第十章 嗤う面の房 九節
九節
落ち合いは、真夜中の、渠の口だった。
奇瑞と、宴の顛末とに、酔い痴れた都は、その夜、量りの目まで、酔っていた。人波を、抜けてきた四人…キサーラ、ミラ、セレナ、ジャベ…が、古い水盤の裏の石畳をくぐると、闇の底に、青い灯が、揺れて、迎えた。
「…**七つ、欠けずだ**」
と、闇の中から、ガルドの声が、言った。それだけで、地の上の四人の膝から、力が、抜けた。ミラは、その場に、しゃがみ込んで、暫く、立てなかった。
帳簿の突き合わせは、渠を、根へ、降りながら、行われた。
地の底の分…七人、生きて、取り返した。素の銀、一体、水に、押さえられて、退けた。ナイラの鱗、一枚、砕けた。四枚が、三枚。地の上の分…狩り、四半刻を、凌ぎ切った。血、一筋。帝、口を、きいた。…この、最後の一項に、地の底の組は、足を、止めた。
「**帝が**?」と、ドレクが、目を、剥いた。「出て来ねえ帝が、口を、きいたのか。…で、なんて」
「明日、量りの前へ、出よ、とさ」と、ミラが、言った。「天のものなら、丁重に。帳外のものなら…それなりに、だって」
「…そいつは、また」渡り手は、口笛を、吹きかけて、止めた。「豪儀な、招きだ」
渠の闇の、どこかで、ロウが、ぼそりと、言った。水が吼えたのも、大概、豪儀だったぜ、と。二つの盤の、あべこべの武勇伝が、暫く、行き交った。疲れ切った者たちの、低い、途切れがちの、けれど、生きて交わせる、言葉だった。
満月が、天心を、過ぎた頃…それは、来た。
先触れも、なかった。ガルドの腰の革袋の中で、ほ、と、何かの、息の絶える気配がして、杜瓦夫は、足を止め、袋を、開いた。三枚の鱗が、掌の上で、蜂蜜色の光を…**失っていった**。ゆっくりと。眠りに落ちる者の瞼のように。後には、ただの、飴色の美しい細工が、残った。ドレクの山刀の刃筋からも、あの、金の燐光の気配が、退いていた。折れぬ刃は、よく切れる、ただの刃に、還った。帳は、夜の色の、ただの布に。
「…ひと月、と、言ったろう」と、ガルドが、誰にともなく、言った。声が、僅かに、優しかった。「材が、死んだわけじゃねえ。眠っただけだ。打ち直しゃあ、また、ひと月は、目を、覚ます。…六たび分、って、勘定は、そういう勘定よ」
彼は、飴色の鱗を、太い指で、ひと撫でして、袋に、戻した。
「…ご苦労だったな」
評定は、根の戸の手前で、開かれた。
議題は、一つ。明日、量りの前へ、出るか、否か。
「出なけりゃ、都を挙げての、狩りだぜ」と、ドレクが、言った。「出りゃあ、魔王の懐だ。…どっちも、上等じゃねえな」
「…出ません」
キサーラの答えは、決まっていた。
「あの方の量りは、悪意では、ありません。ただの、手続きです。ですが、私たちの道は、あの秤の上を、通っていない。…復命が、先です。七人を、家へ。名を、届け先へ。それが、済んでいないうちは、誰の秤にも、載る訳には、参りません」
「…合わぬ帳尻を、残したまま、発つことになるがの」と、ジャベが、髭の奥で、含んだ。咎める声では、なかった。むしろ、面白がる声だった。「よいか、娘御。量る者にとってな、**帳尻の合わぬ一項ほど、眠りを蝕むものは、ないのじゃ**。お前さんは、今宵、あの白き王の帳面に、消せぬ一行を、書き込んでしもうた。房の水は、どの帳面に…あの問いは、万の民の骨身にも、書き込まれた。…逃げるのでは、ないぞ。**貸したまま、発つ**のじゃ。取り立ての日は、向こうが、忘れさせてくれぬわ」
「はい」と、キサーラは、頷いた。「いずれ、量りの前では、なく…**まことの前で**、お会いします」
根の戸は、ナイラの声で、開いた。
一語も、違えぬ、祈り。白い瞼が、開き、うつろの、仄白い光が、渠の闇に、こぼれ、その光の中へ、帳にくるまれた七人が、順に、運び込まれた。里は、起きて、待っていた。皿の番の年嵩の女が、真っ先に、駆け寄り、それから、里じゅうの、痩せた手が、七人を、囲んだ。声は、少なかった。雫の民は、歓びにも、練れていなかったのだ。ただ、触れた。肩に、頬に、手の甲に。**居る**、ということを、確かめる、幾十の手だった。
水は、糸の筋から、汲まれた。
七つの椀に、七人分。ナイラが、一つずつ、渡していった。二十年の量り手の手つきで…けれど、量らずに、なみなみと。約定の履行だった。帰ってきたら、ここの水を、飲ませる。…ピムは、椀を、両手で、抱え、一口、飲んで、泣き、泣きながら、飲み干した。それから、掠れ声で、言った。
「…おいら、新しい唄、つくるよ。…**数えない唄**」
キサーラは、少し離れて、それを、看ていた。
観るのでは、なく、看ていた。胸の内の帳面で、頁が、一枚、静かに、繰られた。七つの貸し…**回収**。残る頁には、八百と十五の名。嗤う面の房。メルカルトの選択。アズライールの三つの楔。半身への、遠い道。…そして、今宵、書き加わった、新しい一行。白き王への、貸し、一つ。
その、遥か頭上…地の上では。
第七の垣の白い房の最も高い欄干から、細い、白い光が、一筋、立ち昇っていった。満ちきった月へ、向かって、まっすぐに。報せが、昇ってゆくのだった。何の報せかは、地の底の誰にも、まだ、判らない。ただ、キサーラの額の琥珀が、それと、同じ刻に、氷を、当てられたように、冷えた。
月は、その夜を、境に…欠け始めた。




