第14話 他銀商の顧客
王都へ戻り、二隻の売却稟議を上げた。
建造途中の船体を、金貨千六百枚でモンバザン侯爵家へ売る。
さらに、完成と艤装を金貨千八百枚で請け負う。
資産処分と返済を伴うため、役員の決裁が要る。
三日待った。
だが、稟議は審査部から動かなかった。
事務局へ訊きに行った。
「大口商会部のご意見を、お待ちしております」
規程を繰った。
融資取戻部の資産処分稟議に、大口商会部の合議は要らないはずだった。
その日の午後、大口商会部から呼び出しが来た。
大口商会部の部屋には、窓があった。
床には絨毯が敷かれ、卓の端には灰皿が置かれている。
融資取戻部の石室と、同じ建物の中である。
「認められん」
大口商会部長のヴァレンヌが、稟議書の写しを卓へ置いた。
「モンバザン家は緑翼銀商の大口取引先だ。この二隻を渡せば、侯爵家は魚介の商いを広げる。そのための融資も、決済も、すべて緑翼銀商が獲る」
指先で写しを叩く。
「赤嶺銀商が、競合の取引先を太らせる商いを仲介してどうする。赤嶺銀商の取引先へ売るべきだ」
「承知いたしました」
ヴァレンヌの眉が、わずかに上がった。
反対されると思っていたのだろう。
「でしたら、買い手のお名前をいただけますか」
「何」
「赤嶺銀商のお取引先で、この二隻へ金貨千六百枚を出せる商会にございます」
ヴァレンヌは、三つの商会を挙げた。
「どの商会も、沿岸航路を持っている」
「魚介の加工場は、お持ちですか」
「持っておらんな」
「海水槽と氷室は、お使いになりますか」
「必要なかろう」
「それでは、その三商会にとって、この二隻は中古の船体でしかございません。船体の代金として、最も高くて八百枚ほどでしょう」
「八百枚でも、赤嶺銀商の取引先に売る方がよい」
「モンバザン家なら、同じ二隻に千六百枚ですわ」
「それは融資取戻部の数字だ」
大口商会部は、取引先を守る。
融資取戻部は、焦げ付いた金貨を取り戻す。
どちらも、自部署の数字に忠実だった。
だから、銀商全体で損をする判断にも、理屈が立ってしまう。
「もう一つ、申し上げますわ。この三商会は、まだ一軒も値を出しておりません。八百枚は、当方の見込みにございます」
「出させればよい」
「どのくらい、時間を要しますでしょうか」
「二週間もあれば足りよう」
「その二週間で、漁期を一つ落としますわ」
ヴァレンヌが顎を引いた。
「モンバザン侯爵家がお求めなのは、春の漁期に間に合う船ですわ。引き渡しは六か月後。今日から工事を始めて、ぎりぎりにございます」
漁期を落とせば、話は一年先になる。
「三商会が値を出さなければ、二隻は材としての金貨三百五十枚に戻ります」
確度が高い金貨千六百枚を捨てて、まだ誰も出していない八百枚を取りに行くことになる。
「よくて八百枚。外れれば三百五十枚」
あたしは算盤を置いた。
「取り戻した金貨は、当銀商が貸した割合――六割で分けられますわ」
玉を弾く。
「モンバザン家なら千六百枚。三商会なら、よくて八百枚。当銀商の取り分は、四百八十枚減ります」
もう一度、弾いた。
「材の三百五十枚まで落ちれば、七百五十枚減にございます」
「だから、それは融資取戻部の――」
「取り戻せなかった分は、期末に引当として積まれますわ」
ヴァレンヌの指が止まった。
引当とは、戻らぬと見込んだ金貨を期末にあらかじめ損として落とすものである。
融資取戻部の帳簿ではなく、赤嶺銀商の決算に載る。
「部署の話ではございません。当銀商の決算の話をしております」
そして、期末は近い。
それでも、ヴァレンヌはすぐには引かなかった。
「七百五十枚だな」
「はい」
「侯爵家が加工場を広げれば、緑翼銀商が貸す金貨は数千枚だ。決済も、荷の代金の立て替えも獲られる。当銀商が取り逃す七百五十枚と、どちらが大きい」
正しい。
数字だけなら、数千枚の方が大きい。
だが、その数千枚を赤嶺銀商が本当に失うのか。
「その融資は、二隻を売らなくても緑翼銀商が取りますわ」
「どういうことだ」
「モンバザン家は、すでに加工場を広げております。船がなければ、小型船を増やすだけですわ。運べる量は減り、日数もかかりますが、商いそのものは続きます」
そのための金貨も、緑翼銀商が貸す。
「その数千枚は、当銀商が失う取引ではございません。最初から、当銀商の手にはない取引です」
ヴァレンヌが口を閉じた。
「失う七百五十枚だけが、当銀商の損にございます」
しばらくの沈黙の後、ヴァレンヌは羽根ペンを取った。
意見欄へ、一行だけ書き入れる。
『他銀商取引先への便益について、留意を要する』
