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第十一章 白い喉 二節

挿絵(By みてみん)


二節


 昇りには、刻の手掛かりが、なかった。


 座は、羽のように、静かに、白い喉を、昇り続けた。速いのか、遅いのか、それすら、量りかねた。壁は、どこまでも、同じ白で、過ぎてゆく目印が、ない。ただ、壁の向こうの、水の脈だけが、絶えず、鳴っていた。太く、規則正しく、生き物の拍動のように。眠る番を、決め、乾いた麺麭(ぱん)を、齧り、また、眠った。二度目の眠りから、覚めた頃…座が、初めて、緩んだ。


「…止まるぞ」と、ガルドが、言った。


 喉の壁が、そこだけ、大きく、内へ、開けていた。棚のような、広い、白い(きざはし)。座は、吸い寄せられるように、その縁へ、寄り添い、指二本の高さで、止まった。降りて、(あらた)めよ、と、言わんばかりに。


 **中途の階**だった。


 白い床に、白い卓。白い、腰掛け。壁沿いに、道具棚。すべてが、あの、継ぎ目のない白で、すべてが、数多の歳月を、埃の薄い衣一枚で、越えていた。卓の上に、器が、並んでいた。三つ。囲んで、座った形のままに。器の中身は、疾うに、影も、なかったが…器そのものは、待っていた。食べかけの、団欒(だんらん)の形のままで。


「…仕事場だ」と、ガルドが、道具棚の前で、囁いた。声が、勝手に、低くなるのだった。棚には、見たこともない形の道具たちが、**大きさの順に**、行儀よく、掛かっていた。一つだけ、棚から、外されて、卓の端に、置かれている。誰かが、手を、止めた、そのままに。「…途中なんだ。何もかも。飯も、仕事も。…片づけて、発つ暇も、なかったのか。それとも…**すぐ、戻るつもりだったのか**」


 答えは、床の隅に、あった。


 ミラが、見つけた。小さな、白い、独楽(こま)だった。子どもの、玩具。拾い上げると、時の年輪を、感じさせぬ、滑らかな重みが、掌に、載った。ミラは、長いこと、それを、視ていた。持って行こうと、するように、指が、一度、閉じ…それから、開いた。彼女は、独楽を、卓の上、三つの器の真ん中に、そっと、置き直した。窓のほうへ、向けて。


「…戻ってきたときに、すぐ、見つかるように」


 誰も、戻らないことを、この場の誰もが、識っていた。識っていて、誰も、何も、言わなかった。


 座を、再び、昇らせたのは、第三の祈りだった。


 キサーラが、唱えると、階の縁の七つの印が、順に、灯り、座は、名残るように、ゆっくりと、壁を、離れた。道の順…ディンガの七つの祈りは、この喉の七つの階を、一つずつ、解いて、昇るための、道標だったのだ。彼女は、胸の内で、あの、乾いた声に、報せた。三つ目まで、参りました、と。


 水の脈との、別れは、その先で、来た。


 喉の壁の一面が、(にわ)かに、賑やかになった。太い、白い脈が、幾本にも、枝を、分け…その、分かれ口に、**別の手**が、継がれていた。一目で、判った。座の白でも、壁の白でもない。色は、似せてある。だが、肌が、違う。継ぎ目が、ある。ガルドの識る目が、それを、舐めるように、辿り、杜瓦夫(ドワーフ)の、髭が、逆立った。


「…後から、継いだ手だ。造り手の手じゃねえ。…見ろ、この、曲げ方。脈ってのはな、水の行きたがる形に、沿わせて、曲げるもんだ。こいつは、**水の嫌がる向きに、力ずくで、ねじ曲げてやがる**。…下手糞め」


 ねじ曲げられた枝の行く先は、壁を、貫いて、外…都の青銅の格子の走る、量りの(とい)へ。約定の水が、盗まれる、その、現場だった。奪った者は、この喉の普請を、造れない。造れないから、**寄生する**。継ぎ手の下手さが、その白状だった。キサーラは、通り過ぎるその景を、目に、焼き付けた。…月は、救い主では、ない。継ぎの、下手な、盗人なのだ。


 窓は、四つ目の階の少し上に、あった。


 壁の一面が、そこだけ、水のように、透きとおっていた。硝子(がらす)では、ない。触れれば、壁と、同じ、硬い白…なのに、向こうが、視える。皆が、息を、呑んで、寄った。


 世界が、下に、あった。


 帝都が、玩具の箱庭のように。緑の海が、暗い、深い、絨毯(じゅうたん)のように。その向こう、白い塩ノ原が、大地を、覆う、光る布のように。ドレクが、縁を、掴んだまま、へたり込み、ロウが、珍しく、尻尾を、脚の間に、入れた。ジャベだけが、閉じた瞼を、まっすぐ、窓へ、向けて、動かなかった。熱の眼に、この景が、どう、映っているのか、誰にも、量れなかった。


 そして、キサーラは…**それ**を、視た。


 大地の、いちばん、遠い縁。空と、地の境の線。それが、真っ直ぐでは、なかった。ごく、ごく、僅かに…**弓なりに、(たわ)んでいた**。


 観察者の目は、それが、目の迷いでないことを、量り切った。琥珀の奥で、遠い半身が、静かに、頷いた気がした。彼女は、それを、誰にも、告げなかった。告げても、届く言葉が、まだ、この地上には、ないからだ。ただ一人…窓辺のジャベの傍らに、立ち、翁にだけ、届く、小さな声で、言った。


「…翁。世界は、**丸い**のです」


 長い、長い、沈黙が、あった。閉じた瞼は、動かなかった。二又の舌が、一度だけ、微かに、震えた。それから、しわがれた声が、ゆっくりと、応じた。


「…そうか。…丸い、器か」翁は、噛みしめるように、間を、置いた。「…では、水は、こぼれておらんのじゃな。誰の足元からも。…儂らの渇きは、端から、**地続き**じゃったわけじゃ。北の民も、南の民も、月の連中でさえも。…同じ、丸い器の渇きよ」


 それきり、翁は、黙った。砂の民の幾星霜の世界の形が、いま、一人の翁の内で、静かに、造り替えられているのだった。誰も、その沈黙に、触れなかった。


 座が、五つ目の階へ、昇ってゆく、その途中だった。


 窓の景の隅で…ロウの耳が、ぴくりと、動いた。音では、ない。この高みに、地の音は、届かない。彼の目が、細められ、窓の遥か下方、緑の海の北の縁の辺りを、視ていた。


「…なあ。あれ、何だ」


 皆が、視た。緑の暗い絨毯の北のはずれ。祈りの道の白い筋が、森を、貫いて、南へ、走ってくる…その、白い筋の上に。


 小さな、小さな、**赤い点**が、一つ、灯っていた。


 揺らめいていた。夕焼けには、早すぎた。篝火(かがりび)には、大きすぎた。遠すぎて、誰にも、正体は、量れなかった。ただ、その赤だけが、あの、玩具のような、静かな箱庭の中で…唯一、**動いている色**だった。


 キサーラは、それを、視た。名の、つかぬ、あの胸騒ぎが、二度目に、疼いた。彼女は、今度も、それに、名を、つけなかった。


 座は、白い喉を、昇り続けた。赤い点は、やがて、窓の縁に、切られて、視えなくなった。


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