第6話 枯れた井戸
初出商の日、あたしはル・ノームル支部の門をくぐった。
王家に連なる公爵家、国境を預かる侯爵家。
その下につく、いくつもの伯爵家。
高位の貴族ばかりを相手取る、格の高い拠点である。
大口の顧客を抱えるだけあって、支部の構えも、行き交う商員の物腰も、南方アメリとはまるで違っていた。
そして、その朝、あたしは見知った顔を見つけた。
カトリーヌ・ド・ソレイユも、この支部に配属されていた。
王家の縁戚を持つ子爵家の令嬢が、高位貴族相手の拠点へ回される。
道理と言えば、道理だった。
没落男爵家のあたしは、実力でこの支部を勝ち取ったつもりでいた。
けれど、こうして並んでみれば分かる。
やはり、生まれ持ったものは大きいらしい。
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ル・ノームル支部の朝は、張り詰めた空気とともに始まった。
大広間に、商員が三十人ほど集められている。
上座では、支部長のオクターヴ・ド・グランヴィル伯爵が、帳面を積み上げて待っていた。
「よし、材料会議を始めるぞ」
低い声だった。
材料とは、今期の見込みのことだ。
どこの誰から、いくらの取引が獲れるのか。
それを一件ずつ、支部長の前で読み上げる。
「朝から搾られるゆえ、『一番搾り』とも言うがな」
隣の商員が、あたしにこっそり囁いた。
最初に名を呼ばれたのは、支部長代理の肩書を持つ、ユーグという商員だった。
代理というのは、前世の一般的な企業で言えば係長だろうか。
「ユーグ代理。お主は材料だけでも目標に足りておらんな」
「は……申し訳ございません」
「謝罪はいらん。どうするんだ」
グランヴィルが帳面を指で弾いた。
「どこで、いくらを、どうやって獲る。それを言え」
「そ、それでは……アルヌー商会に、新たな借入のお願いを……」
「前期も同じことを言っておったな。結果、できておらんではないか」
「今期こそは、必ず……!」
「いつ、いくらやるんだ」
グランヴィルの声は荒くならない。
低いまま、逃げ道を一つずつ塞いでいく。
「金貨の枚数で言え。日付で言え」
「……七月までに、五百枚を」
「五百枚だな。わかった。残りの千枚は」
ユーグの額に汗が浮いた。
もう材料などない。
見ていて、誰もが分かった。
「ほ、他の先も当たってみます」
「どの先だ」
「これから探して……」
「これから探す、では材料にならん」
グランヴィルが頁をめくった。
「では、こうしよう。お主、先月は新規を何軒回った」
「……八十軒でございます」
「今月は二百軒だ。回った先から稟議を三本上げろ。一本あたり、最低でも金貨五百枚。そのうち二本まとまれば届くだろう」
ユーグの顔が強張った。
断ることは、許されない。
「……承知、いたしました」
ユーグが絞り出すように答えた。
訪問の数も、稟議の額も、その場で約束させられた。
まだ会ってもいない相手から金貨千枚。
根拠など、どこにもない。
「次、ブルドン卿」
グランヴィルが間を置かず、次の名を呼ぶ。
一人を搾り終われば、また一人。
大広間に満ちているのは、次に名を呼ばれる者の、息を潜める気配だけだった。
――これは。
前世で、幾度も見た光景だった。
四半期ごとの、あの詰め。
数字は、ない袖からでも搾られる。
出せと言われれば、出しますと言うしかない。
出せぬなら、訪問の数を約束させられる。
それでも足りなければ、まだ会ってもいない相手からの稟議の額まで約束させられる。
そういう場所だった。銀行というのは。
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新任のあたしとカトリーヌは、この日は列席するだけだった。
会議の終わり際、支部長が二人へ目を向けた。
「ソレイユ嬢」
「はい」
「カルダン卿が、来月、東の支部へ移る。卿の顧客を、お主が引き継げ」
「かしこまりました」
「卿の先と、お主の縁筋の貴族を回れ。それだけで今期の目標、金貨千五百枚の材料は揃うはずだ」
カトリーヌが、胸に手を当てて頭を下げた。
引き継ぎとは、すでに取引のある顧客を、そっくり譲られるということだ。
新任にして、耕された畑を最初から手にする。
「ダルジャン嬢」
「はい」
支部長の目があたしを向いた。
「お主は南方アメリで、新規開拓に励んだと聞く。ここでも同じようにやってくれ」
「承知いたしました」
「その代わり、お主の今期の目標はソレイユ嬢の半分の金貨七百五十枚でよい。良かったな」
支部長は、帳面に目を落としたまま言った。
半分でよい。
温情のように聞こえて、そうではなかった。
引き継ぎも縁筋もない者が、一から新規で積み上げて、カトリーヌの半分を出せ。
譲られた畑の収穫の半ばを、荒れ地から素手で掘り起こせと。
そう言われている。
理不尽だった。
だが、この世界では、それが道理でもあった。
持つ者と、持たざる者。
勝負の土俵は初めから違っていた。
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翌日から、あたしは新規開拓に出た。
だが、南方アメリのとき以上に門が開かない。
どこへ行っても、会ってすらもらえない。
理由は、すぐに知れた。
王都の大型支部は、同じ赤嶺銀商の別の支部と営業の縄張りが重なっている。
その上、本部の営業まで動いていた。
身内同士で顧客を奪い合っているのだ。
そこへ、緑翼銀商や青樹銀商といった大手が、いくつもの支部から攻めてくる。
