第10話 籠ひとつの設計図
支部の朝は、鍵の音から始まる。
出商して真っ先にやるのは、執務室にずらりと並んだキャビネットの鍵を、一つ残らず開けることだ。
金庫が開けば、商員全員分の預かり物を執務室まで運ぶ。
この地味な力仕事は、支部で最も年次の低い者の役目と決まっている。
つまり、あたしとカトリーヌだ。
束ねた鍵を鳴らしながら、あたしがキャビネットを片端から開けていると、後ろから声がかかった。
「ダルジャン様は、商い譲渡を手掛けられているようですね」
振り返ると、薔薇色のドレスがそこにいた。
「はい。そのとおりですわ」
「もしよろしければ、後で帳簿を見せてもらえますこと?」
「ええ、構いませんわよ」
現物を運び終え、自分の卓に戻ってから、あたしはフォンティニャック家の帳簿をカトリーヌへ差し出した。
商い譲渡。
売り手は、あの老いた領主。
問題は、誰に、いくらで、どう売るか。
そう頭では分かっていたが、どこから手をつけたものか、算段はまるで立っていなかった。
カトリーヌが頁を繰り、ひと通り目を通す。
売上。仕入れ。給金。賃料。
二度ほど指先が数字の上で止まり、それきり帳簿を閉じた。
「帳簿どおりで、隠れた支払い義務がなければ。譲渡の値として、金貨千枚くらいというところですわね」
意外と少ないものだ。
そう思いながら、あたしはカトリーヌの横顔を見た。
「帳簿を見ただけで、商い譲渡の金額がお分かりになるのですか?」
「見て、分からないのですか?」
カトリーヌが、こちらへ目を向けた。
「この商いが一年に生む利益の、何年分か。まずは、それだけのことですわ。それで、どうやって商い譲渡をやろうとしていたのです?」
あたしは正直に答えた。
「本部の専門部に、協力を仰ごうと思っておりました」
カトリーヌが、扇を閉じる音を立てた。
「ダルジャン様。商い譲渡の成立率は、どのくらいだとお思いになりまして?」
あたしは少し考えた。
「譲る側が譲ると決めたのですから……ほぼ成立するのでは?」
「五割に満たないのですわ」
あたしは耳を疑った。
「世間に聞こえてまいります商い譲渡は、まとまった話だけですわ」
カトリーヌが続けた。
「その裏で、同じ数以上の譲渡話がまとまらず流れていきます」
あたしは黙って聞いていた。
「本部の専門部にそのまま丸投げした場合」
カトリーヌが、あたしの帳簿を指先で押した。
「値は金貨千枚。それも、成立するかどうか分かりませんわ」
胸の奥に、じわりと焦りが滲んだ。
「商員の担当者とは何をする者だと、お思いになりまして?」
カトリーヌが、あたしを見た。
答えあぐねていると、静かに続けた。
「顧客というのはね、一つの複雑な曲なのですわ」
「……曲、ですか?」
「ええ」
カトリーヌが、指を一本立てた。
「商員の担当者とは、その曲の魅力を誰よりも深く理解し、聴き取る者」
もう一本。
「聴き取った魅力を奏者へ――専門家へ正しく伝える者」
三本目の指が、ゆるやかに宙を払った。
まるで、見えない棒を振るように。
「そして、奏者と奏者の音を束ね、全体の調和を整えて、一つの最も美しい演奏に仕上げる者」
その手が優雅な弧を描いて止まる。
「つまり、指揮者ですわ」
あたしは、その手つきを目で追っていた。
「丸投げというのは、その指揮棒を放り出すことですのよ」
返す言葉がなかった。
「この一件、買い側はわたくしにお任せくださいまし」
カトリーヌが言った。
「そうすれば、譲渡の値を金貨二千枚以上で、確実に決めて差し上げますわ」
「えっ……?」
千枚が、二千枚に。
またこの令嬢に数字を持っていかれる――そんな考えが一瞬よぎったが、断る理由など、どこにもなかった。
「――わかりました。お願いいたしますわ、ソレイユ様」
あたしは、頭を下げた。
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「では早速、現地確認をしますわよ」
カトリーヌが、月の予定を書きつけた帳面を開いた。
「ダルジャン様のお宅で、買い物を任せているメイドを一人、お連れになって」
なぜメイドを、とは訊かなかった。
あたしは家の台所を切り盛りするメイドを連れて、南方アメリへ下った。
