第12話 牢獄
栄転だった。
シャルモン市場の譲渡を終えた翌期早々、あたしとカトリーヌへ同時に辞令が出た。
異動先は、ヴァロリア本部・融資取戻部。
王都にある赤嶺銀商の中枢。
一件で動く金貨は、支部とは桁が違う。
「お二人なら、すぐに役員のお目にも留まるでしょう」
商員たちは、祝いの言葉とともに送り出してくれた。
南方アメリの出張所から、王都の大型支部へ。
そして、本部へ。
赤嶺銀商の頂へ、一段ずつ近づいている。
そう思っていた。
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「ここが二人の卓だ」
モルヴァン課長に案内された融資取戻部は、窓のない石室にあった。
灯りは、卓に置かれた燭台だけ。
壁際には黒ずんだ信用冊子が棚から溢れ、床にまで積まれている。
あたしとカトリーヌの卓にも、すでに信用冊子が山を作っていた。
「これは?」
あたしが尋ねると、モルヴァン課長は表情を変えずに答えた。
「返済が滞った取引先だ」
課長は山の上から三冊を抜き、卓へ落とした。
「まずは、この三冊を明朝までに分けろ」
「どのように、でございますか?」
カトリーヌが尋ねた。
「返せなくなった先に、道は三つしかない」
課長は、一冊目を卓の左へ寄せた。
「商いを続けさせ、時間をかけて返させる」
二冊目を、その隣へ。
「畳ませて、残った財産から取れるだけ取る」
三冊目を、さらに離して置いた。
「それとも、証文そのものを外へ売る」
あたしは、三冊目の表紙へ手を置いた。
「外へ売る、とは?」
「立て直し商会へ売る」
「立て直し商会、と申しますと」
「焦げついた証文を安く買い、自分たちで取り立てる商会がある。そこへ売れば、その場で金貨は戻る。ただし、額は小さくなる」
課長は、離れて並んだ三冊を見た。
「比べるのは一つだけだ。どの道なら、いつ、いくら戻る」
「……助けるか、畳むかではなく」
あたしは、三冊を見た。
「三つの取り戻し方を並べて、比べる。そういうことでございますね」
「そういうことだ」
課長は、山の残りへ目を戻した。
「当部の商員は、取り戻した額で測られる。それ以外は、評価にならん」
課長はそれだけ言うと、次の卓へ歩いていった。
三冊とも、支部では手に負えなくなり、本部へ送られてきた貸付先だった。
あたしは算盤を引き寄せた。
続けさせる。畳ませる。証文を売る。
三つの道について、いつ、いくら戻るかを並べる。
それを一日中繰り返した。
「本部の仕事は、もっと華やかなものと思っておりましたわ」
「どこへ行っても、銀商に華やかな仕事などありませんことよ」
カトリーヌが答えた。
登商して最初の一年を、この本部で過ごした令嬢の言葉である。
「それにしても、随分と地味ですこと」
支部にいたときと違い、どこにも出掛けず、誰とも会わない。
気がつけば、蝋燭が二本目の半ばまで減っている。
外が明るいのか暗いのかも、この部屋では分からない。
支部には退商の刻限があったが、本部にはない。
退商は、仕事が終わったとき。
そして、仕事は終わらない。
「ダルジャン様」
短くなった蝋燭の火の向こうで、カトリーヌが信用冊子から目を離した。
「支部にいらした頃、本部へ行きたいとおっしゃっておりましたわね。夢が叶いまして?」
あたしは、羽根ペンを動かしたまま答えた。
「わたくしが来たかったのは本部であって、牢獄ではございませんわ」
扇の縁から、カトリーヌの愉快そうな目だけが覗いた。
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そうして、二年が過ぎた。
あたしは何十もの商会を仕分け、支援し、畳ませ、その証文を外へ売った。
支部は、新しく貸して数字を作る。
ここでは、いくら取り戻しても、それは本来返るはずだった金貨にすぎない。
戻らない分を少しでも減らし、最後に損を確定させる。
