第十章 嗤う面の房 六節
六節
最初のひと駆けは、薄衣の狩人のものだった。
賭けに、勝ったのだろう。幾重もの、銀の薄衣を、夜気に、遊ばせた、あの、気だるく甘い声の主が、環から、滑り出た。触れ役が、慌てて、異名を、読み上げる…**霞を纏いて千の川面に映る君**。彼女の得物は、細い、光の鞭だった。それは、鞭というより、筆に、似ていた。白い砂の上に、青い光の美しい弧を、描くための。
一の太刀は、キサーラの頬のあった場所を、薙いだ。
頬は、そこに、なかった。指二本ぶんだけ、傾いだ、金の頭が、弧の内側を、くぐっていた。二の太刀は、その、傾ぎの先を、読んで、走った。読みは、正しかった。だが、届いた時、傾ぎは、逆へ、返っていた。三の太刀…は、振られなかった。薄衣の狩人が、間合いを、切って、退いたのだ。桟敷が、どよめいた。舞のような、ひと呼吸の応酬に。
「…ふうん」と、薄衣は、言った。声から、気だるさが、一枚、剥がれていた。「妾の筆致を、二度で、憶えた」
キサーラは、答えなかった。答える代わりに、観ていた。
(…一体目。手の癖、憶えました)
彼女の身の内で、塩の果ての、あの、無数の声が、置いていった、磨かぬ原石が、回り始めていた。観る。量る。験す。誤る。正す。…人が、十年で、渡る道を、彼女は、太刀の一往復ごとに、渡った。それは、彼女の生まれつきの力では、ない。生まれつきなのは、器だけだ。器に、注がれてゆくのは、いま、この白い砂の上の一瞬、一瞬だった。
二体目が、掛かった。三体目が、続いた。順は、まだ、守られていた。見栄えの、順は。
双つの、光の斧を、車輪のように、回す巨躯…**万山を枕に微睡む雷**。その、車輪の回転の芯が、僅かに、外へ、逃げる癖。三度目の切り返しで、キサーラは、その癖の内側に、立っていた。斧は、空を、裂き、巨躯は、泳ぎ、白い砂に、銀の膝が、突いた。…万の民が、息を、呑んだ。英傑が。膝を。
「同じ手が」と、雷の巨躯が、起き上がりながら、唸った。戸惑いが、声に、滲んでいた。「…二度、通らぬ」
「二度、通ると」と、嗤いの面が、環の外から、愉しげに、言った。「…**思うて、振るからよ**」
面白がっているのは、しかし、もう、面の者、ただ一体だった。
狩りは、四半刻を、越えていた。見栄えの型なら、とうに、獲物が、砂に、伏している刻限だった。黄金の衣は、まだ、翻り続けていた。斬られず、捕えられず、そして…**一度も、斬り返さずに**。それが、いちばん、桟敷を、揺らしていた。獲物は、逃げ回っているのでは、なかった。七体の銀の太刀筋と、太刀筋の狭間の糸のような、安全な道を、正確に、選び続けているのだ。まるで、狩る側の次の手が、先に、視えているかのように。
万の目が、少しずつ、別のものを、視始めていた。
誰かが、桟敷の隅で、囁いた。…なあ。英傑さまがたは、七人、おられるのだよな。相手は、お独りだよな。…囁きは、波紋のように、静かに、広がった。
最初に、型を、破ったのは、孔雀だった。
順を、待たず、羽の鏃が、三枚、続けて、放たれた。同時に、薄衣の鞭が、雷の斧が、順を、捨てて、掛かった。悲鳴めいた、どよめきが、桟敷に、走った。**七人がかり**…万の民の目の前で、見栄えの狩りが、剥がれ落ちた瞬間だった。
その、乱れた刃の只中で。
キサーラは、初めて、血を、流した。
躱し切れぬ、鏃の一枚が、左の二の腕を、浅く、裂いたのだ。黄金の袖に、赤が、走った。桟敷の、どよめきが、一瞬、悲鳴と、祈りに、割れた。血だ。赤い血だ。御使いさまが…。…その赤は、しかし、狩人らを、酔わせた。息のない、七つの笑いが、白い砂の上で、膨れた。
そして…その、酔いの、僅かな緩みの中で。
キサーラの手は、掛かってきた、薄衣の狩人の細い手首を、取っていた。
取って、しまっていた。躱しの、流れの果ての、偶然だった。掌の下に、銀の手首が、あった。そして、彼女の目に…**視えて、しまった**。その、銀の肌の下の糸。淡く光る、幾千の糸の走りと、束と、そして、結び目。精靈の檻を、ほどいた時と、同じに。月の鏃を、ほどいた時と、同じに。…ほどける。この、結び目は、ほどける。二本の指で。狩りは、それで、終わる。七体、順に、そうすれば、二度と、誰も、狩られない。渇きが、喉の奥で、火のように…
(…水は、誰のものでもない)
一行目が、来た。
(…この命も。私の渇きのものでは、ない)
指は、結び目を、拾わなかった。手首を、突き放しただけだった。薄衣の狩人は、砂の上を、二転して、跳ね起き…立ったまま、動けずにいた。ルビーにも似た、銀の面輪の双の目が、初めて、遊びでない色を、湛えて、黄金の獲物を、視ていた。いま、何を、されなかったのか。それを、正しく、量れる程度には、彼女は、聡かった。
帝の御座の白い帳の内で、灯った白が、また一段、深く、こちらへ、傾いだのを、人波の底のジャベだけが、視ていた。
…同じ刻、地の底の螺旋では。
降りは、順調だった。七人は、帳にくるまれ、負われ、青い灯が、先導し、螺旋の半ばまで、来ていた。…ロウが、不意に、足を、止めた。振り仰いだ。螺旋の上手。来た道の遥かな高み。
「…親方」と、狼獣人は、囁いた。声が、低く、平らに、なっていた。
「どうした」
「匂いの、しねえのが…**一つ、降りてくる**」




