第二章 灰縁の卓 一節
一節
井戸の邑から戻って暫くすると、塩環都市リム・サラディアでの、キサーラを見る目が少し変わっていた。
噂は、風のように街中へ広がっていた。黄金の女が、アインの邑の怒れる井戸の主を鎮めた。それも、祓ったのでも、封じたのでもない。邑が太古の昔より忘れていた古い約定を、どこからか掘り起こし、邑人に思い出させて、井戸の主と仲直りさせたのだ、と。邑は泣いて喜び、苦かった井戸水は、今では何処の水よりも清く甘いのだ・・・と。
ミラは、その噂が、酒場や市で囁かれる度に、なぜか、自分のことのように誇らしかった。
灰縁の駆け出しめ、と侮っていた渡り手たちも、近頃は、キサーラに一目、置くようになった様に感じられる。・・・とは曰え・・・彼女の身分は、相変わらず最底辺の灰縁のままである。手柄を立てれば縁に色がつくはずが、井戸の一件は、報酬が僅かで、組合の帳面には、ほんの数行・記されたに過ぎない。
その不釣り合いな評価も、キサーラ自身にとっては、まるで意中に無いコトのようだった。
組合の片隅に、何時の間にか、ひとつの卓が出来ていた。
誰が決めたわけでもない。最初は、キサーラが独りで勝手に座っていただけの、薄暗い隅の卓であった。其処に、ミラが、当たり前のように、隣に座るようになり。井戸の一件の後は、セレナも当然のように、キサーラの向かいに腰を下ろすようになった。そして近頃では、ドレク迄もが・・・あの偏屈な銅縁の男までが・・・「たまたま通りかかった」と云うような、態とらしい顔をして、一杯やりに加わっていた。
ミラには、其れが不思議でならなかった。
ほんの幾日か前まで、四人はお互いに赤の他人であった。塩ノ原で、ばらばらに生きていた者たちであった。隊商の娘と、森の愛爾芙と、町外れの渡り手と、そして・・・素性の分からぬ黄金の女。共通するものなど、何ひとつ無かった筈なのに・・・。
其れが、今では日が暮れると、誰からともなく、この隅の卓に集まってくる。
「あなたたちは・・・」ある晩、キサーラは、ふと・・・言った。卓を囲む三人の顔を、ひとりひとり眺めながら。「私に付いて来ても、何の得もないのに。何故、此処に集まるのですか?」
ミラは、その問いに少し驚いた。そんなこと・・・これまで考えたこともなかった。
「得とか、損とか」と、ミラは笑った。「いちいち、そんなの考えて一緒に居る訳じゃないよ」
「では・・・何故?」
「うーん」ミラは、首を傾げ・・・「何となく・・・かな。あなたといると、何だか面白いから。世界が、いつもよりちょっと不思議に視えるから・・・」
セレナが、静かに微笑んだ。「わたしは、あなたから学ぶことがあるからです。精靈の、最奥を読む目を。愛爾芙の長い歳月でも、わたしは、まだあなた程には・・・」
ドレクは、ばつが悪そうに、酒杯をぐいと煽った。「俺は・・・まあ、その。あんたにゃ、借りがあるからな。それだけだ・・・」
キサーラは、その三者三様の答えを、暫く噛みしめるように、聴いていた。
彼女の金の瞳が、ほんの少し和らいだ。ミラは、その表情を、もう何度か見ていた。塩ノ原に降りたばかりの頃には、決して見せなかった、あの、人らしい、柔らかさを。
けれど・・・その温かい卓を、毎度、遠くから、警戒の目で監ている者が・・・ひとり居た。
狼獣人の、ロウであった。
ロウは、隊商が解散したあとも、なぜか、この街を去らなかった。塩ノ原の護衛として名の通った腕利きが、割の良い隊商の口を、いくつも蹴って、この、何の縁もないはずの街に居続けていた。そして、組合の最も遠い隅から、毎度もキサーラの居る卓の方を、じっと、見張っていた。
ある晩、ミラが酒を運んでいると、そのロウに呼び止められた。
「おい、隊商の娘」ロウの獣の目が、卓のキサーラを見据えていた。「お前、あの黄金の女と近過ぎる。止めておけ」