それが、あたしたちの仕事だった。
支部で融資を実行した日は、必ず誰かが祝いの席を設けてくれた。
ここでは、次の信用冊子が卓へ置かれるだけだった。
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ある夜。
外出から戻ったカトリーヌが、油の染みた紙包みを卓へ置いた。
「南方アメリのモンバザン市場で人気になったものが、王都でも売られ始めたそうですの。小麦粉を溶いたものにタコを入れて焼いて、『たこ焼き』と申しますとか」
包みを開くと、小さく丸い焼き物が並んでいた。
ソースも青海苔もなく、削った魚の燻製が載っている。
この世界で、たこ焼きを見ることになるとは。
イザベルが話していた、市場の裏で魚介を加工するという構想。
あれが、形になったのだろう。
一つ口へ入れたカトリーヌが、青い瞳を見開き、扇で口元を激しくあおぎ始めた。
涙目のまま飲み込む姿があまりに令嬢らしからず、思わず笑ってしまった。
あたしも一つ摘まむ。
魚の香りが強く、生地は少し固い。
それでも懐かしい味だった。
同時に、頭の隅へ小さな疑問が残った。
加工を増やすなら、沿岸から運ぶ量も増える。
傷みやすいものを、大量に、早く運ぶ手立てはあるのだろうか。
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翌朝、早馬が届いた。
サン・マレ支部の取引先であるベルリーヴ造船会が、すべての銀商へ返済の一時停止を申し出たという。
ベルリーヴ造船会は王国最古の船渠を持つ名門であり、大型船を造る技において王国随一とも称される。
借入総額は金貨一万二千枚。
うち赤嶺銀商が、金貨七千二百枚。
残りを緑翼銀商、青樹銀商と、二つの信商が分け合っている。
主銀商である赤嶺銀商が、最も大きな損を負う立場だった。
融資取戻部は、その日のうちにベルリーヴを本部管理へ移管するよう求めた。
だが、サン・マレ支部は拒んだ。
「短期の資金繰りにすぎない、とのことでございます」
返書を読んだカトリーヌが、扇を閉じた。
「本部へ移管すれば、これまで誰が、何を根拠に貸したのか。危険を知ってから何をしたのか。すべて説明しなければなりませんものね」
融資が焦げついたことより、その後の保身の方が厄介なのかもしれない。
督促。資料の精査。支部長の召喚。日程の調整。
返済停止から十二日後、ようやく移管会議が開かれた。
しかし、支部長はこれまでと同じ説明を繰り返すだけだった。
「次期には御座船が完成する。そこで資金繰りは改善する」
モルヴァン課長は、黙って聞いている。
あたしは、卓上の信用冊子を引き寄せた。
サン・マレ支部が代々書き継いできた、ベルリーヴ造船会の過去がすべて綴じられている。
頁を繰った。
「二年前の稟議を読み上げます。『御座船完成により、次期には資金繰り改善の見込み』」
頁を繰る。
「一年前の稟議です。『御座船完成により、次期には資金繰り改善の見込み』」
もう一度、繰った。
「半年前。『御座船完成により、次期には資金繰り改善の見込み』」
同じ一文が、三度書かれていた。
違っていたのは、完成予定の日だけ。
そして三度とも、決裁の欄には同じ印章が押されている。
今、卓の向こうに座っている男の印章だった。
「サン・マレ支部長」
あたしは信用冊子を閉じ、顔を上げた。
「ベルリーヴには、いつになれば次期が参りますのでしょうか?」
「貴様、誰に向かって口を利いておる!」
支部長が卓を叩いた。
「ダルジャン嬢、下がれ」
モルヴァン課長が、すかさず間へ入った。
そして、支部長へ向き直る。
「うちの者がご無礼を。大変失礼いたしました」
課長は、深く頭を下げた。
「本日は責任を求めるための卓ではございません」
支部長の眉が動いた。
