第15話 唯一の買い手
ベルリーヴが五年後に何隻の船を造り、いくら残すのか。
その表が、一行も引けなかった。
第一船台がいつ空くのか、決まっていないからである。
あたしは羽根ペンを置き、船台の下に立つオーギュストのもとへ向かった。
「閣下。蒼白朱号の完成は、半年後と伺っておりますわ」
「そう言ったな」
「その半年は、どちらから出た数字にございますか」
オーギュストは、獣の肋骨のような船体を見上げた。
「外板を張り、艤装を積み、内装を入れる。職人の手さえ空けば、半年だ」
「手が空けば、ですのね」
帳場へ戻り、責任者と棟梁を呼んだ。
据えた肋材。
残る部材。
艤装、金具、内装、彫刻。
一つずつ、日数を積んだ。
出た数字は、一年二か月だった。
「半年では、ございませんわね」
カトリーヌが、扇の先で書付の端を押さえた。
オーギュストが嘘をついたわけではない。
仕様変更は十七回。
そのたびに、完成の日が先へ動いただけである。
――御座船完成により、次期には資金繰り改善の見込み。
サン・マレ支部の稟議に、三度書かれていた一行を思い出した。
あたしは書付の隅へ、こう書き足した。
『完成まで一年二か月、と置いた』
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その日の夕刻、あたしとカトリーヌはオーギュストの居室へ通された。
オーギュストは窓辺に立ち、船台の灯りを見ていた。
「閣下。ベルリーヴ造船会に残された道は、二つにございます」
オーギュストが、ゆっくりと振り返った。
「畳むか。商いごと、どこかへお譲りになるか」
窓の下で、槌の音が続いていた。
「畳めば、御家には借入が残り、六百人の職人も散ります」
オーギュストの喉が、動いた。
「お譲りになれば、船渠も職人も次の商会へ渡し、残る借入は銀商に切り捨てさせます」
「……相手の当てはあるのか」
「これから探しますわ」
あたしは、羽根ペンを構えた。
「閣下がお譲りになると決めてくださらなければ、探すこともできません」
オーギュストは、長く黙った。
「職人たちは、どうなる」
「商いを譲る際の条件にできますわ」
「……わかった。六百人を、そのまま引き継がせることで頼む」
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以前書き出した譲渡先の候補は、三商会。
だが、それだけの譲受資金を用意できる商会は、一つしか残らなかった。
大嶺造船会。
「赤嶺と大嶺は、二百年前に同じ家から分かれておりますの」
カトリーヌが扇を開いた。
四千七百枚で譲れれば、回収は六割。
つなぎ融資の際に、全銀商へ示した数字に届く。
「では早速、大嶺造船会の意向を――」
「ダルジャン様」
カトリーヌが遮った。
「五年後、この船渠は何を造っておりますの?」
あたしは算盤を置いた。
御座船が下りれば、三つの船台が使える。
今の造り方でも、三年目には黒字へ戻る。
だが、五年目の欄で手が止まった。
五年後、荷主がどこへ船を頼むのかを、あたしは知らない。
カトリーヌは、その日のうちにモンバザン侯爵へ書状を出した。
問いは一つ。
次に船をお頼みになるなら、どちらへお頼みになりますか。
返事は、四日で来た。
値と納期しだい。
そして沿岸の荷主の何軒かは、すでにナタリー国へ頼んでいる。
王国の同型船の八割の値。
納期は、半分。
あたしは五年目の欄へ、零と書いた。
修繕だけでは、固定の費えを賄えない。
五年目に、また返済が止まる。
大嶺造船会へこのまま譲れば、いずれ同じ一行を書くことになる。
――事業譲渡により、次期には資金繰り改善の見込み。
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なぜ、ナタリー国の船は安く、早いのか。
翌朝、船渠でフェルナンを捕まえた。
「棟梁。ナタリー国の船をご覧になったことは」
「修繕なら、二度ある」
フェルナンは、外板を撫でたまま答えた。
「妙な船だった。合わせが揃いすぎておる」
「揃いすぎ、とは」
「船の上で削った跡がない」
節くれだった指が、止まった。
「板も肋材も、寸法どおりに切ってから持ってきておる。船渠で組むだけなのだろう」
なるほど。
船台を塞ぐ時間そのものが、違うのだ。
「なぜ、そんなことを訊く」
フェルナンが、こちらを向いた。
答えあぐねていると、棟梁は槌の柄で船台を指した。
「船渠ごと、どこぞへ売るのだろう」
あたしは、何も言わなかった。
「誰に雇われる」
喉が、詰まった。
その沈黙で、十分だったらしい。
フェルナンは槌を取り、持ち場へ戻っていった。
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王都へ戻り、外国決済の帳面を遡った。
王国の荷主から他国の造船会へ流れた金貨は、一つの名に集まっていた。
マルティネッリ造船会。
ナタリー国。