フォンティニャック子爵は、この地に土着する「シャルモン市場」という食料店を、十四軒構えている。
その一軒に、あたしたちは着いた。
店先には、色とりどりの野菜と氷で締めた魚が並んでいる。
呼び込みの声と、荷を下ろす音。
客足も、賑わいも、悪くはなかった。
カトリーヌが、あたしの連れてきたメイドに籠を持たせた。
「お屋敷でなさるとおりに、いつもの買い物をしてらっしゃいな」
メイドは戸惑いながらも、籠を抱えて店の奥へ入っていく。
しばらくして、籠を満たして戻ってきた。
卵。パン。根菜。豆。塩漬け肉。
どこにでもある、日々の食卓だった。
「ダルジャン様」
カトリーヌが、あたしを見た。
「この籠に入ったもの全部で、店にどれだけの利益をもたらしているか。その割合を、仕入表と突き合わせてお調べになって」
あたしは、店の帳場から仕入表を借りた。
そして、籠の中身を一点ずつ卓に並べ、仕入値と売値を照らしていった。
売価合計は銅貨百枚。
仕入原価は八十二枚。
差し引き十八枚。
これが、店に残る粗利だ。
売価に対する割合、すなわち粗利率は、一割八分だった。
「食品の小売店はね」
カトリーヌが籠を見下ろして言った。
「入り口から勘定台までの道の作り方と仕入値が、すべてですのよ」
あたしは、入り口を振り返った。
「客が籠を持って歩く、その道すがら」
カトリーヌが続けた。
「安さで客を呼ぶ目玉品、どこにでもある通常品、儲けの厚い利益品。この三つを、どれだけ釣り合いよく籠へ入れてもらえるか。それが、道の作り方ですわ」
カトリーヌが、店の中をぐるりと見渡した。
「シャルモン市場は、道の作り方も、仕入れも、できておりません」
そして、あたしを見た。
「わたくしがこれまで見てまいりました王都の食品店の粗利率は、どこも二割五分ほどでしたわ」
カトリーヌは、あたしの帳面を指先で押した。
「その籠ひとつが、二割五分を下回っていたら――問題ありですわ」
一割八分。
基準に遠く届かない。
「つまり、シャルモン市場の価値も低いということですの?」
「ええ。……でも、このように考えてみるのは、いかがかしら」
カトリーヌが問うた。
「大貴族の食品店がこの店を持てば、どうなりますこと?」
「あっ……」
「そうですわ」
カトリーヌが、扇の先で卓を軽く叩いた。
「大貴族の規模で仕入れをまとめれば、仕入値は下がりましょう」
もう一度、叩く。
「客の歩く道を、勝手を知る者が組めば、籠はもっと利益を積みますわ」
カトリーヌは籠から卵を一つ指先でつまみ上げ、そのまま仕入表の上に置いた。
「つまり、シャルモン市場の価値は――今の帳簿ではなく、買い手が引き出せる将来の利益で決まるということですわ」
「――だから」
あたしは、思わず声に出していた。
「粗利の薄さと費えの中身を読み取って、買い手を選べば値が二倍になる。ソレイユ様は、そうおっしゃったのですね」
カトリーヌの目が、少しだけ笑った。
「ようやく、分かりましたのね」
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「では、集めていただく資料をお伝えしますわ」
カトリーヌが帳面に筆を走らせた。
店舗ごとの帳簿。
店舗ごとの来客数。
組織図。
仕入以外の費えの明細。人の費え、賃料、光熱、運搬、廃棄の損。
什器の明細。陳列棚、量り、荷車、保冷の設備。その一覧と、傷み具合。
仕入先、地主、雇い人との証文の一覧。その条件と、残りの年数。
カトリーヌが、書き終えた頁を卓の上で滑らせた。
「これをお揃えになって」
「かしこまりましたわ」
「揃った資料は本部の専門部へ回して、譲渡あらまし書を作らせます」
商いの中身と数字を、買い手が値を入れられるところまで一冊にまとめた書だという。
「その譲渡あらまし書を、わたくしの顧客のうち小売を商いにする方々へ、他言無用の証文を結んだ上で配るのですわ」
「一人ではなく幾人にも、ですか?」
あたしは、思わず尋ねた。
「一番買いそうな大貴族に、まっすぐ話を持っていくほうが早いのでは……」
「それが、成立率を五割以下に落とすやり方ですのよ」
カトリーヌは譲渡あらまし書の買い手欄を、指先で二度叩いた。
「相手が一人なら、話は相手の都合ひとつ。渋られれば、こちらは値を下げて縋るしかありませんわ。決まるかどうかも、いくらで決まるかも、向こう任せ」
