第十一章 白い喉 一節
一節
出立の朝は、地の底ゆえ、朝の光を持たなかった。
代わりに、唄が、あった。皿の列の傍で、ピムが、小さな声で、唄っていた。まだ、節も、言葉も、定まらぬ、生まれかけの唄。数えない唄は、どうやら、水の流れる音の真似事から、始まるものらしかった。七人は、根の里の白い床で、目に見えて、肉を、取り戻しつつあった。
「…戸のことは、任せな」
と、ナイラが、言った。見送りの、先頭で、腕を、組んで。
「皿は、満たす。骨は、看る。彫りかけの名は、彫り終える。あんたらの、帰りの戸も…**開ける声は、忘れない**。二十年、忘れなかった女だ、見くびるんじゃないよ」
「見くびっては、いません」と、キサーラは、咲った。「預けて、いくのです。…いちばん、重いものを」
別れは、もう一つ、あった。
青い灯が、キサーラの肩の高さに、浮いて、離れずにいた。共に、行く気なのだ。彼女は、掌を、差し伸べ、小さき者を、その上に、迎えてから、静かに、言った。
「…あなたの水は、ここです。幾星霜、あなたが、憶え続けた道に、水は、帰ってきた。…ここで、看ていてあげてください。この水と、この人たちを」
灯は、長いこと、掌の上で、揺れていた。それから、一度、彼女の頬の高さまで、昇り…礼をするように、深く、沈み…糸の水の筋へ、滑るように、飛んで、その細い流れの中へ、溶けるように、消えた。水の筋が、一瞬、これまでより、少しだけ、明るく、光った気がした。
さて…と、ガルドが、うつろの、高みを、見上げた。
白い喉は、仄明るく、上へ、上へ、目の限りを、超えて、続いている。遥かな高みで、奪われた水の走る音が、絶えない。杜瓦夫は、首が、痛むまで、見上げてから、髭の奥で、唸った。
「…検めの道は、あるにはある。喉の内壁に、螺旋が、彫り込んであるのを、確かめた。…だがな、勘定するぜ。あの傾きで、あの高さだ。柱の中途の階とやらまで、人の足で…**幾旬、かかるか、わからねえ**。水は、汲めるとして、食い物が、保たねえ。爺さんの膝も、保たねえ」
「膝は、余計じゃ」と、ジャベが、言った。誰も、笑わなかった。笑えない勘定だったからだ。
絶望を、最初に、拾い上げたのは、しかし、その勘定を、口にした、当のガルドだった。彼は、諦めの悪い目で、うつろの、底を、歩き回り始めた。鎚の頭で、こつ、こつ、と、白い床を、渡り歩く。あの、検分の足取りで。
「…考えても、みろ」と、歩きながら、彼は、言った。半分、おのれに、言い聞かせる声だった。「ここは、送りの、根だ。船だの、荷だの、人だのを、あの高みまで、揚げてた場所だ。…**人の足で、揚げてたはずが、ねえ**。造り手ってのはな、横着なんだ。横着のためになら、どんな、途方もねえ、普請でもする。…どこかに、ある。揚げるための、何かが」
それは、うつろの、底の中央に、あった。
あまりに、大きく、あまりに、床に、馴染んでいたので、誰も、それを「物」と、視ていなかったのだ。床の他より、僅かに、白の深い、巨大な、円い、一枚。荷車が、二十は、載る広さ。その、縁に沿って…**七つの、小さな印**が、環をなして、刻まれていた。
キサーラの息が、止まった。
「…根の門と、同じ、印」
「…**座だ**」と、ガルドが、掠れた声で、言った。膝を、突き、円い縁の継ぎ目に、識る目を、這わせて。「浮くんだ、こいつは。喉の内壁の螺旋…ありゃあ、道じゃねえ。**軌だ**。この座が、あれを、伝って、昇るんだ。…途方もねえ。途方もねえ、横着だ」
誰も、動けずにいる中で、キサーラだけが、静かに、円い座の中央へ、歩を、進めた。
胸の内で、地の底の乾いた声が、甦っていた。七つの門の、まことの名と、**開ける順**と、まことの祈り。…開ける順。彼女は、ずっと、それを、七重の垣の七つの門を、外から順に、くぐるための、順序だと、思っていた。だが、根の門で、使ったのは、第一の祈り、ただ一つ。残る六つは、では、何のための…。
(…門の順では、なかったのです)
目を、閉じる。
(**道の順**、だったのです。ディンガ。あなたの民が、守り抜いたのは、扉ではなく…帰る者を、上へ、送り届ける、道のすべて)
彼女は、第二の祈りを、唱えた。
一語も、違えず。角の丸まらぬ音で。声は、うつろの、白い喉を、静かに、昇っていき…七つの印が、根の門の時と、同じに、順に、灯った。一つ。二つ。…七つ。
円い座が…**浮いた**。
音は、なかった。震えも、なかった。ただ、足の裏から、大地が、そっと、離れた。指二本ぶんの、高さで、座は、止まり、主たちの、乗るのを、待っていた。ミラが、恐る恐る、縁に、足を、掛け、乗り、それから、床を…もう、床でないものを…見下ろして、言った。
「…ね、ねえ。これ…**落ちない?**」
「落ちる普請を」と、ガルドが、荷を、担ぎ上げながら、鼻を、鳴らした。「あいつらが、造るかよ」
一人、また一人、座に、乗った。ロウは、四つの足の裏で、浮いた白を、幾度も、確かめてから、いちばん、真ん中に、座った。ジャベは、杖を、突いて、事もなげに。ドレクは、縁から、下を、覗き込んで、すぐに、やめた。セレナは、目を、閉じて、何かに…この座に宿る、悠久の歳月の静かな何かに…小さく、頭を、垂れた。
キサーラが、最後に、乗った。
座は、それを、待っていたかのように、昇り始めた。ゆっくりと。羽のように、静かに。根の里が、見送りの、痩せた人影たちが、皿の列の小さな灯りが…眼下で、縮んでゆく。ナイラが、腕を、組んだまま、いつまでも、見上げているのが、視えた。ピムの生まれかけの唄が、届かなくなる、その間際まで、聴こえていた。
上は、白かった。ただ、白く、深く、どこまでも、続いていた。
昇りながら、キサーラは、一度だけ、下を、視た。白い喉の遥か底に、遠ざかる、小さな灯りたち。その、さらに向こう…閉じた根の門の外に広がる、灰色の大きな都のことを、なぜか、ふと、思った。理由の、ない、思いだった。彼女は、それに、名を、つけぬまま、顔を、上へ、戻した。
復命の道が、待っていた。




