第二章 灰縁の卓 二節
二節
ロウは、自分でも何故この街にいるのか、分からなかった。
狼の血を引く狼獣人として、ロウは、塩ノ原で名の通った護衛であった。割の良い隊商護衛の口なら、幾らでも有った。なのに彼は、其れらを一蹴して、この、何の縁もないリム・サラディアに居続けている。それも、もう幾日になるか・・・。
理由は、ただひとつ。
あの、黄金の女である。
ロウの鼻は、嘘をつかない。狼獣人の鼻は、人の言葉よりずっと正直だ。塩ノ原で初めてあの女を拾い上げたとき、ロウの鼻は、すぐに異変を嗅ぎ取った。あの女には〈匂い〉がない。血の匂い、汗の匂い、生き物が、生きているだけで放つ、あの、温かく、生臭い〈匂い〉が、まるで無いのだ。代わりにあるのは、何か古くて冷たくて、ロウの知る如何なる生き物とも違う・・・遠い星の底のような、匂いだった。
そういう手合いを、ロウは、これまでひとつだけ知っていた。
危険なもの・・・だ。
獣の世界に、長く居れば分かる。匂いの薄いものは、大抵マトモじゃない。だから、ロウの本能は明瞭に告げていた。あの女から、離れろ。あれは危ない。
ところが・・・同じ本能が、もうひとつ、別のことを告げる。
あれは敵ではない・・・と。
この相反するふたつの声が、ロウの中に解決し難い葛藤を齎していた。危険だ離れろ!だが・・・敵ではない・・・覧ていろ。引き裂かれたロウは動けなかった。遠ざかることも、近づくこともできず、ただ組合のいちばん遠い隅から、あの黄金の女の居る卓を、見張り続けるしかなかった。
その膠着を破ったのは、月神殿の使徒たちだった。
その日、白銀の衣の一団が、組合に踏み込んできた。
彼らは丁寧だった。声を荒げもしなかった。だが、その丁寧さの裏に、有無を言わさぬ圧があった。月の権威。地上の誰も逆らえぬ、天の名代。組合中の渡り手が、酒杯を置いて口を噤んだ。あのヴェスナ婆さんですら、受付の卓の奥で、息を潜めた。
使徒の長らしき者が、よく通る声で、告げた。
「東の窪地の古き遺跡。月神殿が、幾星霜にも亙り、封じて参りし禁域。その封印が・・・何者かに因って破られた」
組合がざわついた。
「我らは、その咎人を探しておる・・・」使徒は続けた。「あの地に何が有るか、知る者は居らぬ。知ってはならぬ。月の御心が、封じられたモノを暴く者は、〈月〉への明白なる叛逆。心当たりのある者は申し出よ。咎人を引き渡す者には・・・相応の褒美を。匿う者には・・・相応の報いを」
ロウは、その言葉を隅で聞いていた。
そして、彼の頭の中で、幾つかのパーツが、ひとりでに繋がっていった。
東の遺跡。彼処は、月神殿の封印で誰も近寄らぬ場所だ。腕利きの渡り手が、三人帰ってこなかった・・・呪われた地だ。なのに・・・幾日か前、あの偏屈なドレクが、黄金の女を連れて東へ向かった。そして、戻ってきたドレクは、人が変わったように別人になっていた。流していた悪評を、自分で打ち消して回るような殊勝な男に。
あの東行きで、何かがあったのだ。
そして、封印を紙一枚ほどにも意に介さず、すり抜けられる者がいるとすれば・・・この街に、ただひとり。精靈を物のように解き、狂った遺跡の番人すら鎮めるであろう、あの匂いの無い女しか・・・居ない。
咎人は・・・キサーラだ。
ロウは・・・確信した。
そして・・・思った。これは、好機だ・・・と。
あの危険な女を、月神殿に突き出せばいい。そうすれば、この引き裂かれるような膠着は、終わる。街は安全になる。ロウの警戒は、正しかったと証明される。御負けに褒美まで貰える。本能の言う通り、危険なモノは牙を剥く前に片づける。それが、獣の生き延びる道理だ。
立ち上がり掛けて・・・ロウは、動けなかった。
またしても、あの、もうひとつの声が、彼を引き止めた。
敵ではない。
ロウは、奥歯を噛んだ。なぜだ。なぜ、動けねえ。あれは、匂いのない、得体の知れねぇ危険なモノだ。なのに、なぜ、俺の中の何かが『あれを売るな』と、叫ぶ?
