はじめからカトリーヌの畑だった。
「――やられましたわ」
あたしは天井を仰いだ。
大きな二撃目だった。
あの日、あたしは、まんまとカトリーヌの算盤の上で泣いていたのだ。
あたしの四か月前の涙を返してほしい。
「何がやられましたの?」
カトリーヌは、しれっと問い返した。
「いえ」
あたしは裾をつまんで一礼した。
「ソレイユ様、悔しいけれど感服いたしました。見事なお手並みでしたわ」
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宴もたけなわだった。
支部長が杯を片手に、上座から商員たちを見渡した。
「よくやった。今期は皆、よくやったな」
商員たちが応える。
支部長が杯を置いた。
「よし」
その一言だけで、広間に嫌な予感が走った。
「今日は祝いの会だ。心ゆくまで飲め。――ただし来月から、また零だ」
誰も何も言わなかった。
「また零から目標へ向かって励め。それが商員だ」
言われずとも分かっていた。
けれど、あらためて言葉にされると足元が抜けるようだった。
今日、あたしが受けた頭商特別賞。
目標比、二倍と二割。
それも、来月一日には無かったことになる。
積み上げた石は明くる朝には崩されている。
賽の河原、と前世で言った。
子が河原で石を積むと鬼が来て崩す。
また積む。また崩される。
その繰り返しの地獄だ。
あたしは杯の底を見つめた。
この賽の河原を、あと何度、繰り返すのだろう。
商員として立つ限り、これは終わらない。
前世の勘定で言えば、あと二十回は下らない。
二十度、積んでは崩され、また積む。
栄誉の杯は甘かった。
だが、その甘さの底に、二十余年ぶんの虚しさが透けて見えた。
嬉しさと、それが一瞬で無に帰すという確信が、同時に胸を満たしていた。
――なんだ。
あたしは杯を干した。
――前世と同じじゃん。
同じ地獄なら次はもっと上手く積む。
今期、あたしはカトリーヌに目標比で勝った。
だが、金貨の枚数では負けた。
来期は、金貨の枚数であの令嬢を超える。
石が崩されるなら、崩される前に、あの女より高く積むまでだ。
あたしは空になった杯を勢いよく卓に置いた。
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しかし、決意はたった数日で握りつぶされた。
期が改まり、支部で材料会議が開かれた。
期初に、どれだけの材料を持っているか。
会議で支部長が帳面をめくった。
「ソレイユ嬢。今期の材料は」
カトリーヌが、指を折りもせずに並べた。
縁戚の商会の新しい商館の増築。
親類筋が興す、新しい商いの出資話。
代々の付き合いがある大貴族の借り換え。
期が改まったばかりだというのに、卓の上には、もういくつもの芽が並んでいた。
あたしは息を呑んだ。
そういうことか。
カトリーヌの営業は、種を蒔いて育てる営業だ。
生まれ持った縁の畑に少しずつ種を蒔いておく。
期が改まれば、その芽が勝手に顔を出す。
「ダルジャン嬢は」
支部長が、あたしを見た。
あたしは帳面を開いた。
頁は、真っ白だった。
「――ございません」
あたしの営業は刈り取る営業だ。
荒れ地を歩き、目についた実りをその場で刈る。
刈った畑に次の穂は残らない。
前期に積んだ千六百五十枚は、一枚残らず消えていた。
そして、次の畑の当ては、まだどこにもない。
賽の河原の鬼は、あたしの石だけを、きれいに崩していったのだ。
半ば開いた扇の上から、カトリーヌがあたしの空の帳面を見ていた。
その目に憐れみの色はなかった。
ただ、当然のものを見る目だった。
あたしは、真っ白な帳面を伏せた。
決意は砕かれていた。
それでも、閉じた掌だけが、じわりと熱かった。
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材料会議から数日が過ぎた。
支部に、一通の書状が届いた。
差出人の名を見て、あたしは目を細めた。
南方アメリ時代の顧客だった。
用件は、こうだった。
今の担当者ではなく、どうしてもあたしに相談したいことがある、と。
王都まで、名指しである。
田舎の出張所で耕した縁が、こんなところであたしを呼んでいた。