カトリーヌが、書状を出した。
ソレイユ子爵家には、他国の家へも伝手がある。
エランソワ王国に船渠を持つ気はおありか。
それだけを訊いた。
十一日後、マルティネッリの番頭が、書状を携えて王都へ来た。
エンリコと名乗った男は、首まで日に灼けていた。
携えてきた書状には、交渉の全権をエンリコに委ねると書かれていた。
他言無用の証文へ印章をもらい、ベルリーヴの名を明かす。
エンリコは、間を置かずに言った。
「ベルリーヴの船渠が欲しい。エランソワ王国の港湾使用許可も船渠も、私たちでは手に入らない。買うほかない」
「マルティネッリはすでに王国へ船をお売りでございましょう」
「海を渡す費えと関税で、一隻あたり七十枚を捨てている」
「納期が王国よりずいぶんと早いと伺っておりますわ」
「寸法を先に決める。部材は別の作業場で作る。船台では組むだけだ」
エンリコは、帳面の写しを卓へ置いた。
「船台が塞がるのは四か月。年に四隻回せる」
「ベルリーヴの船渠、おいくらまでお出しになれますか」
「金貨五千五百枚」
カトリーヌの扇が、止まった。
あたしが積んだ値は、四千七百枚。
なるほど。
あちらが買うのは、船渠だけではない。
王国への入口だ。
――では、買い手にとっての値も、それと同じなのでしょうか。
かつて馬車の中で、自分が口にした問いだった。
マルティネッリの提示額と造り方で、五年後の表をもう一枚引いた。
年四隻。
五年目も、千枚の黒字。
回収率は六割七分まで上がる。
答えは一つだった。
「ただし、条件が二つある」
建造中の御座船の仕様を、証文で確定すること。
彫刻と内装の職人六十人について、三年より先は約束しないこと。
一つ目を聞いて、あたしは書付の隅を思い出した。
『完成まで一年二か月、と置いた』
置いただけである。
仕様変更が続けば、その数字に意味はない。
初めて帳面を見た男が、そこを見抜いていた。
どちらも受けた。
あたしは、稟議を上げた。
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翌日、審査部ではなく、大口商会部から呼び出された。
席に着くなり、部長のヴァレンヌは言った。
「当部の取引先に関わる話を、先に相談せずに稟議を上げたな」
書付が、卓へ放られた。
「マルティネッリへの譲渡は認められん」
ヴァレンヌは、指を三本立てた。
「一つ。他国商会への商い譲渡には、前例も方針もない」
一本折る。
「二つ。御座船の証文を他国の商会が引き継げるのか。法務部の意見が要る」
さらに一本。
「三つ。六百人を雇い続ける約束を破られたとき、どこの国で争い、どう守らせる」
答えられなかった。
ヴァレンヌが、五年後の表を指した。
「それと、この表に大嶺造船会との取引を失う数字は載っているのか」
もちろん、載せていない。
ベルリーヴだけを見れば、マルティネッリが最善だった。
だが大嶺造船会は、赤嶺銀商が取引をしている大口先である。
前の二隻のように、どうせ他銀商へ流れる商いだとは言えない。
あたしは、日繰り表を卓へ置いた。
「検証には反対いたしません。ですが、ベルリーヴの金貨はあと二十二日で尽きますわ」
「ならば、間に合う案を出せばよい」
ヴァレンヌは、日繰り表を見なかった。
六日後、稟議が戻った。
意見欄には、一行だけ。
『大口取引先への影響検証が未了』
四つの検証を一つも要しない案は、すでに卓にある。
大嶺造船会。
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稟議から八日後、モルヴァン課長に呼ばれた。
「宮廷から思し召しが届いた」
『王国最古の船渠と、御座船を造る船台を、他国商会の管理下へ置くことは望まぬ』
課長は、書付を伏せた。
「大口商会部が動いたのだろう。ベルリーヴの他国への譲渡は認めぬ、ということだ」
禁ずるとは、どこにも書かれていない。
それでも、マルティネッリへの譲渡は断たれた。
「課長。そういえば、稟議に添えた比較表が戻ってきておりませんでした」
「事務局が外した」
「なぜでございましょう」
「様式に、二案を並べる欄がないそうだ」
回収率で、六割七分と六割。
金貨にして、八百枚の差である。
数字では決まらないらしい。
石室へ戻ると、カトリーヌが言った。
「商いは大嶺造船会へ譲って、造り方だけをマルティネッリから買えませんの?」
あたしは、日数を数えた。
技術供与だけでも、他国の商会に証文を守らせる手立ての検証は残る。
二週間。
残りは十日しかない。
検証が終わる前に、金貨が尽きる。
「……間に合いませんわ」
買い手は、やはり一つのままだった。
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大嶺造船会の会屋は、港を見下ろす高台にあった。
あたしとカトリーヌは、ヴァレンヌを伴って会主であるロシュフォール公爵を訪ねた。
ベルリーヴ造船会の譲渡交渉のためである。
