第一章 塩ノ原 六節
六節
東門には、朝靄が掛かっていた。
ドレクは、約定の刻限より早く来て、門柱に寄り掛っていた。夜の間中、彼は此の約定を取り消す言葉を探していた。けれど、どんな言葉も見つからなかった。引き返すのは、罠を仕掛けるよりも、なぜか、勇気の要ることだった。
黄金の女は、靄の中から、現れる・・・。
その後ろから、小さな影が駆けてきた。塩環の市で働く、あの隊商の娘であった。ミラと云ったか・・・。娘は、息を切らして、女の袖を掴んだ。
「キサーラ、やっぱり、わたしも行く。東の遺跡なんて危ないもの。あなた一人で行かせられない」
女は・・・キサーラは、足を止め、娘の方へ、身を屈めた。
「ミラ」と、彼女は、静かに言った。「あなたは、来てはいけません」
「でも・・・」
「あなたには、帰る家が有り、待っている人が居る」キサーラの声は、咎めるのではなく、宥める様であった。「あの場所は、其れを持つ人が、行って良い場所ではありません。私が、夕までに戻らなければ、組合のヴェスナに伝えなさい。それで・・・よいのです」
ミラは、なおも食い下がろうとして・・・でも、キサーラの金色の瞳の、その余りの静けさに、言葉を謐かに呑んだ。やがて娘は、渋々、頷く。
ドレクは、その様子を、門柱の影から見ていた。胸の奥が、ざらりとした。この女は、仲間を、危険な場所から遠ざける。当たり前のことだ。だが、ドレクは思い出していた。自分が、この女を、正に其の危険な場所へ、誘い込もうとしているのだというコトを。
塩ノ原を、東へ。
二人は、殆ど口を利かなかった。ドレクは時折、何か言おうとして・・・止めた。キサーラは、淡々と歩きつつも、けれど、歩いているというより、塩ノ原そのものを、読んでいる様であった。風の向き、霧の薄まりかた、足元の塩の乾き具合・・・そうした、ドレクが何年渡り手をやっても気にも留めなかったものを、彼女はひとつひとつ、確かめながら進んでいた。
昼を過ぎる頃、東の窪地が見えてきた。
窪地の底に、其れはあった。白い塩に半ば埋もれた、太古の建物の骨。ドレクの知る、どんな様式とも違う。角ばって、滑らかで、幾星霜の歳月吹き荒んだ風にも崩れぬ、奇妙な硬いモノで構成された、不思議な遺跡だった。そして、その入口には・・・月神殿の銀の封印が、刻印されている。
「待て」と、ドレクは、思わず言った。「ここは・・・月神殿が、封じた地だ。立ち入りは、禁じられている。神殿は、ここを〈触れべからざる旧き傷〉と呼んでいる」
彼が東の遺跡を罠に選んだのは、正にその為であった。月神殿が封じ、誰も近寄らぬからこそ、狂精靈が棲みつき、腕利きの三人が帰ってこなかった。けれど、いざ封印を前にすると、ドレクの足は、竦んだ。月の禁を破る。其れは、渡り手の世界では、最も重い暗黙の禁忌のひとつであった。
キサーラは、その銀の封印を、暫く、覧ていた。
「月のモノが、封じた」と、彼女は、独り言のように言った。その声には、ドレクには読み取れぬ、何か硬いものが混じっていた。「・・・隠したかったのですね。此れを・・・」
そして、彼女は、封印に手を触れることもなく、その横をすり抜けて、遺跡の中へ足を踏み入れた。月の禁を、まるで紙一枚程にも、意に介さずに。
ドレクは、震える足で、その後に追い縋った。引き返せばよいものを、彼の足は、もう、女の黄金から、離れられなくなっていた。
遺跡の中は、暗く冷たかった・・・。
壁には、薄く光る筋が走っていた。気の遠くなる様な歳月を経て、なお消えぬ淡い光。そして、奥へ進むにつれて、ドレクは、其れに気付いた。床に物が落ちている。革の手袋。錆びた短剣。千切れた外套の切れ端・・・。
明らかに、渡り手の遺品・・・であった。
還ってこなかった凄腕の三人。
「逃げよう」と、ドレクの喉から、掠れた声が漏れた。今や、彼の卑しい企みは、跡形もなく霧消していた。残っていたのは、ただ、剥き出しの恐怖と・・・そして、自分が此の女を、ここへ連れて来た・・・と云う、冷厳たる事実のみ。「すまねえ、俺は、あんたを・・・ここは、本当にヤバいんだ。逃げ・・・」
その時、遺跡が目を覚ました。
壁の光の筋が、一斉に、強く灯った。冷たい風が、遺跡の深奥から吹き付けた。そして、其の風の中に、聲が・・・いや、聲とも呼べぬ、軋む様な響きが、満ちた。
『狼藉者を、捕らえよ』
『曲者じゃ・・・曲者が出おった・・・』
似たような言葉が、幾重にも、重なって、繰り返された。
『捕らえよ。捕らえよ。不埒者を捕らえよ。守れ。捕らえよ・・・』
壁から、淡い光の像が、湧き出した。それは、人の形を真似ようとして、成り切れぬ、歪んだ光の腕であった。太古の昔より、ただ「入り込んだ者を捕らえ、ここを守れ」という、ひとつの壊れた〈命〉だけを、繰り返し続けてきた、遺跡の番人。三人の渡り手を捕らえ、どこかへ消した、其の妄執。
