第二章 灰縁の卓 三節
三節
ロウが、卓のすぐ近くで眠ったその夜、キサーラの姿は、ひとり宿の屋根の上に在った・・・座っていた。
ロウに、正体を半ば見抜かれた。匂いがしない、人ではない・・・と。キサーラは、其れを、否定しなかった。彼の鼻は正しい・・・と、ありの儘に認めた。
認めることに、逡巡いたはなかった。動じることもなかった。其れは、隠しおおせる筈の秘密を暴かれた者の、あの、胸の早鐘の鼓動とは、無縁であった。彼女にとって、自分が人ではないというのは、只の事実であった。空が高く、塩が白いのと同じ、只の事実。事実を認めることに、心が乱れる理由は・・・何も無かった。
彼女が、静かに不思議に思ったのは、別のコトであった。
ロウは、彼女を人ならぬものと見抜いた。それで尚、月神殿に売らなかった。そればかりか、卓の近くで眠った。人ではないと知って、なお、傍に居るコトを選んだ。
ミラは、優しいかどうかは、わかる・・・と言った。セレナは、どんな精靈読みより優しかった・・・と言った。そして今、ロウは、人ではないモノが群れを傷つけるとは限らない、と云う、彼自身の勘を・・・信じた。
地上の者たちは、彼女が何であるかではなく、彼女が何をするかを察ていた。
これは、観察に降りる前には、予期しなかったコトであった。彼女は、自分を、地上にとっての異物だと思っていた。隠れ、紛れ、観るだけの、影の様な分体。なのに、地上の者たちは、その異物を異物のまま、受け入れ始めていた。
その事実を、報告せねばならぬ、と、キサーラは思った。
彼女は、額の琥珀を、灯した。
夜の街の音が、薄い膜の向こうへ遠のいた。そして、その静寂の奥から・・・あの、光無き深みの彼方から、遠い半身の気配が、糸の如く手繰り寄せられてきた。
彼女をこの地へ送り出した、もうひとりの自分。
キサーラは、報告を始めた。
井戸の主のこと。忘れられた約定のこと。消せたものを、消さなかったこと。狼獣人のロウが、自分を人ならぬと見抜き、なお、売らなかったこと。事実を、ひとつずつ告げていった。
けれど、告げる内に彼女自身は気づいた。その報告は、もう事実の羅列ではなくなっていた。井戸の主の忘れられることの悲しみ。邑の老女が、漸く思い出した歌を、震える声で歌い返した・・・あの瞬間。ロウが、卓の近くで眠ったときの、あの、不器用な気配。そうしたものが、報告の言葉の隙間から滲み出していた。
彼女の中に、いつのまにか芽生えていた、あの、名づけえぬ温かいモノが。
遠い半身は、それを咎めなかった。
咎める、ということをしなかった。「観察に徹せよ」とも、「情を移すな」とも、言わなかった。なぜなら・・・遠い半身は、それを、既に許していたから・・・。地上の者たちに心を寄せることを。人ならぬ身で、人の如く振る舞うことを。
遠い半身が、なぜそれを許すのか。キサーラは、朧げに知っていた。
遠い半身もまた、且つては・・・気の遠くなる程の昔、まだ肉体という依代を持っていた頃には・・・そうした温かいモノを、携えていたのである。今の地上の者たちと同様に。だから咎めなかった。咎める資格がないことを、遠い半身は根底の部分で識っていた。
・・・けれど。
咎めない、其の代わりに・・・遠い半身は、困惑していた。
キサーラには、其れが伝わってきた。光なき深みの底から、たどたどしく、途切れがちに、ひとつの問いが届いた。
『それは・・・何か』
遠い半身は、キサーラの報告の隙間から滲み出る、その温かいモノを、理解しようとして・・・掴めずにいた。
あまりに、長い時を、ひとりで、過ごしすぎた。光もなく、音もなく、肉体もなく。そうして在り続けるうちに、遠い半身は、感情というモノを表現する方法を、殆ど、彼岸の彼方へ置き去ってきてしまったのだ。且つて確かに持っていた筈のソレを、遠い記憶の淵で、探そうとして・・・見つけられずに・・・いた。
『お前が、今、語っているモノ』と、遠い半身は、もう一度問うた。その声には、責める色も、命じる色もなかった。ただ、深い、深い、困惑だけがあった。『それは、わたしも、且つて、持っていたものか。それとも・・・新しく、生まれたものか。わたしには、もう・・・その名が、思い出せぬ』
キサーラは、答えようとして・・・答えられなかった。
なぜなら、彼女もまた、其れに、名を、与えられずにいたからである。塩ノ原でミラの手に触れて以来、遺跡でドレクの恥に触れ、井戸で約定の安らぎに触れ・・・そうして育ってきた、この温かいものを、彼女は、まだ、何と呼べばよいのか、知らなかった。
「わかりません」と、キサーラは、正直に言った。「私にも、まだ、名がわからないのです。けれど・・・」
彼女は、少し、考えてから続けた。
「それは、あなたが、忘れたものでもあり、私が、新しく見つけたものでも、あるように、思います。同じ、ひとつのもの。あなたが、深淵の彼方に置いてきて、私が、この地で、拾った。そういうモノのように」
遠い半身は、暫し沈黙した。
その沈黙は、長かった。光なき深みの底で、何か、遠い記憶の地層を、探っている様な沈黙であった。やがて、遠い半身は、只、ひとこと、こう言葉を紡いだ。
『・・・そうか』
それだけ・・・
理解した・・・とは、言わなかった。理解できなかった・・・とも、言わなかった。ただ、『そうか』と。感情の名を忘れた古い知性が、その忘れたものの輪郭を、遠くから、なぞろうとして・・・なぞりきれずに、それでも、何かを受け取った。その『そうか』であった。
額の琥珀の灯りが、静かに鎮まった。同期は終わった。
夜の街の音が、戻ってきた。卓の近くで眠るロウの低い寝息。どこかの宿で寝ているはずの、ミラの気配。セレナのドレクの。地上の生きた者たちの、温かい雑多な気配が、彼女を取り巻いていた。
キサーラは、その温度のただ中に居た。
そして、遠い半身は・・・あの、光なき深みに、ひとり・・・居た。感情の名を忘れ、それでも、地上の枝が運んでくる、僅かな温もりの便りを、困惑つつも受け取り続けている。咎めもせず、只、遥か遠い星々の迫間から。
キサーラは、初めて、その遠い半身を・・・且つての自分であり、今の自分の根である、その古い存在を、寂しいと・・・思った。
いや、寂しいというのも、正しくないのかもしれない。彼女が感じたのは、もっと静かな、もっと優しいモノであった。
いつか・・・と、キサーラは思った。いつか、この地で拾った温かいモノに、ちゃんとした名を与えられたら。そのときは、それを、報告の事実としてではなく・・・あの、深みの底で、感情の名を忘れかけている、遠い半身にも、分けてやれたら・・・と。
其れが、成しうることのなのか、否か、彼女には分からなかった。
けれど、そう思えたこと自体が、塩ノ原に降りた夜の彼女には、決して出来なかったことであった。
皨が、出ていた。
其の下で、キサーラは人ならぬ身のまま、人の街の温度に包まれて、暫く静かに座っていた。




