第十章 嗤う面の房 八節
八節
帳は、半ばまでしか、開かなかった。
それで、十分だった。万の民が、白い砂もろとも、一斉に、額ずいたのだから。帳の内に、在ったのは、人の形では、なかった。…否、形は、人の王の形を、していた。玉座に、深く、坐した、大いなる、白い影。だが、それは、月光を、彫って、造った王の像のように、白く、輝き、そして、像のように、微動もしなかった。篝火の、赤い揺らめきが、その白には、一切、映らなかった。
キサーラの目だけが、視ていた。あの白を。柱の白。渠の白。根の門の白。…同じ、旧き叡智の白が、玉座の形に、坐している。額の琥珀が、深く、深く、疼いた。
声は…**都じゅうで、鳴った**。
玉座の白い影が、語り出した、その同じ刹那。前庭の壇も、市の壇も、坂の上の壇も、都の、すべての読み手の壇が、一斉に、同じ言葉を、同じ抑揚で、語り始めたのだ。万の民は、額ずいたまま、気づいてすら、いなかった。生まれた時から、聴いてきた声だからだ。だが、人垣の底のジャベの閉じた瞼の下を、冷たいものが、走った。都そのものが、この影の喉なのだった。
「…**見苦しい**」
と、その声は、言った。怒りは、なかった。量りだけが、あった。
「今宵の狩りは、七の狩り手をもって、一の獲物を、仕留めるに、四半刻を、超えて、なお、成らぬ。宣べられた次第は、破られ、順は、捨てられ、興は、乱れた。…**帳尻の合わぬ宴である**」
白い砂の上の七体の銀が、微動もしなかった。得物を、下げたまま。月の客人たちが、地上の王に、量られている…その、あべこべの図の意味するところを、量れる者は、万の民の中には、まだ、いなかった。ただ、嗤いの面だけが、面の下で、静かに、嗤っている気配が、あった。
「客人がたの、興を、削ぐは、都の本意に、あらず」と、声は、続けた。慇懃で、鉄のような、もてなしの言葉だった。「されど、都の内にて、量りの、乱れるを、帝は、容れぬ。…**狩りは、預かる**」
どよめきすら、起きなかった。起きる前に、白い影の貌のない貌が…黄金の一点へ、向いたからだ。
「…**其の方**」
万の目が、恐る恐る、上がり、額ずく人垣の中に、ただ独り、立ったままの、黄金の衣を、視た。
「門の応えし夜に、現れ、量り手の帳に、載らず、七の狩り手に、仕留められず、赤い血を、流す。…天の量りにも、月の量りにも、地の量りにも、其の方の目方は、載らぬ。**帳尻の合わぬ一項である**。…帝は、量り直しを、宣する。合わぬ帳尻を、合わぬままに、都の内を、歩かせは、せぬ」
「…恐れながら」
キサーラの声は、静かで、澄んでいて、そして、万の耳に、届いた。
「量り直しを、お受けする前に、一つだけ、教わりとう、ございます。…この都では、水の一滴も、帳面の外を、流れぬ、と、伺いました。それが、この都の誇りであり、掟である、と」
「…然り」
「では」
彼女は、まっすぐに、白い影を、視上げたまま、第七の垣の高みを…嗤う面の連なる、白い房を、指した。
「**あの房の水は、どの帳面に、載っておいでですか**」
静寂の質が、変わった。
額ずいた万の頭の、その下で、万の思案が、一斉に、同じ場所を、視たのが、判った。第七の垣の上。英傑がたの、白い御殿。…水。帳面。量り。…生まれてこの方、量られて生きてきた民だ。帳面の恐ろしさも、正しさも、骨身に、染みた民だ。その民の骨身が、いま、初めて、問いの形を、識った。**載っていない帳面が、あるのか**。
白い影は、即座には、答えなかった。
その、一拍の沈黙こそが、万の民の聴いた、いちばん、雄弁な答えだった。
「…量るのは、帝である」と、やがて、声は、言った。都じゅうの壇が、同じ言葉を、繰り返した。「量る者と、その客人とは、量りの、外に、在る。それが、量りの、成り立ちである。…秤に、秤は、載らぬ」
「…**載らぬのではなく**」
と、キサーラは、言った。静かに。けれど、一語も、譲らずに。
「**載せぬ、のでは、ありませんか**」
帳の内の白い影が、初めて…動いた。
微か、だった。坐した像の首が、ほんの僅か、傾いだ。それだけのことに、前庭の空気が、石のように、重くなった。狩人らですら、動かなかった。琥珀の奥で、遠い半身が、息を、詰めていた。量る者が、量り返された。恐らくは、数万年ぶりに。
「…面白い」
と、声は、言った。抑揚は、変わらなかった。だが、その二文字が、都じゅうの壇で、同時に、鳴った様は、笑いよりも、遥かに、恐ろしかった。
「其の方の量り直しは、宴の興には、過ぎたるものと、量る。…**明日、第一の鐘に、宮の量りの前へ、出よ**。天のものならば、丁重に。帳外のものならば…**それなりに**。…今宵は、これまで。宴は、閉じる」
白い帳が、静かに、降り始めた。
降り切る、その間際。貌のない貌が、最後に、もう一度だけ、黄金へ、向いた気が、した。そして、都じゅうの壇が、一斉に、沈黙し…夜は、ただの夜に、戻った。
後には、白い砂と、閉じた御座と、万の、ざわめき出す民と、狩りを預けられた七体の銀が、残された。孔雀の羽が、苛立たしげに、一度、震えた。薄衣は、じっ、と、黄金の獲物を、視ていた。そして、嗤いの面が、面の奥で、囁くのが、ロウがいたなら、聴こえたはずだった。
「…面白う、なった」
キサーラは、一礼して、身を、翻した。
万の民の人垣が…割れた。誰に、命じられたのでも、なかった。額ずいたままの者。恐れて、退く者。そして、幾人か、祈るように、手を、合わせる者。御使いか、帳外の異物か、誰にも、量りのつかぬ黄金が、おのれの起こした奇瑞と、おのれの落とした問いの、ざわめきの中を、まっすぐに、歩いて…人波に、呑まれて、消えた。
頭上で、月は、満ちきっていた。