席に着くなり、公爵が示した額は、四千七百枚ではなかった。
「譲受の代金は、三千五百枚だ」
正しい値切り方だった。
ほかに買い手はいない。
急いでいるのは、こちらだ。
三千五百枚でも、清算するよりはましだった。
だから、席を立てない。
公爵も、それを知っている。
カトリーヌが、静かに微笑んだ。
「承知いたしました」
あたしは隣を見た。
カトリーヌは鞄から一枚の書付を取り出した。
「では、このお値段を、ほかの銀商にも同じようにご説明いただけますわね」
公爵の眉が動いた。
「何を言っている」
卓へ置かれたのは、マルティネッリの申し出だった。
金貨五千五百枚。
「こちらのお申し出を退けて、御商会へ三千五百枚でお譲りすることになります」
「宮廷が外国への譲渡を望んでおらんのであろう」
「ええ」
カトリーヌは頷いた。
「ですから、マルティネッリへお譲りすることはできません」
一拍置いた。
「けれど、五千五百枚という値が付いた事実まで、なくなるわけではございませんの」
公爵の顔から、わずかに笑みが消えた。
「緑翼銀商も、青樹銀商も、この数字をご覧になります。もし、どこかの銀商が一つでも了承しなかった場合、ベルリーヴは畳むことになりますわ」
「困るのはそちらではないか」
「そのとおりですわ。ベルリーヴを畳むとなりますと、船渠は解体されます。蒼白朱号も、竜骨から造り直しですわ」
公爵の目が、壁の図面へ向いた。
「その顛末を、宮廷へご報告なさるのはどなたにございましょう」
二百年前に同じ家から分かれた者どうしで、この話を壊すわけにはいかない。
「わしを脅しているのか」
「まさか」
カトリーヌが、穏やかに首を振った。
あたしは、算盤を卓へ置いた。
「もっとも、五千五百枚が、そのまま御商会にとっての値というわけでもございません」
玉を弾く。
「マルティネッリが上乗せした八百枚は、王国内へ船渠を持つための値ですわ」
五千五百から、八百を引く。
「すでに王国内に船渠をお持ちの大嶺造船会には、この八百枚は生まれません」
算盤の玉を止めた。
「四千七百枚」
公爵の目が、算盤へ落ちた。
「これが、御商会にとって説明のつく値だと考えております」
カトリーヌが、扇を膝の上へ置いた。
「四千七百枚でしたら、他の銀商にもご納得いただけると思いますわ。加えて、引き継ぎまでの職人たちの給金と資材で、金貨三百枚を頂戴します」
そして、小さく首を傾げた。
「三千五百枚ですと――困りましたわ。ベルリーヴはきっと畳むことになってしまいますわね」
長い沈黙の後、公爵が羽根ペンを取った。
譲渡代金、四千七百枚。
加えて、商い継続のための三百枚。
六百人の雇用も覚書へ入れた。
ただし、彫刻と内装の六十人は三年まで。
日繰り表の底が、二十日先まで延びた。
あたしは、五年後の表を鞄から出さなかった。
「一つ言うておく」
公爵が、羽根ペンを置いた。
「造り方は変えぬ。ベルリーヴのやり方で結構だ」
窓の下を、荷車が石畳を鳴らして通っていった。
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稟議は、十日で通った。
その夜、ヴァレンヌに呼ばれた。
「融資を六割取り戻し、当部の譲受資金と設備資金の融資まで組んだのはお主だ」
灰皿には、火のついていないパイプが置かれていた。
「取戻部の帳面には、取り戻した額が載る。当部の帳面には、貸した額が載る」
ヴァレンヌは、パイプを卓の端へ寄せた。
「同じ数字でも、場所で意味が変わる。お主が大口商会部へ来れば、大嶺造船会を任せてもよい」
没落した家名を戻すには、出世が要る。
きっと、またとない話なのだろう
「ベルリーヴが片付きましてから伺いますわ。それと、今回の仕事の半分はソレイユ様ですわ」
あたしは、断らなかった。
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石室へ戻った。
稟議に添えられなかった三枚の羊皮紙を、帳面から抜いた。
今のまま造り続ければ、五年目に金貨二百枚の赤字。
大嶺造船会へ譲っても、同じく二百枚の赤字。
マルティネッリの造り方を入れれば、同じ年に千枚の黒字。
明日あたしが署名するのは、真ん中の一枚だった。
三枚を、屑籠へ落とした。
「よろしいんですの?」
カトリーヌが、扇の陰からこちらを見ていた。
「融資取戻部の仕事は、焦げついた金貨を取り戻すことですわ」
あたしは、ゆっくりと椅子に腰かけた。
「五年後にベルリーヴがまたこの石室へ戻ってまいりましても、そのころ、わたくしたちはここにおりませんもの」
この数か月、走り続けた。
取り戻したのは、六割。
それだけだった。
羽根ペンを握っていた指が、まだ強張っている。
蝋燭が短くなっていた。
カトリーヌは、何も言わなかった。
翌朝。
屑籠から三枚の羊皮紙がなくなっていた。
片づけられたのだろう。
あたしは、そう思った。
(第15話・了)




