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数字が人格ですわ!―限界メガバンク行員、貴族令嬢に転生してもノルマから逃げられませんでした―  作者: 財務白関
第3章 王都営業・M&A仲介編

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第10話 籠ひとつの設計図

支部の朝は、鍵の音から始まる。


出商して真っ先にやるのは、執務室にずらりと並んだキャビネットの鍵を、一つ残らず開けることだ。

金庫が開けば、商員全員分の預かり物を執務室まで運ぶ。


この地味な力仕事は、支部で最も年次の低い者の役目と決まっている。

つまり、あたしとカトリーヌだ。


束ねた鍵を鳴らしながら、あたしがキャビネットを片端から開けていると、後ろから声がかかった。


「ダルジャン様は、商い譲渡を手掛けられているようですね」


振り返ると、薔薇色のドレスがそこにいた。


「はい。そのとおりですわ」


「もしよろしければ、後で帳簿を見せてもらえますこと?」


「ええ、構いませんわよ」


現物を運び終え、自分の卓に戻ってから、あたしはフォンティニャック家の帳簿をカトリーヌへ差し出した。


商い譲渡。

売り手は、あの老いた領主。

問題は、誰に、いくらで、どう売るか。


そう頭では分かっていたが、どこから手をつけたものか、算段はまるで立っていなかった。


カトリーヌが頁を繰り、ひと通り目を通す。

売上。仕入れ。給金。賃料。

二度ほど指先が数字の上で止まり、それきり帳簿を閉じた。


「帳簿どおりで、隠れた支払い義務がなければ。譲渡の値として、金貨千枚くらいというところですわね」


意外と少ないものだ。

そう思いながら、あたしはカトリーヌの横顔を見た。


「帳簿を見ただけで、商い譲渡の金額がお分かりになるのですか?」


「見て、分からないのですか?」


カトリーヌが、こちらへ目を向けた。


「この商いが一年に生む利益の、何年分か。まずは、それだけのことですわ。それで、どうやって商い譲渡をやろうとしていたのです?」


あたしは正直に答えた。


「本部の専門部に、協力を仰ごうと思っておりました」


カトリーヌが、扇を閉じる音を立てた。


「ダルジャン様。商い譲渡の成立率は、どのくらいだとお思いになりまして?」


あたしは少し考えた。


「譲る側が譲ると決めたのですから……ほぼ成立するのでは?」


「五割に満たないのですわ」


あたしは耳を疑った。


「世間に聞こえてまいります商い譲渡は、まとまった話だけですわ」


カトリーヌが続けた。


「その裏で、同じ数以上の譲渡話がまとまらず流れていきます」


あたしは黙って聞いていた。


「本部の専門部にそのまま丸投げした場合」


カトリーヌが、あたしの帳簿を指先で押した。


「値は金貨千枚。それも、成立するかどうか分かりませんわ」


胸の奥に、じわりと焦りが滲んだ。


「商員の担当者とは何をする者だと、お思いになりまして?」


カトリーヌが、あたしを見た。

答えあぐねていると、静かに続けた。


「顧客というのはね、一つの複雑な曲なのですわ」


「……曲、ですか?」


「ええ」


カトリーヌが、指を一本立てた。


「商員の担当者とは、その曲の魅力を誰よりも深く理解し、聴き取る者」


もう一本。


「聴き取った魅力を奏者へ――専門家へ正しく伝える者」


三本目の指が、ゆるやかに宙を払った。

まるで、見えない棒を振るように。


「そして、奏者と奏者の音を束ね、全体の調和を整えて、一つの最も美しい演奏に仕上げる者」


その手が優雅な弧を描いて止まる。


「つまり、指揮者ですわ」


あたしは、その手つきを目で追っていた。


「丸投げというのは、その指揮棒を放り出すことですのよ」


返す言葉がなかった。


「この一件、買い側はわたくしにお任せくださいまし」


カトリーヌが言った。


「そうすれば、譲渡の値を金貨二千枚以上で、確実に決めて差し上げますわ」


「えっ……?」


千枚が、二千枚に。


またこの令嬢に数字を持っていかれる――そんな考えが一瞬よぎったが、断る理由など、どこにもなかった。


「――わかりました。お願いいたしますわ、ソレイユ様」


あたしは、頭を下げた。


-----


「では早速、現地確認をしますわよ」


