第一章 塩ノ原 七節
七節
嘘を撒くのは、容易い。・・・しかし、拾い集めるのは、骨が折れる。
ドレクは、それを、身を以て実感した。
遺跡から戻った翌日から、彼は、酒場という酒場を廻り始めた。あの黄金の女について、自分が言いふらした、月の諜だの、魔の主の手先だのと云う、下らぬ悪評を、一軒ずつ、取り消して行く為であった。
ところが・・・これが、望外に難しい。
「いや、あれは、俺の見間違いでな」と、ドレクは、なるべくさりげなく切り出す。「あの黄金の女は、まっとうな渡り手だった。むしろ、腕は確かでな・・・」
「なんだドレク、急に手のひらを返しやがって」と、酒場の常連は、にやにやと笑う。「さては、惚れたか・・・ぇえ?」
「ち、違う・・・」ドレクは、耳まで赤くなる。「そうじゃねえ。ただ、俺が言い過ぎた。それだけだ・・・」
言いすぎた、と、自分の非を認めるのは、ドレクにとって、塩ノ原を渡るよりも、余程勇気の要ることであった。けれど彼は、それを、一軒、また一軒と、繰り返した。途中で何度も、馬鹿馬鹿しくなって、止めたくなった。誰も、本気には聞いていなかった。彼の言葉など、軽いものであった・・・。撒いた時以上に、拾う時は軽く扱われた。
それでも、ドレクは止めなかった。
誰の為でもない。あの、遺跡の床で、咎めぬ目に見られた時の、あの恥を、少しでも軽くしたかった。其れだけのコトであった。
四軒目の酒場で、彼は、ミラに出くわした。
隊商の娘は、キサーラと並んで、隅の卓で、何か食べていた。ドレクは、バツが悪くて、回れ右をし掛けた。・・・けれど、ミラの方が、先に気づいて、手を振ってきた。
「ドレクさん!」
逃げそびれて、ドレクは引き攣った笑顔で、おずおずと卓に近づいた。キサーラが、彼を見上げて、ほんの少し目元を和らげた・・・気がした。咎めの色は、やはり其処にはなかった。
「あの・・・」と、ドレクは、立ったまま、モゴモゴと切り出した。「立てた噂のことは、今、消して回ってる。時間は、掛かるだろうが・・・済まなかった」
「知っています」と、キサーラは言った。「三軒の酒場の主が、もう、あなたのコトを話していました。『あの偏屈なドレクが、頭を下げて回っている』と・・・」
ドレクは、また赤くなった。〈偏屈〉は、余計だ・・・と思ったが・・・口に出せるほど面の皮は厚くはなかった。
ミラが、くすくす笑って、向かいの席をポンと叩いた。「座ったら? ドレクさん。ちょうど、キサーラに、塩ノ原の歩き方を教えてたトコ。でも、わたしじゃ、渡り手のことは、よく分からなくて」
ドレクは迷った。それから、怖々と椅子を引いて、腰を下ろした。密かに溜め息が漏れる。
「・・・渡り手のコトなら」と、彼は、ぽつりと言った。「俺の方が、少しは、分かる・・・」
それから、ドレクは、語った。塩ノ原のどこに、いつ、霧が立ち易いか。狂精靈の巣を、どう見分けるか。組合のヴェスナ婆さんに、どんな仕事を、どんな顔で持ちかければ、割の良い口を回して貰えるか。死なない為の地を這う者の知恵。六年懸けて、命を削って、彼が貯めこんだ、唯一の財産であった。
キサーラは、それを、熱心に聞いた。あの、底知れぬ力を持つ女が、下から数えたほうが速い銅縁の男の、細やかな知恵に、真剣に耳を傾けた。問い、頷き、覚え込んだ。
ドレクは、不思議な心持ちだった。
昨日まで、彼は、この女に、ただ施される一方の惨めな存在だった。命を救われ、妹の身を案じられ、卑しさを見抜かれ・・・何ひとつ返せなかった。けれど、今、彼はこの女に、彼にしか教えられぬモノを、教えている。与える側に回っている。
たったそれだけのことが、六年地を這いつくばってってきた男の、萎れた誇りを、ほんの少し立て直した。
別れ際、キサーラは、ドレクに告げた。
「ドレク。もし、宜しければ・・・」彼女は、少し、言葉を選ぶように・・・「妹さんの、煎じ薬のことですが。森の精靈読みのセレナという者が、私の連れにいます。愛爾芙の薬草の知恵は、月神殿の薬師より、ずっと安く、ずっとよく効くモノがあると、聞きました。一度、診てもらっては如何でしょう?」
