第16話 卓の上へ
最後の印章が落ちたのは、期末の二日前だった。
融資切り捨て、金貨四千八百枚。
二銀商と二信商の卓を十九日かけて回り、会議そのものは一日で終わった。
実行決裁の書類を綴じる。
最終資料の末尾へ、七通の評価書と、二十年前の評価依頼書を添えた。
「ベルリーヴの最初の担当者、お調べになりまして?」
カトリーヌが手を止めずに訊いた。
「決裁した支部長は、十二年前に退商しておりました」
「起案なさった融資課長は」
あたしは、二十年前の評価依頼書を束から抜いた。
起案欄の印影。
右下の隅が、わずかに欠けている。
名も、そこに刻まれていた。
「本部においでですわ」
カトリーヌの羽根ペンが止まった。
「今も、ですの?」
「ええ。これから行く先におりますわ」
――これまでの融資と条件変更が妥当であったかは、別途検証されましょう。
移管会議で、モルヴァン課長はそう言った。
検証を始めるかどうかを決めるのは、役員会である。
書類を抱えて、役員室へ上がった。
表題は、書き換えてある。
『今期中に処理を完了する一件』
今期中に実行決裁が下りれば、赤嶺銀商の損は、融資を切り捨てた二千八百八十枚で確定する。
下りなければ、畳んだ場合の回収で見積もり直すことになる。
畳めば、当銀商へ戻るのは千四百四十枚。
損は、五千七百六十枚。
二日遅れれば、損はちょうど倍になった。
「今期中か」
役員は要旨と結論だけを読み、それ以上は頁をめくらなかった。
八通は、添付の側にある。
印章が落ちた。
朱肉から離れた印影の、右下の隅が欠けていた。
二十年前の起案欄にあったものと、同じ形だった。
石室へ戻ると、カトリーヌが顔を上げた。
「あの八通、稟議に綴じましたの?」
「ええ。もっとも、しっかりご覧になるのは、五年後にこの卓へ座る方かもしれませんわね」
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翌朝、モルヴァン課長が工程表を卓へ置いた。
「さて、あとは実行だ」
証文を一つずつ移す作業が、半年ぶん並んでいる。
あたしたちは、それを工程表を上から順に消した。
譲渡代金の配分。港湾使用許可の承継。船ごとの原価計算。
最後に残ったのが、職人六百人の雇用証文の巻き直しだった。
四十人は、自ら新しい道を選んだ。
彫刻と内装の六十人には、三年としか書けなかった。
残る証文を積んで、船渠へ入った。
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第一船台では、蒼白朱号の外板張りが続いている。
第二船台には、見慣れない竜骨が据えられていた。
「大嶺から回してきた船だ」
フェルナンが、槌を下ろした。
「向こうは船台が足りておらん。三年ぶん、注文が詰まっておるそうだ」
――誰に雇われる。
半年前、フェルナンにそう訊かれて、あたしは答えられなかった。
今度は答えた。
大嶺造船会。
給金は月末に出る。
遅れたときは、大嶺造船会の帳場が払う。
資材は、大嶺造船会の仕入れに乗る。
そして、造り方は変えない。
フェルナンは、しばらく黙っていた。
「銀商屋」
「はい」
「銀商屋が船渠へ来た年は給金が遅れると、言ったな」
「伺いましたわ」
「取り消す」
節くれだった指が、第二船台の竜骨を指した。
「二百年やってきて、次に何を造るか三年先まで決まっておるのは初めてだ」
あたしは、頭を下げた。
「四年目は」
フェルナンが、槌を持ち直した。
「彫り物の六十人だ。四年目は、どうなる」
答えられなかった。
あたしが持っているのは、三年までだった。
「そうか」
棟梁は、船台へ戻っていった。
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王都へ戻って数日後、石室の扉が開いた。
大口商会部長のヴァレンヌだった。
窓のある部屋の主が、この階へ降りてくるのを見たのは初めてだった。
「お主が正しかった、とは言わん」
ヴァレンヌはそう前置きして、帳面を卓へ置いた。
「だが、大嶺造船会への譲受資金。設備資金。今後の運転資金。ベルリーヴ一件から、これだけの商いが生まれた」
指が、最後の一行を叩く。
「大口商会部としては、文句のつけようがない」
半年前、この人が稟議の意見欄へ書いた一行は、取り消されていない。
マルティネッリを止めた判断も、間違いだったとは言われていない。
認めているのは、生まれた商いの額だけである。
「ありがとうございます」
あたしは、頭を下げた。
叩かれた最後の一行に、五年後のベルリーヴは入っていない。
それでも、この帳面は正しかった。