「……確かに」
「けれど、幾人もが同じ卓で値を競えば、話は逆さになります」
カトリーヌは三枚の書付を卓上へ扇状に並べた。
「降りる者がいても、残る者が値を吊り上げる。買い手が多いほど――」
「成立も堅くなり、値も高くなる」
「ええ。それが、競り合い札入れですわ」
カトリーヌが口の端を上げた。
「確実に決めるというのは、そういう卓を用意すること。祈って待つことではございませんの」
帳簿にない資料を足で揃えるのが、あたし。
その資料をもとに譲渡あらまし書を作成するのが、専門部。
そして、それを持って買い手を競わせる卓を組むのが、カトリーヌ。
丸投げではなく、指揮をする。
カトリーヌの言葉が理解できた。
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それから、あたしは店を回った。
シャルモン市場の一軒、また一軒。
帳場に頭を下げ、帳簿を借り、来客の数を写す。
什器の傷みを、荷車の車輪まで目で確かめる。
証文の束をほどき、残る年数を一枚ずつ拾っていく。
地味で、骨の折れる作業でしかない。
だが、初めて他の商員と組んで動いたからだろうか。
疲れているはずの足が、妙に軽かった。
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ある夜、あたしとカトリーヌは、フォンティニャック子爵と夕食を共にした。
卓には、この地で獲れた魚と南の葡萄酒が並んでいる。
子爵は、痩せた指で杯を回しながら、あたしを見た。
「ときにダルジャン嬢」
「はい」
「世界で最も大きな賭博は、何だと思う?」
あたしは、少し考えた。
「確率の低さを思えば……富くじ、でしょうか」
子爵は、目を伏せて首を振った。
「わしは商いを経営することだと思うとる」
杯の水面が、燭台の火を映している。
「成功すれば、金貨百枚、二百枚などすぐだ。しかし、失敗すれば――自分だけでは済まん」
子爵の声が低くなった。
「雇うた者と、その家族まで路頭に迷わせることになる」
石壁に火の爆ぜる音だけが残った。
「これほど大きく、血の湧く大賭博はない」
子爵は杯を置いた。
「――だが、それを娘に背負わせることはしたくないのだ」
あたしは、その言葉を黙って受け止めた。
事業経営は、世界で最も大きな賭博。
そのときのあたしは、それを実感のない、遠い誰かの世界の話として聞いていた。
赤嶺銀商という大きな屋根の下で、他人の張った賭けを外から差配する。
それがあたしの仕事なのだと、疑いもしなかった。
この言葉が、いつか自分自身へ返ってくる。
――そんなことは、まったく、想像すらしていなかった。
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資料を揃えて整えるのに一か月。
ル・ノームル支部へ戻り、専門部が譲渡あらまし書を組み上げるのに、さらに一か月。
カトリーヌは、他言無用の証文を結んだ買い手候補を回り、譲渡あらまし書を配った。
問いに答え、考える時間をとらせる。
それに、二か月。
そして、一次の競り合い札入れの日が来た。
支部の一室に、封をした値の書付が五通集まっている。
カトリーヌの言った卓が、目の前に組み上がっていた。
大貴族の営む食品店が、それぞれの値を入れてきたのだ。
あたしは売り側として、その封の山を緊張しながら見つめた。
隣には、買い側を差配したカトリーヌが涼しい顔で座っている。
封を一つずつ開いていく。
記載された金貨の枚数を、あたしは声に出して読み上げた。
千百枚。
千五百枚。
千二百枚。
千七百枚。
そして、最後の一通に指をかけた。
封を切る。
「――金貨、二千百枚」
あたしは詰めていた息を、ようやく吐いた。
帳簿から弾き出した値は、千枚だった。
「二千枚以上で、確実に決める」
カトリーヌの、あの言葉。
その下限に、一次でもう届いてしまった。
一次で値の高い者を残し、二次でさらに競わせる。
値は、これからまだ動く。
カトリーヌは二千百枚の書付を一瞥しただけだった。
――その顔は、まだ何か手札があるとでも言いたげだった。
(第10話・了)




