第十一章 白い喉 四節
四節
五つ目の階を、過ぎた頃から、白い喉は、いよいよ、深い静けさに、入っていた。
窓は、もう、雲より、上を、映していた。眼下は、白い雲海。世界は、視えない。壁の向こうの、水の脈の音だけが、変わらず、一行の旅の連れだった。眠り、齧り、また、眠る。ミラは、ロウの大きな背に、凭れて、うとうとと、していた。
その、水の音が…**変わった**。
最初に、気づいたのは、やはり、ロウだった。眠りの中から、耳だけが、立った。それから、目が、開いた。
「…おい。脈ん中で、何か、**昇ってくる**ぞ」
皆が、壁に、耳を、寄せた。太い、規則正しい、水の拍動。その、流れの音に、逆らうのでも、乗るのでもなく…縫うように、細く、必死に、駆け上がってくる、小さな、揺らぎ。それは、座の高さに、追いつき、追い越しかけ、戻り、そして、次の階の検めの弁の白い蓋の糸ほどの継ぎ目から…
…**滲み出た**。
青い、小さな、光だった。
否、光の成れの果てだった。あの、根の水の青い灯。それが、見る影もなく、細く、薄れ、輪郭も、保てぬほどに、擦り切れて、壁を、離れ、落ちるように、こちらへ、漂ってきた。キサーラは、座の縁へ、走り、両の掌で、それを、受けた。灯は、掌の上で、消えかけの、蝋燭の炎のように、伏せった。
「…どうして」
と、彼女は、囁いた。声が、掠れていた。
「あなたの水は、下の、はず。あそこで、看ていてと…」
灯は、答える力も、なかった。ただ、微かに、明滅した。急いて、急いて、擦り切れるまで、あの、押し上げる水の中を、泳ぎ、昇ってきたのだ。この、高さまで。…その、事実だけで、報せの、重さは、量れた。名の、つかなかった、胸の奥のあれが、三度目に、疼き…今度は、疼きでは、済まなかった。冷たい手で、心の臓を、掴まれた。
「…セレナさん」
精靈読みは、もう、傍らに、膝を、突いていた。
彼女は、両の掌を、キサーラの掌に、重ね、目を、閉じた。長い、静けさ。それから、セレナの唇が、読んだものを、切れ切れに、こぼし始めた。歌うような、いつもの声では、なかった。
「…根の戸。…叩く音。幾つも。…開けて。ナイラさんが、開けて…人が。たくさん。渠を、伝って。…焦げた、匂いの、人たち」
ドレクの拳が、鳴った。セレナの睫毛が、震えながら、続けた。
「…腕に。額に。…**新しい、烙印**。まだ、乾いていない。…童が。欠けた椀を、抱えて。水の入っていない、椀を、離さない。…広場。椀の山。水が、地面に…祠が、燃えて。…触れの、声。三日の猶予。四日目の朝から、検めは、**戸ごとに**…」
「…誰だ」と、ロウが、唸った。「誰が、やってる」
「…青い、髪」
セレナの声が、初めて、途切れた。
「…ルビーの目」
白い喉の静けさが、氷に、変わった。その名を、口にする者は、いなかった。する必要が、なかった。乾いた海の底で、死んだと、見限っていったはずの男。三つの楔を、胸に、抱えたまま、月の正しさを、焼くことで、確かめ続ける男。…**告死天使が、南に、いる**。
キサーラは、掌の中の消えかけの灯を、視ていた。
胸の内の帳面が、ひとりでに、繰れていった。七つの貸し…回収。風の精靈…未回収。白き王への貸し…未回収。…頁を、繰る手が、止まった。載っていない、一行が、あった。宴の夜。万の人垣の割れた狭間で、誰かが、掠れ声で、言った…御使いだ、と。彼女は、それを、聞いた。聞いて、訂正せず、囮の隠れ蓑として、**借りた**。借りて、そのまま、発った。…帳面に、載せ忘れていた、借りが、あったのだ。いちばん、大きな、借りが。
(…私が、撒いたのです)
と、彼女は、思った。誰にも、聞こえない声で。
(あの問いも。あの、読み違いも。…訂正できたのに、しなかった。役に、立ったから)
「なあ、蜘蛛の姐さん」と、ガルドが、押し殺した声で、訊いた。「…それだけか。まだ、何か、視たな」
セレナは、目を、開けた。
その顔から、血の気が、引いていた。愛爾芙の、白い肌が、それと、判るほどに。彼女は、キサーラを、視た。視て、一度、目を、伏せ、それでも、精靈読みの、務めとして、最後の一枚を、言葉に、した。
「…逃げないのです。椀を、置いた人たちは。…祠を、崩せと、言われて、崩さない。烙印を、示されて、退かない。渠へ、逃げ込んだのは、ほんの、僅か。残りは、皆、家に、いて…**待っているのです**」
「…待ってる? 何をだ」と、ドレクが、訊いた。訊いてから、彼は、答えを、悟った顔を、した。
セレナの声は、もう、囁きだった。
「…**あの方が、来てくださる、と**」
白い喉の遥かな高みで、奪われた水だけが、何も、識らずに、走り続けていた。