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期末、モルヴァン課長が部の実績を読み上げた。
今期、融資取戻部が取り戻した金貨。
そのうち、四千三百二十枚がベルリーヴ一件である。
「ベルリーヴのおかげで、部全体の目標に届いたな」
課長は、それだけ言った。
拍手は起きなかった。
数を読み、次の卓へ移る。
この部屋では、それが評価だった。
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七年目の初め。
辞令が二枚、同じ日に出た。
異動とともに調査役への昇進である。
あたしは大口商会部で、担当は大嶺造船会。
カトリーヌは審査部。
同じ日、王家の書状が届いた。
ダルジャン家は、男爵から子爵へ取り立てられた。
ソレイユ家は、伯爵まであと一段だという。
六年、このために数字を積んできた。
届いたのが、今日だった。
「大嶺造船会は面白いぞ。船台の空きが金貨に化ける商いだ」
ヴァレンヌは、パイプを咥えながら笑っていた。
大口商会部なら、大きな加点が載る。
同じように数字を作れば、次に行ける。
行けるかもしれない、ではない。
もう、行けると確信していた。
「ダルジャン様が起案なさって、わたくしが決裁する。今後は、そうなりますわね」
帰り道、カトリーヌが日傘をゆっくりと回した。
あたしは、隣を見た。
「二案を並べる欄を、作っておいてくださいましね」
日傘が、半回転して止まった。
「作れるかもしれませんわね」
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その夜、石室に残っていたのは二人だけだった。
ほかの卓の蝋燭は、もう消えている。
あたしの蝋燭が短くなると、カトリーヌが新しい一本を燭台へ立て、細い指先で火を移した。
「三年で、何本になりましたかしら」
「数えておりませんわ」
カトリーヌは扇を開き、口元へ寄せて、それから畳んだ。
畳む音は、しなかった。
「あと何本お点けするか、そろそろ決めておきたいですわね」
卓の隅に、二枚の辞令が置いてある。
「ダルジャン様」
「そろそろ、ロッティと呼んでくださいませんこと?」
カトリーヌはすぐに答えず、あたしの目をじっと見つめていた。
「それでは。ロッティ、しがらみのないところで、一緒に商いをいたしませんこと」
カトリーヌが帳面の間から三枚の羊皮紙を抜き、指先で卓の上を滑らせた。
半年前、あたしが屑籠へ落とした表だった。
清書もされていない。
あたしの字のままだ。
「まだ、どなたにもお見せしておりませんの」
差は、年に千二百枚。
あの日、あたしはこれを捨て、大嶺造船会の証文に署名した。
あたしは、三枚を指先で押し戻した。
「残ったほうが、しがらみを変えられるのではございませんこと」
「変えられるかもしれませんわね」
二十年、審査の上に座り続けた人がいる。
椅子は四代替わり、判断だけが引き継がれた。
十年かければ、変えられるかもしれない。
変わらないかもしれない。
どちらにも保証はなかった。
――だが、それを娘に背負わせることはしたくないのだ。
ふと、フォンティニャック子爵の声を思い出した。
あのときは、遠い話だった。
他人の張った賭けを、外から差配する。
誰と誰を同じ卓へ座らせるか。
もっと大きな卓を組んでみたい、と思った。
大口商会部の卓は、融資取戻部より大きい。
そこでも、外から差配するだけだ。
失敗しても、失う金貨は赤嶺銀商のものだ。
外へ出れば、減るのは自分たちの金貨だ。
雇う者も、その家族も、自分たちで背負う。
子爵位は、今日届いた。
辞令を返せば、その先は止まる。
六年積んで、やっと届いたものを、届いた日に置いていくことになる。
――四年目は、どうなる。
船渠で答えられなかった問いが、まだ卓の上にあった。
そこまで分かっていて、あたしはカトリーヌを見た。
「わたくしも、カティと呼ばせていただきますわね」
「どうぞ」
「次は窓のある部屋になさいませんこと」
扇の上から、カトリーヌの目がこちらを見て、細くなった。
「はい。大きな窓がある部屋にしましょうね」
カトリーヌは扇を膝の上へ置き、帳面から書状を三通取り出した。
一通ずつ、卓の上に並べていく。
「フォンティニャック子爵。わたくしたちに金貨をお出しくださるそうですわ」
「モンバザン侯爵。同じく」
「そして、こちらは金貨ではなく、商いを助けてほしいという話ですわね」
三通目には、差出人の名だけがこちらを向いていた。
マティルド商会。
――あと十枚です! 来月までには必ず……!
