第一章 塩ノ原 三節
三節
夜が来ると、隊商は塩ノ原の外れの石柱の影に火を焚き、輪になって眠った。
キサーラは、眠らなかった。
眠るというコトを、彼女は必要としなかった。それを誰かに告げた訳ではない。ただ、皆の寝息が一つまた一つと深くなり、火が熾になって沈み行く間、彼女は毛布を膝に掛けたまま、ずっと、空を見上げていた。
星が、全天を覆い、天河がそこに薄っすらとした光の道を造る・・・瞬く星々は無言で・・・しかし、多くの言葉で語りかけてくる・・・
地上の者達には、其れは美しい夜空であったろう。けれどキサーラの目には、もっと多くのモノが映っていた。人の目には届かぬはずの、遠い淡い星々まで。
星々の位置の、僅かなズレ・・・歳差の、恒星の歩みの、其の一つ一つを、彼女は疾うに、知っていた。何れ程の歳月が過ぎたかなど、その半身は、正確な数として記録していた。彼女も、其れを受け継いでいる。知識としては・・・
・・・けれど。
こうして、肉眼で夜空を見上げ・・・記憶の奥にある、素の星座と、今、頭上に在る星座の其の僅かな変形を、重ね合わせた時。彼女の裡で、初めて其れは、数では無いモノに変わった。
・・・こんなにも、遠く来てしまった。
知ってはいた。されど・・・実感したのは、初めて・・・。
何れ程長いかを思おうとすると、記憶の縁が、酷く冷たくなった。光の無い処。音の無い深淵。果てしなく続く、凍て付いた静寂。彼女は・・・いや、彼女の素であるモノは・・・そこに、気が遠くなるほど長く、搖蕩っていた。眠りとも死ともつかぬ・・・その底に。
そして、或る時、或れは思い立った・・・。
或れは遠い場所から、この身を、この乾いた白い地へ送り出した。何の為に?・・・観る為に・・・。
或れからの言伝は、三つ。
其の一・・・観ること。
其の二・・・月のモノには、近付くな。
そして・・・
其の三・・・地に生きる者達を、弄ぶな。
この三つを、彼女は胸の内で、もう幾度となく繰り返していた。取り分け・・・最後のひとつを。
なぜなら、昼の塩ノ原で彼女の成した行いは、観ることでは、なかったから・・・である。
隊商の娘が、塩に呑まれ掛けた。あの時、彼女の身体は、考えるより先に動いた。頼まれた務めも、三つの言伝も、何一つ思い出さぬまま、ただ、あの霧を解く為に、荷車から降りた。
アレは、何であったのか。
観る者は、観るだけでよい。手を出すべきではなかった。これは過ちなのか?・・・されど・・・もしあの時、手を出さねば、この、隣で眠っている娘は、今、ここには居ない。
その娘の寝顔を、キサーラは看た。
ミラと云った。火の名残に照らされたその顔は、無防備に口を開いて眠っていた。安らかであった。余りにも、脆く儚い命であるのに、その眠りには、彼女の知らぬ、奇妙な安らぎがあった・・・。
キサーラは、知らず、その寝顔を、長い間・・・看ていた。
その時。
額の、琥珀が、灯った。
世界の音が、すうっと、遠のいた。火の爆ぜる音も、駱駝の寝息も、塩ノ原を渡る風も、薄い膜を一枚隔てたように、遠くなった。そして、その静けさの奥のほうから・・・遠い、遠い場所から、声が、届いた。
声は、彼女とよく似ていた。
しかし、彼女ではなかった。
其れは、あの凍てついた深遠の淵から、糸の様に細く、されど揺らぎなく届く声であった。彼女を此の地へ送り出した、もう一人の自分。自分でありながら、自分ではない、遠い半身。
その声は、問うた。
『彼の地の様子を、知らせておくれ・・・』
短い、ただそれだけの問い。
キサーラは、答えようとした。観てきたコトを、言葉にしようとした。地に生きる者たちのコト。霧のコト。塩のコト。報告とは、そういうモノであるはずだった。
「観るべきもの、は・・・」
言い掛けて、彼女は、痞えた。
観るべきもの。観察の対象。そう言おうとした唇が・・・止まった。眠っているミラの寝顔が、なぜか、その言葉を、遮った。あの娘を、塩のコトや霧のコトと同じように、報告の中へ並べることが・・・出来なかった。
遠い半身は、待っていた。淡々と辛抱づよく、何の感情もなく、ただ・・・答えを。
キサーラは、暫く沈黙し、其れからこう告げた。
「・・・まだ、報せるべき言葉は、ありません」
半身を、欺いた訳ではない。ただ・・・あの娘のことを、塩や霧と同じ列に置きたくなかった。それだけのコトを、彼女は、まだ、巧く言葉に出来ずにいた。
遠い声は、咎めなかった。ただ、ひとつ、間を置いた。その間に、極微かな・・・問いとも、訝りともつかぬ、何かがあった。或いは、其れは彼女がそう感じただけかも知れなかった。
やがて声は、引いていった。
『では、続けて観ておくれ・・・』
それだけを残して。
額の琥珀の灯りが、静かに鎮まり・・・。世界の音が、戻ってきた。焚き火の爆ぜる音。駱駝の寝息。風。
キサーラは、ひとり、皨の下に残された。
胸のうちに、名の付かぬモノが、ひとつ、残っていた。あの遠い半身は、其れを持たない。凍てついた深みには、其れはなかった。けれど、この乾いた地に降り、あの娘の手の温かさに触れ、その寝顔を看てから・・・彼女の中に、其れは、芽のように吹いていた。
名付けられぬまま、彼女は其れを、暫く、持て余していた。
その時、ミラが、もぞりと寝返りをうった。眠りの中で、何かを探すように、その手が、毛布の上を、彷徨った。
「・・・キサーラ・・・?」
寝ぼけた、舌足らずな声であった。半分も覚めていないその声は、ただ、隣の者が、まだそこに居るかを、確かめていた。
キサーラは、その手の届くところへ、そっと、自分の指先を寄せた。
「ここに居る」
囁くように、彼女は答えた。
言ってしまってから、その響きを、彼女は奇妙に思った。ここに居る・・・と。誰かに、そう答えたのは、彼女の長い長い記憶のなかで・・・凍てついた深みの、その更に向こうまで遡っても・・・恐らく、初めてのコトであった。
ミラの手が、安心した様に、止まり・・・寝息が、また、深くなった。
キサーラは、その寝顔の傍らで、再び天河を見上げる。
星々は、何も変わらず、そこにあった。
でも、其れを見上げる彼女自身が、昼に塩ノ原へ降りた時とは、もう、僅かに、違っていた・・・。




