第十一章 白い喉 三節
三節
地の上の都では、囁きが、通貨に、なっていた。
量りの都に、量られぬものは、無い。…無いはずだった。だが、宴の夜このかた、量り手の帳面にも、壇の触れにも、載らぬものが、辻から辻へ、流れ始めていた。囁きだ。曰く、英傑がたは、七人がかりで、独りを、仕留められなかった。曰く、帝が、口を、きかれた。曰く、金の目は、血を、流された。赤い、人の血を。…そして、いちばん、低く、いちばん、遠くまで、流れる囁きは、あの問いだった。
…**あの房の水は、どの帳面に、載っているのか**。
形の、あるしるしも、生まれていた。
戸口の脇に、置かれる、一杯の水。素焼きの椀に、なみなみと。誰の、ためとも、書かれず。飲んだ者が、誰かも、問われず。…**誰のものでもない水**。それが、金の目の御使いを、胸に、抱いた者らの、声なき、名乗りだった。烙印の民の隠れ処から、始まったという。それが、壁を、越えた。量られた水を、量りの外で、施す…この都で、それ以上の恐ろしい信仰の告白は、なかった。
若い量り手、**サミア**は、その椀の一つを、夜の辻で、視た。
視て、見なかったことに、した。三度目だった。彼女の勤めは、外れ町の水帳の突き合わせ。宴の夜このかた、帳尻が、合わないのだ。汲まれた水と、飲まれた水の間に、小さな、小さな、目減りが、生まれている。目減りは、罪だ。報せねば、ならない。報せれば、椀を、置いた誰かの、名が、消える。…彼女は、筆を、持ったまま、幾晩も、その一行の前で、止まっていた。
そして、止まったまま、別のものに、行き当たった。
外れ町の水帳を、遡ると、勘定の辻褄が、**第七の垣の上**で、切れているのだ。切れた先を、検めようと、綴りを、繰り…**頁が、無かった**。綴りの、糸だけが、そこに、残っていた。上役に、訊いた。上役は、筆を、置き、長いこと、サミアを、視てから、言った。
「…その頁は、無い。**無い頁を、探すな**」
二十年前、別の量り手が、聞いたのと、寸分、同じ言葉だとは、サミアは、識らない。ただ、その夜、彼女は、綴りの糸の残る箇所を、指で、なぞり、糸の締まり具合から、失われた頁の厚みを、量った。三枚。…量り手は、量るのが、性分だった。
…青白い星が、北の空から、降りてきたのは、その翌る日の夕刻だった。
最初に、視たのは、北門の物見だった。祈りの道の白い筋の遥か彼方。夕闇の底を、こちらへ、滑るように、来る、一点の青白い光。星が、落ちてくる、と、物見は、思った。星は、落ちず、道の上を、まっすぐに、来た。異形の獣に、跨がった、一騎だった。
青き長髪が、夕風に、流れていた。玲瓏たる、若い、美貌。ルビーの色の双眸。月神殿、最上位審問官…**告死天使、アズライール**。
その道行きは、長かった。北の関を、発ってからの、幾日、彼は、祈りの道を、南へ、辿りながら…**焼いてきた**のだ。道々の辻に、生まれていた、小さな祠。金の目の御使いに、旅の無事を、祈る、木組みの、粗末な祠。それを、見つけるたび、彼は、騎獣を、止め、祈った者を、質し、祠に、火を、掛けた。緑の海の北の縁で、上がった、あの、小さな赤い点…白い喉の窓から、視えた、あの、動く色は、彼の通った跡だった。
彼の手順は、揺るがなかった。**火は、物に。烙印は、人に。命は、月の裁きの、後に。** 一段も、飛ばさない。それが、彼の正しさだった。正しさの、順を、守ることだけが、あの日…師を、この手で、処したあの日から…彼を、立たせている、背骨だった。
(…生きていた)
騎獣の揺れの上で、彼は、幾度目かに、その報せを、噛んだ。乾いた海の底で、死んだと、見限った、あの、一党。金の目の異端。それが、南の帝都で、門を、応えさせ、狩りの宴を、生き延び、万の民に、問いを、撒いた、という。
(生きていたのなら…私の見限りが、誤りだった。私が、誤るのなら…)
思考は、そこで、いつもの、崖に、出る。私が誤るのなら、私の裁いてきたものは。私の焼いてきたものは。私の…**斬った、師は**。…崖の縁で、彼は、いつものように、目を、閉じ、月の白い、揺るがぬ顔を、思い描き、踵を、返す。異端は、疑いを、撒く。疑いは、崖を、掘る。ゆえに、異端は、**根から**、焼かねば、ならない。金の目を、追う前に、まず、金の目の残した根を。
帝都の北門で、彼を、迎えたのは、灰色の衣の量り手たちの、硬い、沈黙だった。
都の壇は…**彼の到着を、触れなかった**。
夕刻の壇は、いつもの、倦まぬ声で、明日の水の量りを、読み上げるばかり。月神殿の最上位審問官の入城に、都は、一つの鐘も、鳴らさなかった。第七の垣の上、白い房の高欄では、嗤う面の連なりの陰で、誰かが、気だるく、言ったという。…無粋なのが、来た、と。
アズライールは、それらを、すべて、量りの内に、入れた。帝は、月に、跪く。だが、この都は、月の庭ではない。**帝の秤の内**だ。彼の権能と、帝の量りは、この都で、初めて、同じ卓に、着く。…構わぬ、と、彼は、思った。彼の務めは、政では、ない。根を、焼くことだ。
翌る朝、外れ町の広場で、宣は、下された。
壇は、貸されなかった。彼は、壇を、借りず、騎獣の上から、おのれの声で、宣した。よく、通る、静かな、美しい声だった。
「…月の量りの外で、水を、施す者。金の目の偶像に、祈る者。それは、異端の徒である。しるしの椀を、収めよ。祠を、おのれの手で、崩せ。…三日の猶予を、与える。四日目の朝より、**検めは、戸ごとに、及ぶ**」
広場に、集められた、しるしの椀が、山を、なした。素焼きの、粗末な椀。なみなみと、水を、湛えたままのものも、あった。彼の合図で、水は、地に、空けられ…乾いた石畳が、束の間、黒く、濡れて、すぐに、乾いた。木の祠の残骸に、火が、掛けられた。小さな、行儀のよい、火だった。
人垣は、静かだった。跪く者も、いた。目を、伏せる者も、いた。そして、幾人か…火を、視たまま、目を、伏せぬ者が、いた。
サミアは、人垣の後ろに、いた。
胸元の衣の下に、薄い、紙の感触が、あった。三枚。無い頁の在ったはずの厚み。彼女が、失われる前の控えの綴りから、書き写した、外れ町の水の勘定。…焼かれる祠を、視ながら、彼女は、量り手の正確さで、思った。
(紙は、燃える)
火の粉が、夕べの、始まりの空へ、昇っていった。
(…覚えて、しまえば…**燃えない**)
その夜から、サミアは、写しを、諳んじ始めた。一行、また一行。二十年前、一杯の水を、量らずに、注いだ女が、いたことを、彼女は、まだ、識らない。




