第一章 塩ノ原 四節
四節
塩環都市リム・サラディアは、旧海盆を三日掛けて渡り切った先の、ひとつの大きな窪地の辺に築かれていた。
遠望は、白い貝殻を伏せたかのよう。塩を固めて積んだと云う城壁が、陽を受けて鈍く光り、その内側に、幾層もの屋根が犇めいている。窪地の底には僅かながら水が湧く。其の水源がこの乾いた地の都市を成り立たせている、唯一の理由なのだ・・・と、ミラの祖母は確か云っていた。水の有る処に、人は集まる。人の集まる処に、塩の道が交わる。リム・サラディアは、その結節点であった。
城門には、長蛇の列が出来ていた。
ミラはこういう場所が好きだった。世界中の言葉と顔が、一本の列に並ぶのだから。背の低い杜瓦夫の一団が鉱石の荷を引き、その後ろに、頭ひとつ高い砂海の隊商が、布で顔を覆って黙々と立っている。森の匂いを纏った愛爾芙が数人、人いきれを嫌うように列の端を歩き、どこの部族ともつかぬ狼獣人の傭兵が、退屈そうに門柱に寄り掛かっていた。
その雑踏の中でも、キサーラの黄金は、隠し様がなかった。
人々が振り返った。黄金の髪、黄金の瞳、塩の白さの中で燃える様な豪奢な黄金の衣。そして額の、燦めく琥珀。子供が指をさし、母親が其の手を慌てて下ろした。ヒソヒソと囁きが立った。あれは何だ。どこの貴人だ。いや、貴人があんな護衛も無しに歩くものか・・・。
城門を潜る手前で、サディク翁が、低い声でキサーラに言った。
「いいか、お嬢さん。門番は、素性を訊いてくる。この街では、それが習いじゃ」翁は、誰にも聞かれぬように声を落とした。「だが・・・正直に答えてはならぬ。アンタが、何処から来て、何者なのか。それを馬鹿正直に言う者は、この街では長生きせん・・・」
キサーラは、翁を見た。
「何故です?」
「月の者を、皆が恐れているからじゃ」翁は、ちらと・・・都市の中心のほうへ目をやった。屋根の群れの奥に、一際白く、銀の尖塔が聳えている。「あの神殿を見るがいい。月の神々を拝む者たちじゃ。天から奇跡を授かるという。だが・・・天から降りてきた素性の知れぬ者を、月の諜と疑う者も・・・また多い。逆に、魔の主の手先だと難癖を付ける者も居る。アンタのその姿は、何方にも見える。だから、何方でもない、有り触れた肩書きを、ひとつ持っておくがいい・・・」
キサーラは、暫く黙って、その銀の尖塔を観ていた。
ミラには、その横顔が何かを深く考えている様に見えた。ただの忠告を聞いた顔ではなかった。もっと遠い、もっと大きな何かを、その黄金の瞳の奥で、測っているような・・・けれど其れは、一瞬のコト・・・。
「分かりました」とキサーラは言った。「では、私は、何と名乗れば良いのでしょう」
「それは、アンタが決めるコトだ」翁は、フッと笑った。「ただ、その額の石と、塩ノ原でのあの霧の手際・・・あれを、うまく誤魔化せる肩書きがいい」
キサーラは、自分の額の琥珀に指で触れた。
そして・・・謐かに言った。
「では・・・遠い地より来た、旅の魔術師と・・・」
翁は、満足そうに首肯した。「それでいい。この街には、禄に名も知れぬ魔術師なんぞ、掃いて捨てるほど居る。あんた一人、増えたところで、誰も気にもせん」
城門の番人は、果たして、素性を問うた。
キサーラが「遠い地より来た旅の魔術師」と答えると、番人は額の琥珀を一瞥し、「魔石持ちか」とだけ言って、それ以上は問わなかった。豪奢な黄金の衣は、どこか遠い国の魔術師の礼装と受け取られた。番人にとっては、毎日潜って行く幾百もの素性の内の、ひとつにすぎなかった。
こうして、キサーラ・ディナン・メルは、塩環都市リム・サラディアの門を、潜った。
城門の内は、外の比ではなかった。
塩を漆喰で固めた白い壁の路地が、迷路のように入り組み、その隙間という隙間に、市が立っていた。干した魚、塩の塊、得体の知れぬ薬草、太古のの遺物だと嘯く錆びた金物。声、声、声。値を争う声、神を讃える声、子供を叱る声。ミラにとっては馴染みの喧騒であったが、キサーラは、その一つひとつを、まるで初めて世界に触れる者のように、目で追っていた。
隊商は、街の広場で荷を解く。ここで一行は、一旦、解散する。サディク翁はキサーラに、別れ際ひとつの場所を教えた。
「身を立てたいなら、〈渡り手の組合〉へ行け」翁は、広場の角にある、他より古びた石造りの建物を指さした。「旧海盆を渡る者、遺跡を探る者、精靈の災いを鎮める者、護衛を請け負う者・・・身元の定かでない流れ者でも、彼処なら、〈札〉をくれる。札さえあれば、此の街でも、他所の街でも、それなりに真っ当な仕事にありつける。アンタの様な者には、恰度いい」
ミラは、自分でも思い掛けないコトを口にしていた。
「わたしも、行く!」