カトリーヌが、月の予定を書きつけた帳面を開いた。


「ダルジャン様のお宅で、買い物を任せているメイドを一人、お連れになって」


なぜメイドを、とは訊かなかった。

あたしは家の台所を切り盛りするメイドを連れて、南方アメリへ下った。


フォンティニャック子爵は、この地に土着する「シャルモン市場」という食料店を、十四軒構えている。


その一軒に、あたしたちは着いた。


店先には、色とりどりの野菜と氷で締めた魚が並んでいる。

呼び込みの声と、荷を下ろす音。

客足も、賑わいも、悪くはなかった。


カトリーヌが、あたしの連れてきたメイドに籠を持たせた。


「お屋敷でなさるとおりに、いつもの買い物をしてらっしゃいな」


メイドは戸惑いながらも、籠を抱えて店の奥へ入っていく。

しばらくして、籠を満たして戻ってきた。


卵。パン。根菜。豆。塩漬け肉。

どこにでもある、日々の食卓だった。


「ダルジャン様」


カトリーヌが、あたしを見た。


「この籠に入ったもの全部で、店にどれだけの利益をもたらしているか。その割合を、仕入表と突き合わせてお調べになって」


あたしは、店の帳場から仕入表を借りた。

そして、籠の中身を一点ずつ卓に並べ、仕入値と売値を照らしていった。


売価合計は銅貨百枚。

仕入原価は八十二枚。


差し引き十八枚。

これが、店に残る粗利だ。


売価に対する割合、すなわち粗利率は、一割八分だった。


「食品の小売店はね」


カトリーヌが籠を見下ろして言った。


「入り口から勘定台までの道の作り方と仕入値が、すべてですのよ」


あたしは、入り口を振り返った。


「客が籠を持って歩く、その道すがら」


カトリーヌが続けた。


「安さで客を呼ぶ目玉品、どこにでもある通常品、儲けの厚い利益品。この三つを、どれだけ釣り合いよく籠へ入れてもらえるか。それが、道の作り方ですわ」


カトリーヌが、店の中をぐるりと見渡した。


「シャルモン市場は、道の作り方も、仕入れも、できておりません」


そして、あたしを見た。


「わたくしがこれまで見てまいりました王都の食品店の粗利率は、どこも二割五分ほどでしたわ」


カトリーヌは、あたしの帳面を指先で押した。


「その籠ひとつが、二割五分を下回っていたら――問題ありですわ」


一割八分。

基準に遠く届かない。


「つまり、シャルモン市場の価値も低いということですの?」


「ええ。……でも、このように考えてみるのは、いかがかしら」


カトリーヌが問うた。


「大貴族の食品店がこの店を持てば、どうなりますこと?」


「あっ……」


「そうですわ」


カトリーヌが、扇の先で卓を軽く叩いた。


「大貴族の規模で仕入れをまとめれば、仕入値は下がりましょう」


もう一度、叩く。


「客の歩く道を、勝手を知る者が組めば、籠はもっと利益を積みますわ」


カトリーヌは籠から卵を一つ指先でつまみ上げ、そのまま仕入表の上に置いた。


「つまり、シャルモン市場の価値は――今の帳簿ではなく、買い手が引き出せる将来の利益で決まるということですわ」


「――だから」


あたしは、思わず声に出していた。


「粗利の薄さと費えの中身を読み取って、買い手を選べば値が二倍になる。ソレイユ様は、そうおっしゃったのですね」


カトリーヌの目が、少しだけ笑った。


「ようやく、分かりましたのね」


-----


「では、集めていただく資料をお伝えしますわ」


カトリーヌが帳面に筆を走らせた。


店舗ごとの帳簿。


店舗ごとの来客数。


組織図。


仕入以外の費えの明細。人の費え、賃料、光熱、運搬、廃棄の損。


什器の明細。陳列棚、量り、荷車、保冷の設備。その一覧と、傷み具合。


仕入先、地主、雇い人との証文の一覧。その条件と、残りの年数。


カトリーヌが、書き終えた頁を卓の上で滑らせた。


「これをお揃えになって」


「かしこまりましたわ」


「揃った資料は本部の専門部へ回して、譲渡あらまし書を作らせます」


商いの中身と数字を、買い手が値を入れられるところまで一冊にまとめた書だという。


「その譲渡あらまし書を、わたくしの顧客のうち小売を商いにする方々へ、他言無用の証文を結んだ上で配るのですわ」


「一人ではなく幾人にも、ですか?」


あたしは、思わず尋ねた。


「一番買いそうな大貴族に、まっすぐ話を持っていくほうが早いのでは……」