「これまでの融資と条件変更が妥当であったかは、別途検証されましょう。当部の仕事は、その結論を待つことではなく、残る金貨を一枚でも多く取り戻すことです」
「では、わしの責任は――」
「存じません。当部が決めることではございませんので」
モルヴァン課長は、移管の書付を支部長の前へ押し出した。
「支部で管理を続けるのであれば、御座船の完成日と、返済の資金を確保できる根拠をお書きください。その見込みが外れた際は、支部長が責任を負う旨も」
支部長は、羽根ペンを取らなかった。
「……好きにせよ」
支部長は信用冊子を卓へ残し、部屋を出て行った。
結局、保身かよ。
あたしは、心の中で舌を出した。
返済停止を申し出た大口先には、一刻も早い対応が必要なはずだった。
それでも、支部長の顔を立て、茶番を終わらせるためだけに日が流れた。
この失われた十二日は、後になって、あたしとカトリーヌの首を絞めた。
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サン・マレの港に到着すると、木と鉄の匂いに包まれた。
海へ向かって、巨大な船台がいくつも並んでいる。
切り出された木材。煮立つ樹脂。
打ち鳴らされる鉄具。潮と汗の混じった風。
その中央に、建造途中の大船が立っていた。
第一王子の御座船、蒼白朱号である。
まだ海へ浮かべられる姿ではないが、巨大な竜骨から獣の肋骨のような材木が幾重にも伸びている。
「一か月後の給金が払えぬ」
ベルリーヴ造船会の会主であるオーギュスト・ド・ベルリーヴ侯爵は、会うなりそう言った。
齢六十を越えているが、肩は広く、掌には職人の硬い節が残っている。
ベルリーヴを代々継ぐ侯爵でありながら、自らも船を造る職人なのだという。
「六百人分だ」
しかも、給金だけを払えば済む話ではない。
木材も、帆布も、鉄具も買わなければ、職人を船台へ立たせておけない。
「蒼白朱号が完成すれば、すべて上手くいく」
オーギュストは、船台の骨組みを見上げた。
「我が造船会で最も大きな商いだ。王家から代金が入り、ベルリーヴの名もさらに上がる」
「完成は、いつにございますか?」
周囲の槌音に負けぬよう、声を張って尋ねた。
オーギュストは、一瞬だけ言葉を止めた。
「半年後には」
「確かですの?」
「王家から、これ以上の変更がなければな」
「……承知いたしました。まずは、資金繰りを確認させてください」
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ベルリーヴ造船会の会屋で見せられたのは、月次の資金繰り表だけだった。
月の初めに、今月入る金貨と出る金貨をまとめる。
月末に残っていれば、金貨は足りている。
だが、月末に金貨が残ることと、月の途中で金貨が尽きないことは、同じではない。
あたしとカトリーヌは、入る金貨と出る金貨を、日付順に並べ直した。
一日ごとの出入りを追う表――日繰り表である。
商船の修繕代金。建造中の船の中間金。
職人六百人の給金。木材と帆布と鉄具の代金。港の使用料。
金貨の残りを、一日ずつ追っていく。
算盤の玉が、零を割った。
「ここですわ」
あたしは、日繰り表の一行を指した。
「二十五日後、金貨が尽きます」
しかも、この表に各銀商への返済は一枚も入っていない。
返さずにいてなお、金貨は尽きるのだ。
次の給金と、木材と鉄具の仕入れまで含めれば、足りない金貨は四百枚。
ベルリーヴの月次収支は、帳簿の上では黒字だった。
売上も、去年より増えている。
それなのに、手元の金貨が足りない。
「造りかけの船……ですわね」
木材を買う。
職人が槌を振るう。
そのたびに、金貨は造りかけの船へ姿を変える。
船が完成し、代金を受け取るまで、金貨には戻らない。
工期が延びるほど、金貨は船の形のまま固まっていく。
造りかけの船は、帳簿の上では財産になる。
だから、ベルリーヴは儲かっているように見えた。