地元に根を張った小さな銀商まで、負けじと食い込んでくる。
ここは銀商の密集地帯なのだ。
田舎の南方アメリなら、赤嶺銀商の名を出せば門が開いたこともあった。
だが、ここでは名前など、何の強みにもならない。
赤嶺銀商の商員など、掃いて捨てるほど来ている。
「間に合っております」
その一言で門は閉じた。
飛び込んでも、飛び込んでも、同じだった。
一方、カトリーヌは違った。
引き継いだ顧客を一軒ずつ回り、着実に材料を積み上げていく。
すれ違うたび、あの淀みのない笑みを浮かべていた。
焦りが、じわりと胸を焼いた。
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追い詰められたあたしが目をつけたのは、支部の隅の古びたキャビネットだった。
埃をかぶった信用冊子が、ぎっしりと眠っている。
普通、顧客には担当の商員がつく。
だが、取引が細り、毎年の判定見直しも要らなくなった先は、担当が外れる。
そうして、冊子だけが取り残される。
過去には取引があった。
けれど今は妙味がなく、誰も見向きもしない。
そういう顧客たちだった。
あたしは、直属のクレマン課長のもとへ向かった。
「クレマン課長。このキャビネットの休眠先に接触してもよろしいでしょうか?」
クレマンが片眉を上げた。
「あんな枯れ井戸をか」
「はい」
「好きにしろ。どうせ、誰も見向きもせん」
半ば呆れ顔で、クレマンは許可を出した。
「ありがとうございます!」
あたしはキャビネットを漁り、いくつか目星をつけて支部を出た。
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枯れ井戸にも、わずかな水は残っていた。
過去の取引のおかげか、赤嶺銀商の名を出すと、休眠先は会ってくれた。
あたしは、まず詫びた。
「長らくご挨拶にも伺えず、申し訳ございませんでした」
放っておかれた側は、たいてい驚いた顔をする。
それからほんの少しだけ、心を開く。
詫びから入るのは、悪くない手だった。
その上で、近ごろ入り用はないかと聞いて回る。
だが、拾えるのは金貨五枚から十五枚程度の小さな借入の話ばかり。
しかも、その細い一件すら、通常どおりには貸しにくい先が多い。
信用も薄く、担保も乏しい。
そこで使ったのが、王国保証貸付だった。
顧客が金利とは別に保証料を払う。
その代わり、貸し倒れたときは王国が八割を肩代わりする。
損は二割で済む。
だから、信用の細った先へも、これなら貸せた。
一件、また一件と、あたしは小口を積み上げていった。
誠実に詫び、丁寧に聞き、細い需要を掬い上げる。
手応えはあった。
だが、ここは王都の大型支部だった。
小口を積んだところで、目標には遥かに届かない。
材料会議のたび、それを思い知らされた。
「ソレイユ嬢。高確度の材料が、早くも目標を越えたな」
支部長が満足げに頁をめくる。
「引き継いだ先が、よく動いておる。この調子だ」
「恐れ入ります」
カトリーヌが、閉じた扇を胸元へ添えて頭を下げた。
「ダルジャン嬢」
支部長の目が、あたしの帳面へ移る。
「目標はソレイユ嬢の半分なのに、進捗が芳しくないな」
「……申し訳ございません」
「王国保証の小口ばかりだ。一件、また一件と、よく拾ってはおる」
支部長が頁を指で弾いた。
「だが、この積み方では届かんぞ」
返す言葉がなかった。
半分でよいと言われた数字。
目標の金貨七百五十枚に対して、現状は八十枚。
カトリーヌは、譲られた畑で、とうに達成が見えている。
同じ新任、同じ同期なのに、桁が違った。
悔しくないと言えば嘘になる。
それでも、あたしは腐らなかった。
夜、支部に残り、キャビネットの信用冊子を一冊ずつ繰り続けた。
必ず、どこかにある。
誰もが見落とした、埋もれた材料が。
枯れ井戸の底に、まだ汲まれていない水が。
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その一冊に手が止まったのは、退商の刻限が迫った頃だった。
奇妙な冊子だった。
過去の取引が、たった一件しか綴じられていない。
それも、商いへの融資ではない。
外国にある邸宅の、住まいのための定型融資だった。
実行額は金貨五十枚。
現在の残高は二十枚。
型の決まった小口の融資であれば、本来、稟議は要らない。
だが、担保が外国の邸宅であったために、この一件は個別の稟議が起こされていた。
借主は、アガート。
姓がない。平民のようだ。
なぜ平民の女が、外国に邸宅を。
あたしは、返済の記録が綴じられた取引帳を指でたどった。
融資から今日まで、途切れず返済が続いている。
平民が、どうやってこの金額を返し続けているのか。
あたしの指が、一行ずつ遡る。
そして、ある行で止まった。
その月だけ、返済の金を窓口へ運んだ者の名が違っていた。
――持参人、ヴァロワ家使用人。
心臓が跳ねた。
伯爵家の名だ。
姓なき平民の女、アガート。
外国の邸宅。
金貨五十枚。
その融資を黙って返し続ける、ヴァロワ伯爵家。
繋がった。
これは、囲われた女だ。
伯爵が人目を避け、海の向こうへ隠した相手。
その住まいのための融資を、伯爵家が使者を立てて、こっそり返している。
この糸を手繰っていけば。
その先には、伯爵家という途方もない畑が広がっているのではないか。
「これですわ!」
夜の支部に、あたしの声が高く響いた。
(第6話・了)




