第一章 塩ノ原 二節
二節
彼女は、荷車に乗せられた。
杜瓦夫のガルドが、運んでいた古い遺物の木箱を黙って端へ寄せ、女性一人が横になれるだけの場所を空けた。ガルドは何も口を開かなかったが、彼女の額の琥珀を見る目には、職人らしい観察の色があった。価値の解らぬ品を前にした時の、あの目である。
隊商はふたたび西へ動きだした。
ミラは荷車の縁に腰掛け、彼女の様子を見ていた。サディク翁は「街道筋の救護院に預ければよい」と言ったが、ミラは何故か、彼女をそう簡単に手放してはならぬような気がしていた。
異様なのは、その回復ぶり・・・。
拾い上げた時、彼女の喉は乾ききって声も出せぬ程であった。それが、革袋の水を一口飲ませると、半日の内に、唇に血色が戻った。塩ノ原に幾刻も伏していた者が、夕を待たずに、自分で身を起こせるまでになった。渇きも熱も、出ないのだ。傷ついた者が癒えたのではく。初めから、どこも損なわれていなかったかの様だった。
彼女は、まだ殆ど口をきかなかった。ただ、流れゆく塩の原を、荷車の上から、じっと凝視していた。風を見、雲を見、遠い石の柱を見た。何もかもが珍しいと云うより、何もかもを、確かめている・・・そう感じさせる目であった。
日が、傾きはじめる。
西の空が血の色を帯び、塩ノ原が一面、薄紅に染まったその時・・・先頭をゆくロウが、ぴたりと足を止めた。
「来る!」
ロウの背の毛が逆立っていた。
「供物を出せ!」サディク翁の声が鋭くなった。「塩と聖油じゃ!早く!・・・北の窪地の精靈だ。難破を、思い出しおった!」
ミラは看た。北の窪地から、あの乳色の霧が、今度は薄くではなく、壁のように立ち上がっていた。昼に彼女を見守っていた、あの静かな霧ではない。其れは渦を巻き、うねり、波のかたちを真似て、此方へ押し寄せてきた。
霧が隊商を呑むと、世界が変貌する。
足元の塩が、水の感触になった。乾いた白い大地が、いつの間にか、ひたひたと押し寄せる暗き波濤に見えた。耳の奥に、聴いたこともない潮騒の音が満ちた・・・木の軋み、帆の鳴り、そして、水の底へ沈み逝く幾人もの、声ならぬ声。
「幻じゃ、惑わされるな」翁が叫び、供物の塩を撒いた。「鎮まれ!お前の海はとうに乾いた。船はもうない。鎮まれ・・・!」
しかし、霧は鎮まらなかった。
供物にも、祈りにも、まるで応えなかった。それは聞く耳を、もう失っていた。ただ一つの、遠い昔に壊れた命・・・乗る者を海の底へ連れて逝けという命・・・だけを、繰り返し、繰り返し、辿っていた。
ミラの足首を、冷たいモノが掴んだ。塩が、足を呑みこもうとしている。荷車が傾ぎ、駱駝が悲鳴を上げた。セレナが何か精靈の言葉で呼びかけていたが、その声も、波の音に呑まれる・・・。
その時、荷車の上で、彼女が立ち上がった。
まだ足元は覚束無かった。けれど彼女は、ミラの肩にひとつ手を添えて身を支えると、ゆっくりと、波の幻の只中へ、歩み・・・降りた。
「よせ!」ロウが叫んだ。「呑まれるぞ!」
彼女の回答はない・・・。
渦巻く霧の前に立つと、彼女は、片手を、静かに上げた。
咒文は、なかった。供物も、祈りも、精靈の名を呼ぶこともなかった。彼女はただ、押し寄せる乳色の海練に向かって手を翳し・・・そして・・・その指を、僅かに動かした。
見えぬ糸を、手繰る様に・・・。
縺れた結び目を、一つずつ、解く様に。
ミラは見た。彼女の額の琥珀が、其の奥の方で深く・・・灯るのを。
すると、霧が逡巡った。
波の形が、崩れた。渦が、解けた。乗る者を呑めという、あの執拗な聲の繰り返しが・・・糸が解けるように、ふつりと、途切れた。荒れ狂っていた乳色の其れは、急に力を失い、もう何を真似ることもなく、ただの、薄い、夕暮れの霧に戻って行く。
足元の塩は、固く乾いた大地に戻った。幻の波は引き・・・聲は止んだ。
跡には、ただ、塩ノ原を渡る乾いた風の音だけが残った・・・。
誰もが、出す声を持っていなかった・・・。
駱駝使いの老人は地に膝をつき、ガルドは握っていた斧の柄を、握り過ぎて指先が白くなっていた。ロウは・・・狼獣人の本能で危地を嗅ぎ分ける、其のロウが・・・一歩、彼女から却いた。
恐れていた。あの幻の波にではない。波を、こうも容易く、何も唱えずに解いてみせた、金色の彼女に・・・。
ミラの傍で、愛爾芙のセレナだけが、違うモノを見ていた。精靈読みのセレナには、分かってしまったのである。今のは、精靈への祈りなどではなかった。精靈への命令でも、なかった。あの女は、霧の精靈を・・・鎮めたのでも、退けたのでもなく、ただ、糸の様に、物の様に、解いたのだ。生きているモノに、人はあんなコトはしない。
セレナは、ゆっくりと、その場に膝を折った。畏怖からか、崇敬からか、それとも、見てはならぬモノを見た者の、戦慄からなのか、自分でも判らぬまま・・・。
彼女は、手を下ろし・・・そして、漸く、隊商の方を振り返った。
大勢の、強ばった顔が、自分を凝視しているコトに、彼女は少し戸惑った様子だった。
サディク翁が、ありったけの勇気をかき集めて、嗄れた声で問うた。
「・・・アンタは、何者だ・・・」
彼女は、暫く答えなかった。
その金色の眼が、問いの意味を、奥のほうで確認しているかのようであった。軈て彼女は、初めて、明瞭に口を開いた。其の声は、しんと澄んで、塩ノ原の風によく透った。
「キサーラ」
一度言葉を切り、それから、確かめる様に、続けた。
「キサーラ・ディナン・メル」
朗々たる名乗りの声が、夕暮れの大気に響いたとき・・・退いて行こうとしていた乳色の霧が、最後に一度、彼女の周りを、ゆっくりと、一巡した。
まるで、その名を、刻み込むかの如く・・・。
そうして霧は、北の窪地へと、静かに帰って行った。
隊商の誰もが立ち竦む中、ミラだけが、彼女の・・・キサーラの、傍へ歩み寄った。そして、その黄金の衣の裾が、まだ少し震えているのに気付く、彼女は恐れているのではなく、ただ、酷く疲れているのだと知った。
「キサーラ・・・」と、ミラは其の名を呼んでみた。初めての名は、舌の上で、不思議と馴染んだ。「わたしは・・・ミラ。さあ、もう・・・荷車に戻りましょう。街まではまだ遠いよ・・・」
キサーラは、ミラを見た。
・・・そして、塩ノ原に降りて初めて、その金色の目が、ほんの僅か・・・和らいだ。




