第一章 塩ノ原 五節
五節
ドレクは、〈銅縁〉の渡り手であった。
其れを口にするとき、彼はいつも、ほんの少しだけ胸を張る。灰縁から銅縁へ。たったひとつ縁に色が着くだけのコトに、彼は六年を費やした。六年の間、塩ノ原で渇き、遺跡で迷い、二度は死にかけ、左の脇腹には砂の魔獣に剔られた古い創が残っている。才のある者なら二年で上がる位を、彼は這うようにして登った。それでも、登ったのである。それが、ドレクの誇りであった。たぶん、唯一の・・・。
その朝も、ドレクは組合の依頼板の前で、長いこと迷っていた。
彼の選び方は、毎度決まっている。実入りは中の下。だが、まず死なない仕事。隊商の護衛、近場の遺跡の見回り、痩せた魔獣の追い払い。割の良い仕事には、割に合った危険がある。それを取って死ねば、リナの薬代が途切れる。
リナは、彼の妹。肺を患ってもう二年、寝床から出られずにいる。月神殿の施療院は、財布の軽い者には冷たい。街の薬師から買う咳止めの煎じ薬は、ひと月分で、ドレクの稼ぎの半分が飛ぶ。だからドレクは、死ねない。臆病なのではない。死ねない、それだけのコトだと、彼は自分に言い聞かせていた。
その慎ましい朝の段取りを、ひとつの噂が、乱した。
「聞いたか、ドレク」と、隣で板を眺めていた古馴染みが、声を顰めた。「黄金の女のことよ。塩ノ原で、狂精靈を、指一本で鎮めたって話だ。詠唱もなしに・・・だぜ」
ドレクは、その女のことを、既に見ていた。
昨日、組合に入ってきた、あの黄金の女。金の髪、金の瞳、額に琥珀の魔石。あんな身なりの女が灰縁だというのが、そもそも胡散臭い。そして老女のヴェスナが・・・あの、何十年も渡り手を見てきて、誰にも顔色ひとつ変えぬヴェスナが・・・あの女の前で、目を逸らした。ドレクは、其れを見ていた。
胸の奥で、何かが、ちりちりと焦げた。
彼は、その感情の名を、知らぬ振りをした。けれど、其れは・・・明らかに〈妬み〉・・・であった。
六年だ、とドレクは思った。俺は六年懸けて、ここまで来た。なのにあの女は、最下位の札を持ったその日から、もう、皆に一目置かれている。ヴェスナすら、底が知れぬという顔で見ている。割の良い仕事は、これから、ああいう手合いに、攫われていくのだ。俺のような、地を這うしか能のない者の口が、また一つ・・・塞がれる。
リナの咳が、耳の奥で鳴った。
そう思った瞬間、ドレクの妬みは、もっと小さく、もっと卑しいモノに変貌した。
彼は、その日の昼、酒場で、何人かの渡り手に、こう言った。
「あの黄金の女な。気をつけたほうがいいぜ。素性が知れねえ。あの身なりと、無詠唱の術・・・俺は見たことがある。ああいうのは、大抵、月の諜か・・・でなきゃ、魔の主の手先だ」
言いながら、ドレクは、それが嘘だと分かっていた。彼は、あの女が何者かなど、何も識らない。月のまわし者をなど、一度も見たことがなかった。だが、言葉は、口から滑り出た。すると、聞いた者たちが、成程という納得の顔をした。その顔を見て、ドレクはほんの一瞬・・・満たされる。自分が、皆より何か一つ多くを知る者になれた気がした。
その夜、寝床のリナに煎じ薬を飲ませながら、ドレクは、自分の手が、少し嫌だった。
「兄さん」と、リナが、薬の苦さに顔をしかめながら言った。「組合で、何かいいことあった?」
「ああ」とドレクは、嘘をついた。「いい稼ぎ口が、入りそうなんだ。お前の薬、もっといいのに、替えてやれるかもしれん」