それは、施しではなかった。金銭援助でも、奇跡の御業でもなく、ただ、ドレクが知らなかった、一つの道を教えただけ・・・。後は、ドレク自身が、選択し前進するしかない。
ドレクは、その心遣いの、絶妙な軽さに、また、目の奥が熱くなりかけて、狼狽てて、誤魔化すかのように、鼻を啜った。
「・・・恩に・・・着る・・・」と、彼は、それだけ、言った。
その晩、ドレクは、寝床のリナに、その話をした。
「兄さん、何だか」と、リナは、薬を飲みながら、微笑んだ。「最近、顔つきが変わったね」
「そうか?」
「うん。前は、いつも、何かに追われてるみたいだった。でも、今は、ちょっとだけ・・・楽しそう」
ドレクは答えなかった。ただ、妹の薄い肩に、毛布を、かけ直してやった。
追われていたのは、その通りだ・・・と彼は思った。貧しさに、無力に、妬みに。そして、いちばん追われていたのは、多分、自分自身から・・・。あの黄金の女に、卑しさごと見られて、初めて、彼は、立ち止まることができた。
窓の外に、欠けた月が出ていた。
ドレクは、ふと、街の噂を思い出した。ここ数日、月神殿の様子が、奇怪しい、と云うのである。白銀の衣の使徒どもが、遽に、街のあちこちを嗅ぎ回っている。・・・何やら、探しているらしい。東の遺跡の封印が、破られたとか、破られていないとか・・・そんな、不穏な囁きが、酒場の隅で、ちらほらと立ち始めていた・・・。
ドレクは、その噂のことを、キサーラに、伝えるべきだろうか・・・と、少し迷った。
あの女が、東の遺跡の封印を、すり抜けて入ったことを、ドレクは知っている。もし、月神殿がそれを探しているのなら・・・。
けれど、その夜は、まだ、ドレクは何も言わなかった。
ただ、欠けた月を、いつもより、少しだけ長く見上げていただけだった・・・。
最も速く最も確実な、解決であった。
けれど・・・それは、井戸の主を、消す・・・と云うコトである。
破られた約定を、幾星霜、辛抱強く覚えていた、その記憶と一緒に・・・。邑が生まれた日から、人々の喉を潤してきた、その存在と一緒に・・。苦さを取り除くために、苦さを以て訴えていた者を・・・消す?それは壊れた絡繰りの修繕なのか。それとも・・・生きた命を奪うこと・・・なのか。
キサーラは、その問いの前で立ち尽くした。
彼女に託された務めは観察・・・だった。基本的には手を出すべきではなかった。出すとしても、最も合理的な手段・・・すなわち、消去・・・を、選ぶべきだったかも知れない。状況の異常を除去する。ただ、それだけのことではないか。遠い半身なら、迷わずそうしただろうか?凍てついた深遠に、迷いはないのか?
キサーラの中には、今、明らかに迷いが芽生えていた。塩ノ原でミラの手の温かさに触れ、遺跡でドレクの恥に触れ・・・そうして、いつの間にか、彼女の中に育っていた、あの、名づけぬモノが。
彼女は、消さない道を、選んだ。
「セレナ」と、キサーラは、愛爾芙の精靈読みを、呼んだ。「あなたの祈りが、要ります。私には、精靈の記憶を、読むことはできる。けれど、邑人の言葉を、精靈に届けることは、あなたの方が、ずっと、上手い・・・」
セレナの目が、見開かれた。「わたしの・・・?」
「私が、忘れられた約定を、読み解きます」とキサーラは言った。「あなたが、それを、..八節
その依頼は、組合の板の一番隅の奥の方に、ひっそりと掛かっていた。
曰く・・・東のアインの邑。古井戸の主が怒り、水が苦くなった。原因を調べてほしい。報酬は・・・雀の涙程。
割の良い依頼ではない。狂精靈の討伐でもなければ、古代遺物の探索でもない。ヴェスナは、キサーラがその依頼板を手に取ったとき、片眉を上げた。「灰縁にしては、地味な選択だね。・・・まあいい。邑の水ってのは、命に直結する。誰かが行かにゃあ・・・ならん」
キサーラが、なぜその依頼を選んだのか、彼女自身、最初は、うまく言語化出来なかった。
ただ・・・「井戸の主が、怒っている」という一文が、彼女の中の何かの琴線に、触れたのである。〈怒っている〉。壊れているのでも、暴れているのでもなく。〈怒っている〉、と、その依頼書には書いてあった。