「なんで?」ミラは、むっとして言い返した。「キサーラは、いい人よ。ドレクさんの命も、井戸の邑も、助けたんだから」
「『いい人』か・・・」ロウは、低く唸った。その鼻が、かすかにひくついた。狼獣人の、人より遥かに鋭い嗅覚が、何かを嗅ぎ取っているようであった。「俺の鼻は、誤魔化せねえ。いいか、娘。あの女からは・・・人の匂いがしねえんだ」
ミラの背筋が、ひやりとした。
「最初に、塩ノ原で会ったときからそうだった・・・」ロウは、続けた。「血の匂い、汗の匂い、生き物が必ず持ってる、あの匂いが、あの女にはねえ。代わりに、何か別の・・・俺の知らねえ、古くて、冷たい、異質な匂いがする。月のモノとも違う。魔のモノとも違う。だが・・・人じゃねえ」
ミラは、何も言い返せなかった。
言われてみれば・・・キサーラが、眠っているところを、誰も見たことがなかった。物を食べているところも、ほとんど見たことがなかった。塩ノ原に幾刻も伏していたのに、渇きも、傷も、全く無かった。あの温かい手も、考えてみれば、生き物の温かさとは、どこか違う温かさだったかもしれない。
けれど・・・。
「・・・それでも」と、ミラは、漸く言った。「キサーラは、ドレクさんを助けた。井戸の主を消さなかった。人かどうかなんて、わたしには判らない。でも・・・優しいかどうかは分かる。あの人は優しい」
ロウは、暫くミラを見ていた。それから、フンッと鼻を鳴らして目を逸らした。
「・・・勝手にしろ」
ミラは、釈然としないまま卓へ戻った。
けれど、ひとつ、気になることがある。
もし、ロウが、本気でキサーラを危険だと思っているのなら・・・なぜ、この街を去らないのか。なぜ、態々割の良い仕事を捨ててまで、彼女のそばに居続けるのか。危険なものから、人は遠ざかるものではないのか?
ミラには、ロウという男が、キサーラを警戒しつつも、同時に、彼女から目を離せずにいるように見えた。まるで、自分の中の獣の勘が、「あの女は危険だ」と告げると同時に、「だが、敵ではない」とも、告げており、その二つの声に引き裂かれているかのように思えた・・・。
そしてもう一人、この卓を別の目で見ている者がいた。
杜瓦夫のガルドである。
前回の隊商の荷車職人にして、遺物の鑑定を生業とするガルドは、卓には加わらず、少し離れた席で、いつも何か古い器物を弄っていた。けれど、ミラは気付いていた。ガルドの職人らしい鋭い目が、時折チラッ・チラッと・・・キサーラの額の琥珀を、観ていることに。
あの石が何なのか。どこの、何という鉱石の、どういう細工なのか。ガルドの鑑定眼を以ってしても、それは、まるで見極めらないものだった。見極められぬからこそ、気になって仕方がない・・・ようであった。職人とは、解らぬものを前にすると、骨の髄まで、落ち着かなくなる因果な生き物なのかも知れない。
その夜組合を出ると、街の空気が、いつもと少し違っていた。
大通りの辻に、白銀の衣の者たちが立っていた。月神殿の使徒たち・・・。彼らは、道ゆく人々を、ひとりひとり検めるように監ていた。何かを探していた。誰かを探していた。
ミラは、思わずキサーラの袖を引く。
キサーラは、その白銀の使徒たちを、ほんの一瞬・・・見た。その金の瞳の奥が、ふと・・・静かに張りつめた。けれど、彼女は何も言わず、ただいつもの歩みで、その辻を通り過ぎた。使徒たちは、黄金の女には目もくれなかった。少なくとも、その時は。
ミラは、知らなかった。
その使徒たちが探していたモノが、太古の昔より月神殿が封じてきた、ある遺跡の封印を破った、何者かであることを。そして、その何者かが、今、自分のすぐ隣を、黄金の衣を夜風に靡かせて静かに歩いているというコトを。