その時、ロウの脳裏に幾つかの光景が過った。
塩ノ原で、塩に呑まれ掛けたミラを、考えるより先に庇った、あの女の背中。井戸の邑で、消せた筈の精靈を、消さずに、邑人と仲直りさせた話。そして・・・あの、自分を陥れようとしたドレクを、其れと知りながら、命がけで助け、人が変わる程の恥を彼に教えた・・・その行い。
匂いのない、人ならぬ女が。
ロウの知る、どんな〈人〉よりも人らしいことを・・・していた。
ロウは、獣だ。獣には、難しい理屈は、わかんねぇ。だが、ひとつだけ、わかることがある。誰が、本当に牙を持っているか。誰が、群れを傷つけるか。それを嗅ぎ分けて、ロウは生きてきた。そして、ロウの鼻も、勘も、骨も・・・あの女が、群れを傷つける者ではないと告げていた。むしろ、傷ついた者に手を差し伸べる側の者だと。
使徒の一人が、ロウの前に、立った。
「そこの・・・狼の。お前は、腕利きの渡り手と見た」使徒の冷たい目が、ロウを覗き込んだ。「東の遺跡に詳しい者は、お前たちの如き者であろう。何か、知っているのではないか。封印を破った者に、心当たりは」
組合中の視線が、ロウに集まった。
ロウの口の中が、乾いた。此処で『知っている』・・・と言えば、全ては終わる。あの女は、月神殿に引き渡され、ロウは、褒美と安全を手にする。本能の命じる通りに。
ロウは、使徒の目を真っ直ぐに見返した。
そして、唸るように言った。
「・・・知らねぇ」
使徒は、暫くロウを察ていた。狼獣人の目の奥を、探るように。だが、ロウの目には、嘘の揺らぎが無かった。なぜなら、その時のロウは・・・嘘を、ついている気がしなかったからだ。
「そうか・・・」使徒はフィ・・・と、目を反らした。「もし、思い出したら神殿へ来い。褒美は惜しまぬ」
白銀の一団は、やがて、組合を去っていった。
ロウは、隅の席に、深く沈み込んだ。
なぜ、売らなかった。ロウは、自分に問うた。答えは、出なかった。ただ、売らなかったと云う、その事実だけが、其処に、在った。本能に背いた。生まれて初めて、危険なモノを、危険と知りつつ、見逃した。いや・・・見逃したのでは・・・ない。
守った・・・のだ。
その言葉に、ロウ自身がいちばん驚いた。
その夜、組合を出ようとしたロウを、声が呼び止めた。
「ロウ」
黄金の女が立っていた。いつもの、匂いのない希薄な気配で。ロウの鋭い耳は、彼女が近づく足音すら殆ど拾えなかった。それは、いつもなら、ロウをゾッとさせる人ならぬ証。
だが、今夜は、なぜかぞっとしなかった。
「昼の使徒の件」と、キサーラは静かに言った。「あなたが、何と答えたか聞きました」
ロウは、ぶっきらぼうに目をそらした。「・・・勘違いすんな。お前の為じゃねぇ。彼奴ら、月神殿の連中の高飛車な面が気に入らなかった・・・それだけだ」
キサーラは、その嘘を咎めなかった。ただ、ほんの少し莞ったようであった。
「あなたは」と、彼女は言った。「私のことを、人ではない・・・と。匂いがしない・・・と。そう思っているでしょう」
ロウの肩がこわばった。
「ええ」と、キサーラは、ロウが何も言わぬうちに続けた。「その鼻は・・・正しい。あなたは、何も間違っていません」
ロウは、息を呑んだ。否定しなかった。この女は、否定しなかった。
「ですが」と、キサーラは、ロウの目を真っ直ぐに見た。その金色の瞳に、咎めも、恐れも、無かった。「人ではないものが、群れを傷つけるとは・・・限らない。・・・あなたの、もうひとつの勘も・・・正しいのです・・・ロウ」
そして、彼女はそれ以上は何も言わず、踵を返して、夜の街へ消えていった。
ロウは、その場に立ち尽くした。
引き裂かれていた、ふたつの声が・・・今夜、初めて、ひとつになろうとしていた。危険だ。だが、敵ではない。そのふたつは、矛盾ではなかったのだと、ロウは、漸く悟りかけていた。
人ではない。だが、敵ではない。
ロウは、ふん・・・と、鼻を鳴らした。
そして、その夜は、初めて、組合の隅ではなく・・・あの、黄金の女のいる卓の、すぐ近くの席で眠った。