「これで稟議は動くだろう。ただ、我々の利益を損なったことを忘れるな」
稟議を決裁するのは、役員だった。
それなのに、大口商会部の意見待ちで止まっていた。
何と面倒くさい組織なのだろう。
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モンバザン侯爵家は、沿岸に領地を持つ古い家である。
領内の港に市場を開き、近年は魚介の加工へ手を広げていた。
貴族でありながら、自ら帳場に立つと聞いていた。
カトリーヌが書状を出すと、返事は三日で来た。
指定された場所は、館ではなかった。
市場の裏手にある加工場だった。
樽が積まれ、床は濡れている。
魚を捌く女たちの手元から、絶えず水の音がしていた。
侯爵は、その真ん中に立っていた。
袖を捲り、腕まで塩水で光っている。
あたしが示した数字は、三つだった。
一度に運べる魚介は、今の小型船の三倍。
漁村から市場までの日数は、三日から一日半。
加工場を動かせる日数は、年二百日から三百日。
これで、侯爵家の手元に毎年残る金貨が四百五十枚増える。
対して、支払いは二隻の船体と完成、海水槽と氷室を含めて三千四百枚。
毎年の四百五十枚で埋めれば、戻るまで約七年半。
「新しく二隻をお頼みになれば、同じ四点を揃えて金貨四千枚。納期は十二か月以上にございます」
カトリーヌが続けた。
「この二隻であれば、三千四百枚。六か月でお渡しできます」
六百枚安く、半年早い。
侯爵は、書付を最初からもう一度読んだ。
それから、顔を上げた。
「一つ訊くが、半年後にベルリーヴ造船会はあるのか」
答えは、ない。
「造船会は、名が変わるかもしれませんわ」
侯爵の眉が動いた。
「ですが、船渠も、船台も、職人六百人も、そのまま残します」
あたしは、二枚の証文の写しを卓へ並べた。
「それでも、ご心配はもっともにございます。ですから、船を買う証文と、残りを造る証文の二枚に分ければ、ご懸念は解消されるかと考えております」
一枚目を指した。
「まず、建造途中の二隻を、今ここでお買い上げいただきます。代金は金貨千六百枚」
「未完成の船をか?」
「はい。代金を頂戴したその日に、二隻は侯爵家のものになります」
あたしは、二枚目へ指を移した。
「残る金貨千八百枚は、完成と艤装の工事代です。こちらは前払いではなく、出来上がった分だけ、その都度お支払いいただきます」
侯爵の目が、二枚の証文を往復した。
「つまり」
「はい。ベルリーヴが途中で畳まれても、二隻まで失うことはございません。工事が止まれば、まだ終わっていない工事の代金もお支払いいただきません」
あたしは二枚の証文を揃えた。
「船は今日から侯爵家のもの。これからの工事には、出来た分だけ払う。そういうお仕組みにございます」
侯爵は腕を組み、考えている。
濡れた床を、女たちの木靴が鳴らしていた。
「造る者は、同じか」
「同じにございます」
フェルナンをはじめとする職人たちが、今の船台で仕上げる。
「ならば、名はどうでもよい」
侯爵は、塩水のついた手を布で拭いた。
「二隻とも買おう」
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帰りの馬車で、あたしはカトリーヌに尋ねた。
「閣下は、なぜすぐに決めてくださったのでしょう」
「モンバザン家の主銀商は緑翼銀商ですが、シャルモン市場の札入れでモンバザン家を外しませんでしたでしょう」
「いつか商いが返ってくると、お考えでしたの?」
「いいえ」
カトリーヌは窓の外を見た。
「なすべきをなしただけですわ。結果は、あとからついてくるものです」
まず、目の前の一件における最善を考える。
その後で、商いとして成立する形を作る。
あたしは逆だった。
先に赤嶺銀商の利益を考え、その中から最善を選んでいた。
――顧客の利益と、赤嶺銀商の利益。二つが食い違ったとき、どちらを取る。
登商試験で、あたしは即答した。
赤嶺銀商にございます、と。
前世で銀行のために倒れ、生まれ変わってなお、同じ答えを選んでいる。
ならば――あたしは、何のために数字を積んでいるのだろう。
考えていると、馬車が石畳の継ぎ目で跳ねた。
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ベルリーヴ造船会へ戻り、二本の証文をオーギュストの前へ置いた。
「二隻、購入いただけましたわ」
オーギュストは、証文をゆっくり読んだ。
海水槽の図面のところで、指が止まる。
「魚を、生かしたまま運ぶのか」
「はい」