登商試験で十枚足りず、石室を出された令嬢の名だ。
「……いつからですの」
「お茶を、ときどき。帳簿も、ときどき拝見しておりますわ」
「……六年間?」
「ええ」
カトリーヌは、それ以上何も言わなかった。
辞令は、翌日に返した。
退商届を出したとき、モルヴァン課長は目も上げなかった。
「引き継ぎの目録は、どこだ」
「卓の三段目です」
「そうか」
それだけだった。
商員が去れば、別の商員が座る。
蝋燭が短くなれば、新しい蝋燭に替えられる。
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あたしたちがやることは、石室で覚えた仕事とよく似ていた。
貴族や大商人から、失う可能性を承知した金貨を集める。
銀商から焦げ付いた証文を、額面より安く買う。
必要なら、商いそのものを譲り受ける。
立て直した後、次の担い手へ渡す。
取り立てるのではない。
そこだけが、立て直し商会と違った。
王都の一角に、小さな部屋を借りた。
石室と違って、窓が大きい。
昼のうちは、蝋燭が要らない。
マティルド商会の書状を開いたのは、その卓の上だった。
「あれから六年でございますわ」
カトリーヌが、書状の端を指で押さえた。
「マティルドは家を畳んで平民になりましたけれど、今は服飾店が二十軒。三年前は、四軒でしたのよ」
マティルドの服飾店は寸法を数種類に絞り、同じ型の衣を先に仕立てて並べるらしい。
測らない。
待たせない。
誂えの三分の一の値で、その日に持ち帰れるという。
「儲かっておりますわね、この商い」
「ええ。ですから、金貨が足りませんの」
売れるまで、金貨は棚の上で衣になっている。
店を増やすほど、棚が増える。
二十一軒目を開く金貨が、二十軒の棚に積まれていた。
「次の店を出すのに四つの銀商が、お断りになりましたわ」
「理由は?」
「借入が多すぎる、と」
四つのうち一つは、赤嶺銀商である。
断って正しい。
店は借地で、担保はなく、在庫は衣だ。
返済期日のある金貨では、棚の上の衣が金貨になるのを待てない。
造りかけの船に金貨が寝ていた造船会と同じだった。
借りる金貨では、間に合わないのだ。
それでも、商いはここまで大きくなってきた。
あたしは書状を卓へ置いて、鞄を取った。
「参りましょう、カティ」
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王都の裏通りは、荷車一台がようやく通れるほどの幅しかなかった。
低い軒が並び、昼でも道の半分は影になっている。
小さな看板の下で、カトリーヌが立ち止まった。
窓の向こうで、縫い子たちの手が動いている。
あたしは扉を押した。
蝶番が、乾いた音を立てた。
奥の卓に、女が一人いた。
帳簿を開いて、何か書き込んでいる。
扉の音に、手が止まる。
顔が上がり、目が合った。
マティルドは、しばらくあたしを見ていた。
それから、開いていた帳簿をこちらへ向けた。
「二十一軒目の話でございます」
あたしは、店の中へ入った。
背中で、扉が閉まった。
(第16話・了)
(了)




