第11話 差配の値段
一次札入れの開札を終えた後も、あたしは書付を眺めていた。
帳簿から弾き出した値は、金貨千枚。
それが二千百枚となり、まだ二次札入れも残っている。
「すごいですわね、ソレイユ様」
思わず頬が緩んだ。
「これなら、閣下にもお喜びいただけますわ」
「ダルジャン様」
隣で、カトリーヌが書付から目を上げた。
「フォンティニャック子爵は、金貨の枚数を数えて譲渡先をお決めになる方ですの?」
その一言に、あたしの笑みが止まった。
――雇うた者と、その家族まで路頭に迷わせることになる。
――それを娘に背負わせることはしたくないのだ。
南方アメリの夕食の卓で、子爵はそう言った。
子爵が本当に知りたいのは、枚数の先にあるものだ。
「……譲渡後の、店と人の行方」
あたしは呟いた。
カトリーヌが頷いた。
「でしたら、金貨の枚数だけを競わせてはなりませんわね」
二次札入れへ残すのは、一次札入れの上位三家。
モンバザン侯爵家、ヴェルヌイユ伯爵家、ネモール侯爵家。
あたしたちは三家へ渡す要領書に、金額とは別に四つの項目を書き加えた。
十四軒のうち、店をいくつ残すか。
シャルモン市場の名を、看板に残すか。
雇い人を何人、どのような条件で引き受けるか。
そして、息女と娘婿を、どのような立場に置くか。
金貨の値だけではない。
譲渡後の差配まで、三家に競わせるのだ。
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二次札入れの要領書を組んでいる最中だった。
支部長室の扉が開いた。
最初に出てきたのは、クレマン課長だった。
その肩に支えられ、ユーグ代理がうつむいたまま続く。
ユーグの顔は、涙で濡れていた。
執務室にいた商員たちの手が、一斉に止まった。
クレマン課長は、ユーグの肩を抱いたまま、全員を見渡した。
「ユーグ代理が、来月付で中嶺船会へ出向になった」
誰も声を発しなかった。
「皆、労ってやってくれ」
それだけを告げると、クレマン課長はユーグの背を軽く叩いた。
中嶺船会は、川と沿岸の荷運びを担う、赤嶺銀商の系列の船会である。
商員の定年は、五十一歳と半年。
ただし、それは順調に銀商で勤め上げられた者の話だ。
四十半ばも過ぎれば、一人、また一人と系列へ出されていく。
ユーグはその四十半ばで、まだ代理だった。
出世の列から外れていたことは、誰の目にも明らかだった。
それでも、王都の大型支部から、いきなり系列への出向。
周りの商員にとっても、予想より早い辞令だったらしい。
皆、かける言葉を探しながら、ユーグの周りへ集まっていった。
あたしは、自分の卓から動けなかった。
前期のヴァロワ伯爵家の商館融資は、緑翼銀商に持っていかれる寸前だった。
最後に伯爵を動かしたのは、棟梁の土下座だ。
棟梁が頭を下げなければ。
カトリーヌが棟梁を焚きつけなければ。
あたしは大幅な未達で期末を迎えていた。
運が良かっただけだ。
商員の出世には、もちろん加点も要る。
だが、どれほど大きな数字を作っても、一度の事故、一度の悪評価で印がつく。
その印は消えない。
減点を受けず、紙一重の勝負を何度潜り抜けられるか。
それで行き先が決まる。
ユーグの卓から、帳面が一冊ずつ片付けられていく。
長年使われ、黒ずんだ羽根ペン。
顧客から贈られたらしい、小さな木彫りの船。
積み上げられていた信用冊子は、別の商員の卓へ移されていった。
二十年後、あそこに座っているのは、あたしかもしれない。
今期を潜り抜けても、来期がある。
来期を潜り抜けても、その次がある。
一度でも足を取られれば、敗者復活はない。
昼を過ぎる頃には、ユーグの卓は何も置かれていないただの机になっていた。
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南方アメリに、三家の遣いが順に訪れた。
実査である。
商いを買う前に、帳簿と店の中身を自分の目で確かめる手続きだった。