「……船倉の底に、水の重さがかかる」
太い指が、肋材の線をなぞった。
「梁を二本、足さねばならん」
いくらで売れたのか、とは訊かなかった。
告げたところで、そうか、としか返らなかっただろう。
「閣下。次に船台が空きましたら、何をお造りになりますか」
オーギュストは、少し考えた。
「貴族の船だ」
窓の外の第一船台を見上げる。
「ベルリーヴは、そういう船渠だ」
あたしは、何も言わなかった。
隣で聞いていたカトリーヌが、音もなく扇を閉じた。
船のことは、この人にしか分からない。
商いのことは、この人には分からない。
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船体の代金、金貨千六百枚が入った。
覚書のとおりに配れば、ベルリーヴの手には一枚も残らない。
残るのは、普請請負の千八百枚だけである。
費えを引けば、粗利は六十枚。
あたしが取ったのは、利益ではなかった。
仕事だった。
侯爵家からの進捗払いの日を、資材の支払日と給金日へ合わせて組み直した。
赤くなっていた日繰り表の底が、四十日先へ延びた。
立て直しの案をまとめ、すべての銀商から同意を取るには、少なく見ても五十日。
十日足りなかった。
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「船が売れ、仕事も残りました。ここからベルリーヴの立て直しですわね」
日繰り表を眺めているカトリーヌへ、あたしは言った。
カトリーヌは、新しい書付を広げた。
「ベルリーヴ自身での立て直しはできませんわ。まず、金貨が足りません」
中型輸送船は、注文時に入る着手金が代金の二割ほどにすぎない。
残りは、引き渡しまで造船会が立て替える。
二隻分となれば、金貨二千枚を超える。
ベルリーヴには、その金貨がない。
「足りない分は、やはり赤嶺銀商がもう一度つなぎ融資を出すしか……」
「貸せませんわ」
カトリーヌは、書付から目を上げなかった。
「銀商が貸せるのは、返る当てのある相手だけですわ」
赤嶺銀商は、すでに七千二百枚を貸している。
そして、その七千二百枚の返済は止まっている。
銀商員としては、ぐうの音も出ない。
「それに、ベルリーヴは今後、注文も取れないでしょう」
信用に不安がある造船会へ、荷主は前金を渡さない。
金貨がなければ船を造れず、船を造れなければ信用は戻らない。
「もう一つ、ございますわ」
ほかに、まだ何が足りないというのだろう。
「金貨と信用が揃いましても、次に何を造るかを決める者が要りますの」
あたしは、オーギュストの答えを思い出していた。
次に船台が空いたら、貴族の船を造る。
オーギュストは、船を造る人である。
商いができる人ではない。
二十年、豪華船が赤字であることも、御座船が船台を食っていることも、誰も気づかなかった。
気づける者が、あの船渠にいなかった。
「ですから、商いをどなたかにお譲りいただきますの」
船渠と職人と注文を、新しい持ち主へ渡す。
その代金で、借入を返す。
次に何を造るかを決めるのも、新しい持ち主になる。
ベルリーヴ造船会は終わっても、ベルリーヴの船渠と職人は、新しい商会の下で船を造り続ける。
「閣下は、お認めになりますかしら」
「認めていただかなくて結構ですわ」
カトリーヌが、書付へ一行を書き足した。
「閣下には、会主をお退きいただきます。それを、融資を切り捨てる条件といたしますの」
譲受人を探し、貸し手の立場から会主の座を空けさせる。
それができるのなら、それが最善だろう。
商いを丸ごと譲った場合、いくらで買う相手がいるか。
三つの船台。
残る注文。
そして、船を造れる六百人の職人。
それらを積み、あたしは商いの譲渡代金として金貨四千七百枚と置いた。
貯木場、船体売却の残り、一族への貸付、私財、そのほか売れるものをすべて加える。
それでも、一万二千枚の借入には、金貨四千八百枚届かない。
銀商が、その分を貸し倒れとして被らなければ、ベルリーヴに商いを続けさせることはできない。
あたしは、譲受人になり得る商会を書き出し始めた。
三つ書いたところで、羽根ペンが止まった。
どれも、赤嶺銀商の取引先だった。
『他銀商取引先への便益について、留意を要する』
意見欄のたった一行が、まだ会ってもいない譲受人を、もう選び始めていた。
船台から、槌の音が聞こえた。
モンバザン侯爵家へ渡す二隻の工事が、始まっている。
職人たちは、今日も船を造っていた。
自分たちが、誰の商会へ移されるのかも知らないまま。
(第14話・了)




