第十一章 白い喉 六節
六節
七つ目の階は、階では、なかった。
第七の祈り…ディンガの譲った、最後の一つ…を、キサーラが、唱え終えると、白い喉そのものが、開いたのだ。壁が、音もなく、左右へ、退き、座は、吸い込まれるように、その、開けた口へ、滑り入った。
そこは、大広間、という言葉では、足りなかった。
白い、うつろな、天蓋の下、目の届くかぎり、床が、続いていた。そして、その床に…**揺り籠が、並んでいた**。巨大な、白い、窪み。舟の形に、緩やかに、凹んだ、空の寝床が、幾十、幾百、整然と、列をなして。かつて、そこに、何かが、憩っていた。何かが、そこから、発っていった。今は、すべてが、空だった。空のまま、塵一つなく、待っていた。
「…送りの間、だ」
と、誰かが、囁いた。誰の声だったか、後には、誰も、憶えていなかった。
窓は、この階では、壁の一面、丸ごとだった。皆が、寄って…息を、呑んだ。空の色が、変わっていた。藍を、越えて、黒に、近い。そして、その、黒に近い空に、**昼だというのに、星が、視えた**。硬く、瞬きもせず、無数に。雲海は、遥か、遥か、下。世界と、星々との、ちょうど、狭間に、この広間は、浮かんでいるのだった。ここから、船々は、発ったのだ。あの、硬い星々の、いずれかへ。
名の届け所は、広間の最も奥に、あった。
一枚の白い壁。ただし、他のどの白とも、違った。近づくと、視えた。壁の深い、深い、内側に…**光が、沈んでいる**。小さな、鈍い、金色の粒が、幾万、幾十万。深い水の底に、沈んだ、星々のように。ジャベの熱の眼が、それを、捉え、翁は、杖ごと、よろめいた。
「…名じゃ」と、彼は、掠れた声で、言った。「これは…名の沈んだ壁じゃ。昇っていった者らの。一人、一人の。…遠の昔に、預けられた名が…**まだ、消えずに、灯っておる**」
発つ者は、ここに、名を、預けて、発った。残る者が、いつか、届けに来る名の待ち合わせの場所として。…そして、幾星霜、届けに来る者は、なかった。
キサーラは、壁の前に、立った。
胸の内で、頁が、開かれた。上の里の壁の八百と十四。ディンガ。二つに、分かれた民の地に残った側の、すべての名。彼女は、目を、閉じ、最初の名を…ディンガが、最初に、譲った順の最初の名を…声に、出した。
名が、唇を、離れた、その刹那。白い壁の深みに、新しい光が、一粒…**灯って、沈んだ**。幾万の古い光の隣へ。静かに。迎え入れられるように。
彼女は、次の名を、呼んだ。また、一粒、沈んだ。次の名。次の名。
それは、長い、長い、務めだった。八百の名は、八百の人生だった。一つを、呼ぶたび、地の底の、あの、乾いた声が、一つずつ、教えてくれた順が、甦った。誰が、誰の子で、誰が、門の何代目の守りで、誰が、彫りの名手だったか。彼女は、名だけを、呼んだ。名だけで、十分だった。壁が、聴いていた。
仲間たちは、揺り籠の縁に、腰を、下ろし、黙って、それを、見守った。誰も、急かさなかった。誰も、言葉を、挟まなかった。刻が、過ぎた。三百を、越えた辺りで、キサーラの声が、初めて、掠れた。四百で、擦れた。五百で…途切れかけた。
その時、傍らに、水の椀が、差し出された。
ミラだった。
何も、言わなかった。目も、合わせなかった。ただ、革袋から、量らずに、なみなみと、注いだ水を、両手で、差し出していた。…誰のものでもない水を。キサーラは、椀を、受け、飲み、返した。ミラは、受け取り、離れて、また、揺り籠の縁に、座った。それだけだった。手は、取られなかった。けれど、水は、渡された。キサーラは、次の名を、呼んだ。声は、もう、掠れなかった。
八百と、十四。
最後の一つが、残った。彼女は、息を、整え、地の底の、あの、暁闇の声を、思い出しながら、呼んだ。
「…**ディンガ**」
一粒の光が、灯り、沈んだ。幾万の光の、いちばん、新しい一つとして。それから、彼女は、預かった言葉を、一語も、違えずに、壁へ、告げた。
「…船は、ことごとく、昇りきり。柱は、守り抜かれ。誓いは、破れなんだ、と。…務めを、果たした者の、いちばん、最後に、この名を」
壁が…**応えた**。
音では、なかった。光だった。幾万の沈んだ星々が、深みの底で、一斉に、ゆっくりと、明るみ…また、静まった。長い、長い、息を、一つ、吐くように。受け取った、と。届いた、と。長い長い年月、待った、と。…それだけの、応えだった。それだけで、足りた。
ジャベが、床に、両の掌を、着けた。砂の民の作法で。しわがれた誦えが、空の揺り籠の列の上を、渡っていった。水は、誰のものでもなく…。地の底の待ちびとの骨に、渡ったのと、同じ言葉が、天の際の送り手らの、空の寝床に、渡った。分かたれた民の両の半身に、同じ誦えが、届いたのだった。
そして…それは、来た。
キサーラの額の琥珀が、燃えた。熱くは、なかった。ただ、深く、深く、鳴った。撞かれた鐘の内側に、立っているような。星々の側から、雲の下の彼女の側へ…幾星霜の遠さを、渡って、初めて、**声が、来た**。
一語、だった。たった、一語。
(…**きこえる**)
キサーラは、動けなかった。
遠い、遠い、半身。優しくて、臆病な、知の巨人。彼女が、その望郷を、着て、歩いてきた人。その人の声が、初めて、届いた。きこえる、と。お前の届けた名が。お前の呼ぶ声が。お前が。…彼女は、拳を、額の琥珀に、押し当てた。溢れそうになる、名の、つかぬものを、押し戻すように。
「…届けました」
と、彼女は、囁いた。それだけを。火のことは、言わなかった。言えば、あの、臆病な優しさが、どれほど、傷つくかを、識っていたから。…いや。それは、半分だ。もう半分は…いちばん、届いてほしい声たちが、いま、雲の遥か下で、彼女を、待って、燃えているからだった。
誰も、祝わなかった。
復命は、果たされた。久遠の昔の約定が、一つ、閉じた。なのに、広間には、灰の味が、していた。ガルドが、空の揺り籠に、無言で、頭を、下げた。ロウが、鼻を、鳴らした。ドレクは、窓の硬い星々を、睨んでいた。
「…降ります」
と、キサーラは、言った。声は、もう、揺れていなかった。
座は、来た道を、戻り始めた。降りは、昇りより、速かった。白い喉を、雲海へ、雲海の下へ…**それでも、四日目の朝は、雲の下で、もう、始まっているのだった**。