あたしたちはフォンティニャック家の館の一室を資料室とし、店舗ごとの帳簿、雇い人の名簿、仕入先や地主との証文の写しを揃えた。
卓を四つ並べても、まだ床に積み上がるほどの量だった。
訊きたいことがあっても、店の者へ直接尋ねることは許さない。
すべて質問票へ書かせ、売り側の担当であるあたしが答えを揃えて返す。
十四軒の店も見せた。
遣いたちは普段着に着替え、普通の客として品物を買って帰るだけだ。
三家から届いた質問票を並べると、その狙いは鮮明だった。
ネモール侯爵家は、店を畳んだときの違約金と、雇い人を辞めさせたときの費えばかりを拾っていた。
ヴェルヌイユ伯爵家は、屋号の由来と、南方アメリでの評判を訊いた。
モンバザン侯爵家は、荷が店へ入る刻限から、欠勤者が出たときどの店の誰が応援へ入るかまで訊いてきた。
すべての店と人を、そのまま動かそうとしなければ出てこない問いだった。
「相手が何を訊くかで、何を欲しているかが分かりますのよ」
カトリーヌが、三通を卓の上へ並べた。
ネモール家は、利益が欲しい。
ヴェルヌイユ家は、名が欲しい。
モンバザン家は、店と人が欲しい。
値の書付を見る前から、三家が描く譲渡後の姿は、質問票の上に浮かび上がっていた。
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子爵の館で、息女のイザベルと、娘婿のジュリアンに会った。
二次札入れでは、二人をどのような立場に置くかも買い手に書かせる。
その前に、本人たちの希望を聞いておく必要があった。
譲渡後の処遇について説明を終えると、ジュリアンが真っ先に口を開いた。
「譲った後は、どのくらい手当がいただけるのでしょうか?」
「買い手によって異なりましょう。役職とともに、条件を書かせる予定にございます」
「今の暮らし向きは、保たれるのでしょうか。館の使用人や馬車もございます。急に実入りが減っては、皆も困りますので」
悪い男ではないのだろう。
フォンティニャック家を継ぐつもりで婿に入り、そのつもりで暮らしてきた。
商いが譲られるとなれば、自分の立場を案じるのも当然だった。
ただ、その問いの向く先は、店ではない。
自分の椅子と、取り分だった。
「そのご希望も、伝えることはできますわ」
あたしは表情を変えずに答えた。
子爵が経営の器がないと言った意味が分かった気がした。
「イザベル様はいかがでしょう」
あたしが訊くと、子爵の娘は、少し間を置いた。
華美ではない青いドレスを着た、物静かな女だった。
「この店の弱いところは、仕入れですわ」
淡々とした声だった。
「仕入れ、でございますか」
「ええ。十四軒の店が、それぞれ近隣の百姓や漁師から別々に買っております」
イザベルは卓の上に置かれた店舗一覧を指でなぞった。
「同じ根菜を、東の店は銅貨八枚、西の店は九枚で買っております。魚も同じです。店ごとに買う量が少ないので、値を下げてもらえません」
「まとめて買えば、仕入値を下げられる」
「はい」
「大貴族の家に入れば、そこは直りますわ。十四軒だけでなく、その家が持つ他の店の分までまとめて買えますもの」
その声音には、父の商いを否定する響きはなかった。
「父も分かっておりました。けれど、シャルモン市場の規模では、どうしてもできなかったことです」
そして、イザベルは続けた。
「もう一つ、やりたいことがございます。市場の裏で、加工をしたいのです」
それまで静かだった声に、初めて熱が混じった。
「売れ残った根菜は漬けます。余った魚は干し、肉は燻します。傷み始めた果実は、まだ食べられるうちに煮ます」
イザベルは指を折りながら並べていく。
「今は、生のまま売れなければ捨てております。ですが、加工すれば日持ちします。捨てていたものが商品になり、手を加えた分だけ粗利も乗せられますわ」
あたしは、イザベルを見た。
店を回ったとき、雇い人たちがイザベルへ向けていた目を思い出す。
帳場の者も、荷車を引く者も、その言葉には素直に従っていた。
――娘は、賢い。