リナが、嬉しそうに咲う。その笑顔が、ドレクの胸を、刺した。
刺されて、ドレクは、なお、卑しい考えの方へ進んだ。
翌日、彼は、組合の片隅で、ひとりでいる黄金の女に、近づいた。話し掛けるのに、ずいぶんと勇気が要った。間近で見ると、そのオパールのファイアを纏った金色の瞳は、思っていたより、ずっと静謐で、ずっと深奥だった。
「よう、新入り」と、ドレクは、できるだけ気さくに言った。「灰縁の駆け出しが、いきなり稼ぎたいなら、いい口があるぜ。塩ノ原の奥・・・東の窪地に、古い遺物の眠る遺跡がある。誰も手を出さねえが・・・そりゃあ、ちょいと精靈が荒れてるからだ。だが、あんたなら、屁でもないだろ?取ってきた遺物は、山分けだ。・・・どうだ」
それが、罠であることを、ドレク自身が、最も知悉していた。
東の窪地の遺跡は、狂った精靈の巣。知ってる限りでも腕利きの渡り手が、これまで三人、還ってこなかった。ドレクは、あの女が、そこで何か取り返しのつかぬ目に遭えばいい、と・・・はっきりと考えていた・・・意でもない。思いきる度胸も、彼には無かった。ただ、ぼんやりと、あの女が躓けばいい、新参のクセに皆に一目置かれる、あの不条理が、少しでも崩れればいい、と、半端に願っていた。その半端さが、ドレクという男の底の浅さだった。彼は、悪党にすら成り切れない半端ものだった。
黄金の女は、暫く、ドレクを視ていた。
その金色の瞳が、ドレクの言葉の奥を・・・いや、ドレクの胸の最も卑しい部分を、一直線に透視したような、奇妙な間があった。ドレクの背筋に冷たいモノが走る。見抜かれた・・・と思った。この女は、俺の魂胆を、全部、解っている。
ところが。
「わかりました」と、女は、静かに言った。「・・・ご親切に。では、行きましょう」
ドレクは、虚を点かれた。
見抜いておきながら、なぜ応じるのか。なぜ、こんな見え透いた罠に、自分から足を入れるのか。ドレクには、まるで、分からなかった。
「・・・あ、ああ」と、ドレクは、しどろもどろに答えた。「じゃあ、明日の朝、東門で」
「ええ」と女は言って、それから、付け加えた。「ドレク、と、おっしゃいましたね」
「な・・・なんで、俺の名を・・・」
「組合の方が、呼んでおられました」女は、ほんの少し、首を傾げた。まるで、彼という生き物を、初めて間近で観察するかの如く。「あなたは・・・妹さんの、薬代の為に、慎重な仕事ばかりを選んでこられた。そう、伺いました」
ドレクは、言葉を失った。
誰がそんなことを、と思った。誰も、知らぬ筈であった。彼が、なぜ死ねぬ仕事ばかりを選ぶのか。彼の慎重さの、その奥にあるものを。それを、この、昨日今日来たばかりの女が、なぜ、知っている。
女は、其れ以上は、何も言わなかった。ただ、最後に一度、ドレクの顔を見た。その目には、咎めも、蔑みも、なかった。あるのは、ドレクが生まれてこの方、誰からも向けられたコトのない・・・名づけようのない、静かな〈何か〉であった。
女は、踵を返して、遠ざかってゆく。黄金の後ろ姿が、組合の薄暗がりに、淡く耀いた。
ひとり残されたドレクは、暫く、その場から動けなかった。
明日の朝、東門で会う約定を、もう、取り消したいような気がした。けれど、其れを、どう取り消せばよいのかも、わからなかった。
胸の奥の、ちりちりと焦げていたものが、いつの間にか、別の、もっと厄介な、もっと重いものに、変わっていた。
それが何なのか、ドレクには、まだ、名付けられなかった。