「それが、成立率を五割以下に落とすやり方ですのよ」


カトリーヌは譲渡あらまし書の買い手欄を、指先で二度叩いた。


「相手が一人なら、話は相手の都合ひとつ。渋られれば、こちらは値を下げて縋るしかありませんわ。決まるかどうかも、いくらで決まるかも、向こう任せ」


「……確かに」


「けれど、幾人もが同じ卓で値を競えば、話は逆さになります」


カトリーヌは三枚の書付を卓上へ扇状に並べた。


「降りる者がいても、残る者が値を吊り上げる。買い手が多いほど――」


「成立も堅くなり、値も高くなる」


「ええ。それが、競り合い札入れですわ」


カトリーヌが口の端を上げた。


「確実に決めるというのは、そういう卓を用意すること。祈って待つことではございませんの」


帳簿にない資料を足で揃えるのが、あたし。

その資料をもとに譲渡あらまし書を作成するのが、専門部。

そして、それを持って買い手を競わせる卓を組むのが、カトリーヌ。


丸投げではなく、指揮をする。

カトリーヌの言葉が理解できた。


-----


それから、あたしは店を回った。


シャルモン市場の一軒、また一軒。

帳場に頭を下げ、帳簿を借り、来客の数を写す。


什器の傷みを、荷車の車輪まで目で確かめる。

証文の束をほどき、残る年数を一枚ずつ拾っていく。


地味で、骨の折れる作業でしかない。


だが、初めて他の商員と組んで動いたからだろうか。

疲れているはずの足が、妙に軽かった。


-----


ある夜、あたしとカトリーヌは、フォンティニャック子爵と夕食を共にした。


卓には、この地で獲れた魚と南の葡萄酒が並んでいる。

子爵は、痩せた指で杯を回しながら、あたしを見た。


「ときにダルジャン嬢」


「はい」


「世界で最も大きな賭博は、何だと思う?」


あたしは、少し考えた。


「確率の低さを思えば……富くじ、でしょうか」


子爵は、目を伏せて首を振った。


「わしは商いを経営することだと思うとる」


杯の水面が、燭台の火を映している。


「成功すれば、金貨百枚、二百枚などすぐだ。しかし、失敗すれば――自分だけでは済まん」


子爵の声が低くなった。


「雇うた者と、その家族まで路頭に迷わせることになる」


石壁に火の爆ぜる音だけが残った。


「これほど大きく、血の湧く大賭博はない」


子爵は杯を置いた。


「――だが、それを娘に背負わせることはしたくないのだ」


あたしは、その言葉を黙って受け止めた。


事業経営は、世界で最も大きな賭博。

そのときのあたしは、それを実感のない、遠い誰かの世界の話として聞いていた。


赤嶺銀商という大きな屋根の下で、他人の張った賭けを外から差配する。

それがあたしの仕事なのだと、疑いもしなかった。


この言葉が、いつか自分自身へ返ってくる。

――そんなことは、まったく、想像すらしていなかった。


-----


資料を揃えて整えるのに一か月。

ル・ノームル支部へ戻り、専門部が譲渡あらまし書を組み上げるのに、さらに一か月。


カトリーヌは、他言無用の証文を結んだ買い手候補を回り、譲渡あらまし書を配った。

問いに答え、考える時間をとらせる。

それに、二か月。


そして、一次の競り合い札入れの日が来た。

支部の一室に、封をした値の書付が五通集まっている。


カトリーヌの言った卓が、目の前に組み上がっていた。

大貴族の営む食品店が、それぞれの値を入れてきたのだ。


あたしは売り側として、その封の山を緊張しながら見つめた。

隣には、買い側を差配したカトリーヌが涼しい顔で座っている。


封を一つずつ開いていく。

記載された金貨の枚数を、あたしは声に出して読み上げた。


千百枚。


千五百枚。


千二百枚。


千七百枚。


そして、最後の一通に指をかけた。


封を切る。


「――金貨、二千百枚」


あたしは詰めていた息を、ようやく吐いた。


帳簿から弾き出した値は、千枚だった。


「二千枚以上で、確実に決める」


カトリーヌの、あの言葉。

その下限に、一次でもう届いてしまった。


一次で値の高い者を残し、二次でさらに競わせる。

値は、これからまだ動く。


カトリーヌは二千百枚の書付を一瞥しただけだった。


――その顔は、まだ何か手札があるとでも言いたげだった。


(第10話・了)

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