子爵が言った言葉の意味が、ようやく分かった。
この息女を店に残すこと。
それが、譲渡後の成功になりそうだ。
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王都へ戻る馬車の中。
揺れに身を任せながら、あたしは考えていた。
「ソレイユ様」
向かいに座るカトリーヌが、扇の陰からこちらを見た。
「何ですの?」
「帳簿から出した千枚という値は、シャルモン市場が独りで立っているときの値ですわよね」
「ええ」
「けれど、大貴族が買って仕入れや店の作り方を改めれば、二千枚ほどの値になる。そういうお話でした」
「そのとおりですわ」
「では――その二千枚は、どの大貴族にとっても同じ値なのでしょうか」
カトリーヌの扇が、わずかに下がった。
あたしは続けた。
「たとえば、南方アメリへ初めて進出したい大貴族ならどうでしょう。一から十四軒もの店を揃えるには、何年かかるでしょう」
土地を借りて、店を建てる。
雇い人を集め、仕入先を開拓し、客に名を覚えてもらう。
「ですが、シャルモン市場を買えば、その年月を一息で飛び越えられますわ」
カトリーヌは、黙って聞いていた。
「自分で店を出せば、シャルモン市場と客の奪い合いになります。値を下げ、双方が痩せるまで戦うことになります」
「けれど、買ってしまえば」
カトリーヌが言葉を引き取った。
「その戦をせずに済む」
「はい」
しかも、他家に買われれば、その十四軒は競合の旗になる。
南方アメリへ進出する道は、そこで塞がれる。
「シャルモン市場は、十四軒の店ではございません」
あたしは、窓の外へ目を向けた。
「南方アメリへの、唯一の扉にございます」
その扉を欲する家にとって、値は二千枚ではない。
何年もの時間、戦わずに済む費え、他家を締め出す力。
そのすべてを足せば、値はさらに上へ化ける。
馬車の中に、しばし車輪の音だけが響いた。
やがてカトリーヌが、扇を膝の上へ下ろした。
「そこまで、ご自分で気づきましたのね」
珍しく、からかう響きのない声だった。
「二次までに、三家を一軒ずつ回りますわ」
「その扉の値打ちを、気づかせるのですか?」
「ええ。他家がその扉を手にする光景まで、丁寧にお見せして差し上げます」
「煽る、ということですのね?」
「まあ。人聞きの悪い」
カトリーヌが、扇の陰で笑った。
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それから三か月後、二次札入れの書付が三通届いた。
支部の一室で、あたしとカトリーヌは三つの封を前に座っていた。
やるべきことはやった。
あとはこの三通からフォンティニャック子爵に決めてもらうだけだ。
あたしは最初の封を切った。
「ネモール侯爵家。金貨二千四百枚」
十四軒のうち、残すのは九軒。
雇い人は、現在の半数まで引き受ける。
屋号は、シャル・ネモールへ改める。
イザベルとジュリアンには年金を支給するが、経営には関わらせない。
費えを削り、残した店から利益を取る。
質問票から見えたとおりの差配だった。
二通目。
「ヴェルヌイユ伯爵家。金貨二千七百枚」
十四軒の店を、すべて残す。
雇い人も、全員を現在と同じ条件で引き受ける。
屋号は、シャルモン市場のまま。
イザベルとジュリアンは名誉顧問とする。
店も、人も、名も残る。
だが、二人には実際の経営を任せない。
そして、最後の封。
一次札入れで二千百枚を入れた、モンバザン侯爵家。
封蝋を割り、書付を開く。
最初に目へ飛び込んできた数字に、息が止まった。
「金貨三千三百枚」
隣で、小さく息を呑む音がした。
十四軒の店を、すべて残す。
雇い人も、一人残らず引き受ける。
給金と手当は、少なくとも三年、現在の条件を下回らせない。
屋号は、モンバザン市場へ改める。
ジュリアンを、南方アメリ統括部長に。
イザベルを、南方アメリ統括部長補佐に。
一次の二千百枚が、三千三百枚に化けていた。