アインの邑までの行程は、塩ノ原を半日。
ミラが、いつの間にか当然の様に付いて来た。そして、愛爾芙の精靈読みセレナも、今度は、自分から同行を申し出た。
「井戸の精靈なら」と、セレナは、その碧い目を、僅かに伏せて言った。「わたしの領分です。精靈の声を、聴くのは。・・・あなたが、どうやって聴くのかは、わたしには、まだ分かりませんが・・・」
その言葉に、咎める響きはなかった。ただ、塩ノ原で霧を解くキサーラを見て以来、セレナがずっと抱えている、畏れと、好奇心とが、そこには、滲んでいた。
・・・・・・・・・・・・
アインの邑は、小さな湧水の周りに、肩を寄せ合うように、家々が建っている・・・そんな小集落だった。
邑の真ん中に、件の井戸はあった。石を積んだ、古い、古い井戸であった。邑人たちは、その縁に、供物を並べていた。塩。乾いた花。粗末な織物。そして、地に膝をついて、祈っている・・・「許してください、井の主さま」「何が、お気に召さなかったのか。どうか、お教えください」「水を、お返しください」
けれど、井戸の水は、苦いままであった。
キサーラは、その光景を観ていた。
観察するコトを、遠い半身は望んだ。これは、観察すべき対象・・・。ひとつの井戸。ひとつの精靈。ひとつの、小さな邑の小さな災い。報告に書くなら、数行で終わる。
けれど、膝をついて懸命に祈る老婆の、その背中を視たとき、キサーラの中で、その数行が、書けなくなった。
セレナが、井戸の縁に、手を当てた。そして、目を閉じ、古い愛爾芙の言葉で、精靈に呼びかけた。歌のような、祈りのような、長い、長い、呼び掛けであった。
暫くして、セレナは、目を開いた。その額には、少なからぬ量の汗が、滲んでいた。
「・・・怒っています」と、セレナは言った。「いえ・・・怒っている、というより。悲しんでいる。何かを・・・ずっと、待っている。けれど・・・それが、何なのか。わたしには、どうしても・・・解らない。精靈の言葉が古過ぎて。まるで古代の神々の、忘れられた言葉の様で・・・」
キサーラは、井戸に歩み寄った。
そして、セレナがした様に手を当てるのではなく・・・ただ、その水面を、じっと、覗き込んだ。
彼女の目には、邑人にもセレナにも視えぬものが、観えていた。
苦い水の底に、縺れた糸が沈んでいる。井戸の主の命の糸。太古の昔より、この邑が生まれてから、この井戸は邑と伴にあった、古い古い言靈で出来上がった糸の絡まり。そして、その絡まりの、最も深いところに・・・ひとつ、固く結ばれたまま、解けずにいる、結び目があった。
約定の結び目であった。
キサーラは、額の琥珀を、ごく淡く、灯した。そして、その結び目を、読んだ。消す為ではなく・・・徒、読むために。
すると、彼女の中に、声ではない聲が、流れ込んできた。
遠い遠い昔。この邑に、まだ、数えるほどの家しかなかった頃。邑人たちは、この井戸の主と、ひとつの約定を、交わしていた。毎年、最初に涌いた水を一杯、必ず井戸に返すこと。涸らさぬよう、汲みすぎぬこと。そして・・・秋の終わりに、井戸の縁で、ひとつの古い歌を、歌うこと。その歌を絶やさぬこと。
邑人たちは、その見返りに、清い水を得ていた。
けれど、年月が流れた。邑は大きくなり、人は入れ替わり、井戸の水は、当たり前のものになった。最初の水を返す因習いは、いつしか廃れた。秋の歌を、覚えている者は、もう邑には、一人もいなかった。
約定は、忘れられた。
井戸の主だけが、幾星霜の辛抱で、其れを、覚えていた。破られた約定を、ずっと、ずっと、待っていた、待ち侘びていた。そして、待ちきれずに、ついに・・・水を苦くした。罰として・・・ではない。
それは、気づいて貰うための訴えであった。「わたしを、忘れたのですか」という、声にならぬ悲しみの聲・・・
キサーラは、井戸から顔を上げた。
そして、彼女は岐路に立った。
解けば、一瞬で済む。この、縺れた命の糸を、あの遺跡の番人にしたように、解いてしまえば、井戸の主は消え、苦さも消え、水はたちまち清くなる。邑人は、奇跡だと喜ぶだろう。それが、精靈に伝える。そして、邑人に、約定を思い出させる。・・・井戸の主は、消されることを望んではいない。ただ、思い出して欲しいのです」