サディク翁が眉を上げた。ミラは隊商の娘で、組合とは縁のない身・・・だけれども、ミラは、キサーラを一人にしておきたくなかった。塩ノ原で命を救われたからだけではない。この、世界を初めて見るような目をした黄金の女が、独りで雑踏に呑まれてゆくのを、見ていられなかったのである。翁は深く溜息を付いた・・・。
渡り手の組合の中は、薄暗く、酒と汗と古い紙の匂いが充満していた。
壁には、依頼を書いた板が所狭しと掛けられていた。曰く、北の遺跡で消えた探索隊の捜索。曰く、南街道に出る砂の魔獣の討伐。曰く、東の邑の井戸を狂わせた精靈の調査・・・。そうした板の下で、いかにも荒くれた風体の渡り手たちが、酒杯を傾け、賽を振り、互いの戦果を大声で誇っていた。
その雑多な視線が、入ってきたキサーラの豪奢な黄金に、一斉に突き刺さった。
受付の卓にいたのは、片目に古い傷のある、退屈しきった顔の老女。
「新入りかい」老女は、キサーラを上から下まで眺めると、ふん・・・と鼻を鳴らした。「身なりだけは立派だね。だが、ここは見栄えだけじゃ札はやれない。名前と・・・できることを言いな」
「キサーラ・ディナン・メル」キサーラは答えた。「旅の魔術師です」
「魔術師ねえ」老女は、卓の上に、黒い石をひとつ置いた。掌ほどのただの石である。「なら、これを動かしてごらん。触れずに・・・だ。新入りの魔術師には、毎度これをやらせる。大抵は、ぴくりとも動かせずに、すごすご帰っていくがね」
ミラは、はらはらして見ていた。
キサーラは、その黒い石を、見た。
ミラには、その時のキサーラの様子が、奇妙に映った。キサーラは、逡巡っていた。けれどそれは、力が及ばぬ者の逡巡いではなかった。むしろ、出来過ぎることを、どこまで、見せずに置くか・・・その加減を、測かねているような、躊躇いであった。
キサーラは、指を、ほんの少し動かした。
黒い石が、卓の上を、つうっと、指の幅ほど滑った。
それだけ・・・であった。けれど・・・咒文は、なかった。詠唱も、結印も、精靈への呼びかけも、何ひとつ、なかった。ただ、指の仕草ひとつで、石は動いた。
組合の中が一瞬、静まり返る。
受付の老女の傷のある眉が、ぴくりと動いた。退屈そうだったその顔に、初めて別の色が差した。
「・・・アンタ・・・」老女は、声を低くした。「今、なぜ・・・それしかしなかった・・・」
「問われたのは、石を動かすコト・・・でしたので」とキサーラは答えた。
「そうじゃない!」老女は、首を振った。「・・・無詠唱で物を動かせる者は、滅多に居ない。居たとしても、それは長年修めた中位以上の術師だ。なのにアンタは・・・それを、指の幅ぶんだけ、動かして見せた。まるで、それ以上を見せないように、態と、抑えたみたいさね」
老女は、暫く、キサーラの底の知れぬ金の瞳を、覗き込んでいた。何かを読み取ろうとして、読み取れずに、還って落ち着かなくなったような顔であった。
やがて老女は、ふっと・・・目を逸らした。
「・・・まあいい。詮索は、この稼業じゃ・・・ご法度だ・・・」老女は、卓の引き出しから、一枚の塩を固めて作った白い札を取り出した。その縁は、無地であった。「これが、あんたの札だ。〈灰縁〉・・・一番下の階級だよ。新入りは、皆ここから始まる。手柄を立てれば、縁に色がつく。死ねば、そこまでだがね」
キサーラは、その白い札を、両手で受け取った。
灰縁。最も低い、駆け出しの渡り手の証。
ミラは其れを見て、思わず吹き出しそうになった。塩ノ原で、供物も祈りも効かぬ狂精靈を、指ひとつで解いて観せた彼女が、よりにもよって一番下の階級。此れ程、ちぐはぐなコトが、あるだろうか。
けれど、キサーラ自身は、その白い、何の色もない札を、なぜか、とても大切なモノのように、じっと、見詰めていた。
其れは、彼女が、この地で初めて手にした、「自分が何者であるか」を記した、証。喩え、其れが、偽りの名であったとしても。
組合の外へ出ると、もうずいぶんと日が傾いていた。白の街並みが、夕映えに染まって、淡い薔薇色を帯びている。
その色の中で、銀の神殿の尖塔だけが、夕陽を弾いて、冷たく、白い随に光っていた。
キサーラは、ふと足を止めて、その尖塔を見上げる。ミラには、なぜ彼女がそれを、あんなに静かな目で凝視るのか、解らなかった。
解らぬまま、ミラは、彼女の袖を、そっと引いた。
「行きましょう、キサーラ。わたし、今夜泊まれる宿、知ってるの!」
キサーラは、尖塔から目を離し、ミラを見た。そして、白い札を、黄金の衣の懐に、そっとしまった。
「ええ・・・」と、彼女は応え。「案内して、ミラ」
二人は、薔薇色の路地を、宿の方へと、歩んで行った。
その背を、銀の尖塔が・・・或いは、その尖塔の更に遠く、天空の彼方にあると云う何かが・・・静かに、見下ろしているとも知らずに。