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フォンティニャック子爵は、三通の書付を黙って読んだ。
館の応接の間。
窓から差す夕日が、老いた横顔を照らしている。
子爵は、まずネモール家の書付を置いた。
次に、ヴェルヌイユ家の書付をしばらく眺めた。
雇い人。シャルモン市場の屋号。
自分が育てたものが、最も多く残る条件だった。
最後に、モンバザン家の書付へ目を落とす。
「看板からシャルモン市場の名は消えるか」
「はい」
あたしは答えた。
子爵の指が、書付の端を撫でた。
「婿が統括部長で、娘が補佐」
「そのように記されております」
「ふむ」
子爵は、小さく息を吐いた。
「婿には椅子が要る。椅子があれば、あれも当分は満足するだろう」
苦笑のようなものが浮かんだ。
「だが、商いを動かすのは娘になる」
子爵には、分かっていた。
あの短いやり取りだけで見抜いたあたしより、父である子爵が分からぬはずもない。
爵位と家名は、娘に残る。
シャルモン市場の名が消えても、フォンティニャック家そのものが消えるわけではない。
一方で、十四軒の店と、そこで働く者は、一人残らず残る。
娘は、その店の中に残る。
子爵は三通を重ねた。
そして、迷いのない声で言った。
「モンバザン家に譲るとしよう」
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期末の祝勝会で、支部長が目標達成者の数字を読み上げた。
「ソレイユ嬢、ダルジャン嬢。商い譲渡。譲渡額、金貨三千三百枚。売り手と買い手の双方から受け取る両手取扱料、金貨三百三十枚」
周りから、どよめきが起きた。
一件で、あたしもカトリーヌも今期の目標を越えていた。
あたしは、ほっと息を漏らした。
また一度、紙一重を潜り抜けた。
前期の祝勝会で名を呼ばれなかった、ユーグの卓へ目を向ける。
そこには新しい商員が座っており、何事もなかったかのようにあたしたちに拍手を送っていた。
「それから、ダルジャン嬢」
支部長が続けた。
「フォンティニャック家より預かり運用資産、金貨三千枚。年間取扱料、金貨九十枚。エランソワ全支部で特に大きな実績を上げた商員に贈られる頭商表彰だ。おめでとう」
カトリーヌの扇が、ぱたりと止まった。
そのまま、こちらへ顔が向く。
「ダルジャン様。どういうことですの?」
「どうしたも、こうしたも」
さらりと、言った。
「手当が減るのではないかと、娘婿のジュリアン様がご心配でしたでしょう。ですから、手当以外に実入りが入るように、譲渡でお受け取りになる金貨の運用をご提案したのですわ」
カトリーヌが、声を立てずに笑った。
「――やられましたわ」
かつて、あたしが天井を仰いで口にした言葉。
今度はカトリーヌが、それを言った。
「何がやられましたの?」
あたしは、杯の陰で首をかしげてみせた。
カトリーヌは何も答えなかった。
ただ、悔しそうに。
けれど、どこか愉快そうに笑っていた。
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――事業経営は、世界で最も大きな賭博。
あの夜、あたしはそれを他人事として聞いていた。
他人の張った賭けを、外から差配する。
それが、あたしの仕事だと思っていた。
だが今、胸の内にあるのは、高揚だった。
帳簿の千枚が、三千三百枚に化けた。
十四軒の店も、そこで働く者たちも残った。
婿には部長の椅子が与えられ、その隣で、賢い娘が商いを動かしていく。
その三千三百枚の行き先まで、あたしが決めた。
――おもしろい。
そう思ってしまった。
世界で最も大きな賭博。
その勝負へ、自分で金貨を張るのではない。
誰と誰を同じ卓へ座らせるか。
何を賭けさせるか。
どのような勝負にするか。
卓そのものを、外から動かす。
もっと大きな卓を、組んでみたい。
そのおもしろさが、やがてあたし自身を、卓の上へ引きずり上げることになるのだった。
(第11話・了)
(第3章・了)