悪い気はしなかった。
刈った畑には何も残らないと思っていたが、信頼の根は残せていたらしい。
あたしは支部に出張の届けを出し、南方アメリ行きの馬車に乗った。
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相手は老いた領主だった。
かつて、南方アメリで幾度も卓を挟んだフォンティニャック子爵。
応接の間で子爵はパイプに火を入れた。
痩せた指が、細く震えている。
一年前に会ったときより、頬の肉が落ちていた。
「ダルジャン嬢。よく来てくれた」
「ご無沙汰しております、閣下」
「折り入って相談がある。この話は、他の銀商員にはできん」
子爵が煙を吐いた。
「知ってのとおり、うちは娘しかおらん」
「はい」
「娘婿を取った。悪い男ではない。だが――経営の器がないのだ」
子爵の声に諦めが滲んでいた。
「このままあれが領主を継いだら、どうなることか。上に立てば諫める者がおらん。当主になれば、もう誰もあれを止められん」
子爵がパイプを卓へ置いた。
「いつか家を潰すだろう」
子爵は一度、目を伏せた。
「そこで、だ」
子爵が、あたしを見た。
「わしも、もう年だ。いっそ――家の商いを大貴族へ譲ってしまおうと考えておる」
「商いを……?」
「爵位と家名は娘に残す。だが、王家の認可を得て、商い自体も、商いに使う土地も、証文も、借財も、雇い人も、すべて譲受家の差配へ移す。娘婿はその家に雇わせ、上に立つ者のもとで商いを学ばせるつもりだ」
子爵が、あたしの目を覗き込んだ。
「どう思う?」
あたしは内心で息を吐いた。
これは相談ではない。
答えはもう決まっている。
ただ、背中を押してほしいだけだ。
そうですね、それがよろしいかと。
そう言えば、この老人は安堵する。
だが、押されただけで決めた話は、後から必ず揺れる。
そして揺れたとき、恨まれるのは背中を押した者だ。
一度、立ち止まらせる。
自分の言葉で結び直させる。
だから、あたしはこう答えた。
「反対ですわ」
子爵の片眉が上がった。
「どういうことだ?」
あたしは、まっすぐに子爵を見た。
「この地には、ミート法が根付いております。商いを誰に継がせるか、閣下のお心のままに遺言で定められますわ」
「それは、そうだが」
「ならば、商いは大貴族ではなく、ご息女に譲るべきかと存じます」
子爵が目を見開いた。
「わたくしは、閣下と幾度も証文を交わしました。閣下の商いの見事さを十分に存じております。その血を、最も濃く継いでおられるのは――ご息女ではございませんか」
子爵の頬から、険が抜けた。
まんざらでもなさそうだった。
「いや、しかし」
子爵が目を逸らした。
心が揺れている。
「……わかった。ありがとう。もう一度、考えてみる」
子爵は、それだけ言った。
あたしは深く一礼して辞去した。
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数週間が過ぎた。
フォンティニャック子爵から報せが届いた。
あたしは再び、あの応接の間に通された。
「ダルジャン嬢」
子爵の顔は憑き物が落ちたように穏やかだった。
「よく考えた。娘に継がせることも、幾度も考えた」
「はい」
「だが――やはり、商いは大貴族へ譲渡する」
あたしは頷いた。
「娘は、賢い。だが、この家の商いをあれ一人に背負わせることは、したくないのだ。婿ともども、大きな傘の下で生かしてやりたい。それが親の務めというものだ」
子爵の声は迷いのないものだった。
自分の口で、自分の言葉で、たどり着いた結論だった。
「閣下がそうおっしゃるのであれば、それが最善に存じます」
あたしは恭しく一礼し、優しい笑みを顔にたたえた。
商いを大貴族へ譲渡する。
それはつまり――事業売却だ。
売り手は、ここにいる。
あとは、買い手の大貴族を探し、値を組み、両家の間を仲介する。
金貨が、いったい何千枚、動くだろう。
あたしは伏せた顔を上げた。
「閣下。この件、わたくしにお任せいただけますでしょうか」
「ああ。お主に任せる」
卓上の燭台の火が、ゆらりと揺れた。
あたしの胸の底で、聞き慣れた音が鳴りはじめていた。
――大商いの予感がしますわ。
(第9話・了)