だが、その財産で給金を払うことはできない。
帳簿の儲けと、手元の金貨は、別物だった。
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今、ベルリーヴを畳ませた場合。
船渠も機械も急いで売ることになり、造りかけの船にもほとんど値はつかない。
全銀商あわせて戻るのは、金貨二千四百枚。
貸した一万二千枚の、二割だけだ。
では、商いを続けたらどうなるか。
過去三年の修繕と、受注済みの中型輸送船を粗く積んでみた。
金貨を生む船と、食らう船を仕分けられれば――
六割まで戻せる余地がある。
二割で今すぐ畳むか。
六割を狙って立て直すか。
それを判断するには、一隻ずつ船を調べる時間が要る。
必要なのは、二か月。
だが、ベルリーヴにはその二か月を生きる金貨がない。
一か月で、四百枚。
二か月で、八百枚。
金貨八百枚で、二か月を買う。
その二か月で、ベルリーヴを支援すべきか、畳ませるべきかを見極める。
あたしは緊急のつなぎ融資の稟議を書き、その日のうちに審査部に持ち込んだ。
承認の条件は四つ。
一つ、すべての銀商が二か月間、返済を受けない。
二つ、赤嶺銀商が新たに出す八百枚は、これまでの融資より先に返してもらう。
残る二つは、使い道を職人の給金と資材に限ることと、毎週の日繰り表を出させることである。
二か月を買うための金貨だ。
古い借金の穴埋めにも、余計な船にも、一枚たりとも使わせない。
審査部の担当者からは散々に小言を言われた。
承認こそ即日だったが、審査部長の印章は逆さまに押されていた。
承認はしてやるが、承服はしていない。
そういう意思表示である。
その足で法務部へ向かい、二つの条件を一枚の証文にさせた。
ここでも、露骨に苦い顔をされた。
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翌日から、あたしとカトリーヌはすべての銀商を回った。
緑翼銀商のベルナール課長は、書付を卓へ放った。
「二か月待った上で、赤嶺銀商の八百枚を我々より先に返せと。虫のいい話だな」
「虫のいい話にございます」
あたしは認め、どの卓でも同じ二枚の表を置いた。
「ですが、皆様には新たな金貨を一枚も出していただきません」
一枚目を指す。
「今日畳ませれば、戻るのは二割」
二枚目。
「二か月待ち、立て直せれば六割」
あたしはベルナール課長を見た。
「皆様にお願いするのは、金貨ではなく二か月にございます」
ベルナール課長は、黙って二枚の表を見比べた。
結局、緑翼銀商も、青樹銀商も、小口の信商も、渋りながら羽根ペンを取った。
署名と印章が揃い、覚書が交わされたのは、給金支給の二日前だった。
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給金の日。
ベルリーヴ造船会の帳場には、六百人の職人が順に並んだ。
去年も、その前の年も、給金は幾度か遅れていた。
遅れると告げられ、数日してから配られる。
職人たちは、それに慣れていた。
誰も泣いて感謝したりはしない。
受け取るべき給金を受け取り、それぞれが持ち場へ戻っていく。
夜を徹して稟議を通し、銀商を飛び回り、ようやく実行できたつなぎ融資。
だが、給金を受け取る職人たちは、あたしとカトリーヌの奮闘など知る由もない。
それでよかった。
オーギュストが、あたしとカトリーヌの前へ来た。
そして、深く頭を下げた。
「六百人を救ってくれた」
その一言が、疲れ切った胸に沁みた。
それでも、あたしは首を振った。
「まだ、何も救ってはおりませんわ」
オーギュストの向こうに、巨大な骨組みが見えた。
最も広い第一船台を塞ぐ、蒼白朱号。
「金貨八百枚で、二か月を買っただけにございます」
オーギュストが、船台を振り返る。
槌の音が、船渠いっぱいに響いていた。
(第12話・了)




