第十章 嗤う面の房 七節
七節
降りてくる銀は、名乗らなかった。
太鼓も、桟敷も、異名の巻物も、ここには、ない。あるのは、狭い螺旋と、壁越しの水の脈動と、そして、足音のない、静けさだけだった。ロウの耳が、その、静けさの、降りる速さを、量った。速い。こちらは、七人を、負っている。追いつかれるのは、勘定するまでもなかった。
「…親方」と、ロウが、走りながら、言った。「逃げ切れねえ。どっかで、受けるぞ」
「決めてらあ」と、ガルドが、応じた。息は、上がっていたが、声は、上がっていなかった。「この下の曲がりの先だ。検めの小部屋が、張り出してる。…それとな、狼。**あの青いのが、さっきから、俺の袖を、引っ張りやがる**」
青い灯は、確かに、急いていた。先導の位置を、離れ、ガルドの顔の高さで、揺れ、螺旋の壁の一所を…水の脈の、こぶのように、膨らんだ一所を、しきりに、巡っては、戻る。杜瓦夫の、識る目が、走り寄り、その膨らみを、撫でた。丸い、白い蓋。蓋の芯に、手の掛かる、環。
「…**検めの弁だ**」と、ガルドの髭が、震えた。「脈の水を、検めのために、抜く口よ。…嬢ちゃんよ、お前さん、これを、報せに来たのか」
青い灯が、一度、大きく、頷くように、沈んだ。おのれの、生まれた水の道だ。弁の在り処を、この小さき者ほど、識る者は、いない。
持ち場は、瞬く間に、決まった。
七人と、ナイラは、弁の下手、検めの小部屋の陰へ。帳にくるまれた、七つの息を、壁に、寄せる。ドレクが、曲がりの、いちばん、狭い所に、立った。天井が、低く、壁の湾曲が、きつく、長物の振れぬ場所。折れぬ山刀を、青眼に、提げて。ロウが、その、半歩後ろ。ガルドは、弁の環に、両手を、掛けた。
静けさが…曲がりを、曲がってきた。
素の銀だった。面も、羽も、薄衣も、ない。飾りの、一切を、省いた、銀の人の形。それが、いちばん、恐ろしかった。飾る者は、観られたい者だ。これは、違う。誰にも、観られる気のない、ただ、検めに来た、静けさだった。その手に、得物は、一本の細い、光の針。狭い螺旋のための、得物だった。初めから、ここで殺すための。
「…曳き出しの刻に、枡が、空でな」と、素の銀は、言った。抑揚のない声だった。「宴の興を、削ぐ。…返してもらう」
「…**生憎だな**」
ドレクの山刀が、闇で、鳴った。
針と、刃が、噛み合い、金の燐光が、散った。素の銀の針は、速く、正確で、無駄がなく…そして、狭さを、識り尽くしていた。突き。払い。壁を、蹴っての、切り返し。ドレクは、二合、三合と、受け、受けるたび、半歩ずつ、削られた。渡り手の額に、汗が、伝った。折れぬ刃は、折れない。折れないだけだ。腕の差は、刃では、埋まらない。
「右の壁っ」と、ロウが、吠え、ドレクが、伏せた。針が、頭上の壁を、擦り、狼の双爪が、その伸び切った、銀の腕に、絡んだ。止まらない。爪は、銀の肌に、傷一つ、付けられない。だが、**絡んで、重りには、なれる**。一瞬。ただの、一瞬。
その一瞬に、素の銀の左手が、動いた。
針が…**投げられた**のだ。ドレクへでも、ロウへでもなく。彼らの、肩越し。検めの小部屋の陰、帳の僅かな、めくれの奥。負われた、いちばん小さな影…数え唄のピムへ。
陰から、影が、跳んだ。
ナイラだった。量り手は、量らなかった。二十年、量り続けた女が、二度目も、量らずに、跳んだ。細い光の針が、その、胸の真ん中に、突き立ち…蜂蜜色の光が、爆ぜた。螺旋の闇が、一瞬、昼になり、針は、内から、ほどかれて、青白い粒と、散り、ナイラは、石の床に、叩きつけられて…咳き込んだ。生きて、咳き込んだ。
四枚が…三枚に、なった。
「…**今だ、開けるぞぉっ**!」
ガルドの腹の底からの、咆哮と共に、検めの弁の環が、軋みを上げて、回された。
白い蓋が、弾け飛んだ。
水が…**吼えた**。
数多の歳月、堰かれ、量られ、盗まれ続けてきた、根の水が、太い、白い、一本の腕となって、弁の口から、迸り、螺旋の上手を…素の銀を、正面から、打った。飾りのない銀の身体が、木の葉のように、浮き、曲がりの壁へ、叩きつけられ、なおも、吼え続ける水の腕に、押さえ込まれた。並の刃の通らぬ身体。だが、水は、刃では、ない。水は、ただ、重く、絶え間なく、誰のものでも、なかった。
「…降りろっ! 膝まで来るぞ、踏ん張って、降りろぉっ!」
螺旋を、水が、追いかけて、流れ落ちてきた。膝を、洗い、腿を、押す、白い流れの中を、一行は、転がるように、降った。負われた七人に、飛沫が、掛かった。帳の、めくれから、顔を、出していたピムが…数え唄の少年が…その飛沫を、割れた唇に、受けて、目を、瞠った。
「…あまい」
と、少年は、言った。それから、流れ落ちる、数え切れない水を、視上げて、痩せた顔を、くしゃくしゃにした。
「…数えきれ、ないや。…こんなの。…**数えきれない**…!」
泣き声は、水の轟きに、呑まれた。誰も、泣くなとは、言わなかった。
螺旋の底。渠へ抜ける、白い戸を、最後の一人がくぐるのを、検めて、ガルドが、内から、蓋を、閉て、識る目の読んだ、外れぬ噛み合わせに、噛ませた。水音が、断たれ、渠の乾いた闇が、一行を、包んだ。荒い息が、七つと、六つ。…欠けては、いなかった。
ナイラが、壁に、凭れたまま、掌の中の砕けた鱗の欠片を、視ていた。
「…量って、間に合う話じゃ、ないんだねえ」と、彼女は、誰にともなく、言った。「…ほんとに」
…同じ刻、地の上、白い砂の盤では。
狩りは、乱れの、極みにあった。七体の銀が、順を捨て、万の民が、囁きを捨て、どよめきは、もう、歓声の形を、していなかった。血の一筋を、袖に、黄金は、なお、立っていた。
その時。
太鼓でも、角笛でも、なかった。音は、一つも、しなかった。ただ…帝の御座の白い帳の裾が、**内から、揺れた**。
万の民が、それに、気づいたのは、狩人らが、一斉に、動きを、止めたからだった。七体の銀が、申し合わせたように、得物を、下げ、御座のほうへ、向き直っている。息のない、遊びの気配が、初めて、剥がれ落ちて。
白い帳が…開き始めた。