光の腕が、ドレクに、伸びる。
ドレクは動けなかった。脇腹の古傷が、恐怖で痛んだ。リナの顔が、脳裏に過ぎった。嗚呼、俺は、こんな処で。妹を残して・・・。光の腕が、彼の体に絡みつき、冷たく、ぐいと、深き闇の深淵へ、引きずり込もうとした。
「離れなさい」
キサーラの声が、響いた。
彼女は、ドレクと光の腕のあいだに割って入っていた。そして、あの、塩ノ原で霧を解いた時と同じ仕草で・・・けれど、今度は、もっと注意深く、もっと慎重に、指を動かした。
光の腕が、ドレクから、解けた。
ドレクは、床に崩れ落ちた。咳き込みながら、彼は見た。黄金の女が、湧き出す光の番人の、ただ中に立っているのを。
彼女は、それを、容易く消し去ろうとは、しなかった。
ドレクには、解らなかったが・・・キサーラは、その番人の壊れた命の糸を、一本ずつ、辿っていた。そして、その奥に、まだ消えずに残っているモノを、見つけて、ほんの一瞬・・・手を止めた。それは、この番人が、壊れる前に、守ろうとしていた・・・何か。古の、誰かの聲・・・。
彼女の指が、逡巡った。
解けば、消える。番人の最後の記憶も共に失われる。
それでも、彼女は、ドレクを振り返った。床に這いつくばり、震えている、自分を陥れようとした男を。そして、その男の命の方を、選んだ。
キサーラの指が、最後の糸を、解く・・・。
遺跡の光が、ふっと、和らぐ。軋む声が、止む。「捕らえよ・・・」という、太古の命の繰り返しが・・・途切れる。痕には、ただ、淡く光る壁と、冷たい静けさだけが、残留している・・・。
番人は消えた。三人の渡り手を捕らえ、ドレクを引きずり込もうとした、その執念と伴に・・・。
そして、其れが守ろうとしていた、太古の・・・誰かの聲も、もう、何処にもなかった。
キサーラは、暫く、消えた番人の居た虚空を、凝視していた。その横顔に、ドレクは、ほんの一瞬、何か・・・勝利でも、安堵でもなく、もっと静かな、惜しむような色を、見た気がした。けれど、それが何なのか、ドレクには分からなかった。
やがて、彼女は、ドレクの方へ、手を差し伸べた。
「立てますか」
ドレクは、その手を取れなかった。取る資格がない・・・と思った。
「なぜだ」・・・と、彼は、床に伏したまま、言葉を絞り出した。「なぜ、助けた。アンタは、判っていた筈だ。俺が、アンタを、ここで・・・跪かせようとして、連れてきたって。最初から、全部、見抜いてたんだろう」
キサーラは、差し伸べた手を、引っ込めなかった。
「ええ」と、彼女は、静かに認めた。「解っていました」
「なら、何故!!」
キサーラは、少しの間、答えを探すように、沈黙し・・・それから、こう続けた。
「あなたの帰りを、妹さんが待っておられる」
ドレクの目頭が熱くなった。
「あなたが、ここで果てれば」と、キサーラは続けた。「妹さんは、薬を絶たれる。あなたの卑しさの為に、あなたを死なせるコトは、出来ても・・・あの、何も知らない人を、巻き添えにすることは、私には、出来ませんでした。其れだけのコトです・・・」
ドレクは、もう、堪え切れなかった。
六年、地を這って、誇りだけを支えに生きてきた男が、月神殿の封じた遺跡の冷たい床で、声を殺して、泣いた。妬みでも、恐怖でもなく・・・生まれて初めて、咎めぬ目で、真っ直に、自分という卑しい人間ごと、見られたコトが、どうしようもなく、堪えた。
キサーラは、何も言わず、その手を差し伸べたまま、待っていた。
やがて、ドレクは、震える手を伸ばし、躊躇いがちに・・・その手を・・・、取った。
女の手は、塩ノ原で初めて拾い上げられた時のミラの言葉どおり、思い掛けぬ程・・・温かかった。
二人が遺跡を出ると、塩ノ原は、もう夕暮れに染まり、月神殿の銀の封印が破られたまま、二人の背後で、虚しく光を零していた。
帰り道・・・ドレクは、ひとつ心に決めた。街に戻ったら、先ず、酒場で言いふらしたあの嘘を・・・月の諜だ、魔の主の手先だと云う、あの下らぬでっちあげの悪評を・・・一軒ずつ、回って、打ち消そう。それが、自分にできる、せめてもの償いだ・・・と思った。
それが、贖いになるとは、思わなかったが・・・。
徒、其れを、せずにはいられなかった。
黄金の女は、何も知らぬげに、夕陽の塩ノ原を、先に立って、歩いていた。その背を追いながら、ドレクは、自分の胸の中の、あの「名づけられぬモノ」が、漸く、ひとつの名を得たことに、気付いた。
それは、〈恥〉であった。そして、〈恥〉の、そのすぐ裏側にある、まだ名を持たぬ、温かいモノ・・・であった。