それから、半日が、掛かった。
キサーラは、井戸の主の記憶の糸から、忘れられた約定のカタチを、丁寧に、ひとつひとつ読み解いた。最初の水を返す習い。汲みすぎぬ戒め。そして・・・失われし秋の唄。その節回しまで、彼女は、井戸の主の遠くか細い糸の奥から掬い上げた。
セレナは、其れを愛爾芙の祈りに乗せて、井戸の主に伝えた。「邑は、あなたを忘れていました。けれど、思い出しました。どうかお許しを」・・・と。
そして、邑人たちは。
最初は、半信半疑であった。そんな約定など誰も知らぬ、と。けれど、邑でいちばん年老いた女が・・・祈っていた、あの老婆が・・・震える声で、言った。「そう云えば・・・儂が、まだ・・・幼い頃。婆っさまが、秋には、井戸の縁で、何か唄うとった。よう・・・意味の判らん古い唄を。あれは・・・あれは、此れだったんか・・・」
キサーラが読み解き、セレナが伝える・・・その失われた秋の唄を、老婆は聴き・・・そして、嗄れた声で、たどたどしく、それを唄い返した。悠久の時を超え、井戸の縁で、その唄が再び響いた。
井戸の水が、震えた?・・・音でも振動でもない〈何か〉が周囲に炸ける・・・。
・・・汲み上げた水の苦さが、消えていた。井戸底の方から、甘く清い水が、静かに滾々と湧き上がってきた。井戸の主の、縺れた命の糸が・・・消えるのではなく、解けて安らいだ。長い・・・長い辛抱の果てに、漸く、思い出して貰えた・・・その精靈の安堵が、清き水となって溢れ出した。
邑人たちは、泣いて、喜んだ。
そして、約定を結び直した。これからは、毎年、最初の水を返す。秋には、唄を唄う。井の主を、二度と、忘れない、と。
その夜、キサーラは、邑の外れで、ひとり、皨を見上げていた。
額の琥珀は、灯っていなかった。彼女は、遠い半身に、報告を、送らなかった。送れなかった、と言うべきかもしれない。「土着精靈の心の悩みを、解消した」・・・そう記せば報告は済む。けれど、今日、彼女が見たものは、何ら異常などではないから・・・。でも、其れを半身にどう伝えるか・・・どう理解を求めるか・・・悩ましい問題だった。
忘れられることの・・・悲しみ。想い出されることの、安らぎ。それを、気の遠くなるほどの歳月、辛抱強く待っていた、健気な精靈・・・ひとつの、連綿とした記憶。
キサーラは、ふと、思った。
あの井戸の主と、自分とは・・・どこが、違うのだろう。
肉体を持たず、ただ、記憶と反応のうちに在る存在。長い長い時を、ひとつのことを抱えて、待ち続ける存在。彼女もまた、凍てついた深淵で、何かを抱えて、目覚めを待っていたのではなかったか。
その問いは、彼女の中で、答えを持たぬまま、皨の下に、しばらく、漂っていた。
背後で、足音がした。セレナが、毛布を二枚、抱えて、やってきた。一枚を、キサーラの肩に、そっと、かけた。
「あなたは」と、セレナは、隣に腰を下ろしながら、言った。「不思議な方ですね。精靈を、物のように、解ける・・・なのに、解かなかった。消せたのに、消さなかった」
「・・・消すのは」と、キサーラは、皨を見たまま、言った。「容易いのです。余りにも、容易い。だからこそ、選んでは、いけないのだと・・・今日、思いました」
セレナは、暫く、その横顔を、見ていた。それから、ふっと、微笑んだ。
「わたしたち愛爾芙は、精靈に祈ります。崇めます。けれど、あなたのように、その悲しみの、いちばん奥まで、読んでやることは出来無い」セレナは、言った。「あなたが、何者なのかは知りません。でも・・・今日のあなたは、どんな精靈読みよりも・・・優しかった」
キサーラは、答えなかった。
ただ、肩にかけられた毛布の、その温かさを・・・井戸の主が取り戻した安らぎと、どこか、似た温かさを・・・静かに、感じていた。
観察対象と・・・彼女は、もう思えなくなっていた。
皨は、変わらず其処にあった。けれど、それを見上げる彼女は、塩ノ原に降りた夜とは、また、僅かに変わっていた。




