第一章 塩ノ原 一節
一節
星が墜ちたのは、月の無い夜・・・
ミラはその時、荷車の影で毛布に包まり、浅い眠りの底に居た・・・。突如、瞼の裏が白む。雷かと思った。けれど雷鳴は来ず、ただ、長く尾を引く光が、塩ノ原の彼方へ吸い込まれ行くのを、半ば閉じた目の隙に見た気がした・・・。
翌朝・・・、隊商はその話で持ちきりだった・・・。
「凶兆じゃ!」と、駱駝使いの老人は唾棄した。「月の出ぬ夜に星が落ちるは、王の崩御か、町一つ沈むかの報せじゃ・・・」
「瑞兆かも知れぬぞ」と、別の者が嗤う。「天が宝を地に落とすこともある。落ちた先を見つけた者は、生涯食うに困らぬと聴くぞ・・・」
隊商の主であるサディク翁は、何れにも与せず、ただ白く乾いた地平を眇めていた。翁の目尻の皺は、四十余年この方旧海盆を渡ってきた者の皺であった。
「星の墜ちた先など、見つかりはせぬ・・・」翁は誰にともなく語る。「この原は広すぎる。骨も、宝も、ここでは塩に呑まれる」
旧海盆・・・ただ塩ノ原とも呼ばれる・・・且つて海であったと云う、白き大地。
ミラは未だ、海というものを見たことがない。されど祖母は語った。その昔、ここには空を映す水が満ち、果ての見えぬ程に青かったとか・・・。今はもう、塩の結晶ばかりが地を覆い、陽が昇れば一面が鏡のように白く灼け、踏めば乾いた音を立てて砕ける。水の在った証は、処々に残る浅い窪みと、風に削られた古き石柱・・・誰が、いつ、何の為に立てたかも知れぬ柱・・・の他には・・・何もない。
隊商は、その白き海の底を、列をなして西へ進む。荷車の輪が塩を噛み、軋む。先頭を往くのは狼獣人の護衛:ロウで、その鼻は風の中の些細な異変も嗅ぎ分けると評判だった。後尾には愛爾芙の精靈読み:セレナが居て、彼女はいつも、誰にも見えぬ何かに耳を澄ますように、僅かに首を傾けて歩を進める・・・。
その日の昼下がりのこと・・・。
セレナが、足を止めた・・・。
「霧が、可怪しい・・・」
ミラは振り返って、空を仰ぐ。この季節、この刻限に、霧など立つはずなどない。陽は高く、塩ノ原は白く灼けている・・・。けれど確かに、北の窪地の方から、薄い乳色のものが地を這って此方へ流れてきていた。風も凪いでいるのに、霧だけが音もなく動いていた・・・。
「精靈か・・・」ロウが低く唸り、爪のある手を腰の刃に添える。
「いいえ」セレナの碧い目が、細められた。「精靈は、居る。けれど・・・集まっている。まるで・・・何かを、囲うかの様に・・・」
サディク翁がチッと舌打ちする。「狂った精靈で無ければ良いが・・・。この原の霧の精靈は、たまに昔の難破を思い出して、隊商を海の底へ引きずり込もうとする。供物を出せ!塩と、聖油じゃ!」
けれど、霧はミラ達には向かって来なかった・・・。
それは、北の浅い窪地の一点を、ただ静かに巡っていた。乳色の実体を伴った気配が、見えぬ手で撫でるか・・・の様に、その一点の周りを幾重にも環をなして漂う。まるで、何かを看取る様に・・・。或いは、見定めかねる様に・・・。
好奇心と云うのは・・・ミラの母がいつも嘆いた・・・この御転婆娘の悪い癖だった。
「ミラ!」サディク翁の声が鋭く背に飛んだが、ミラの足はもう、隊列を離れていた。
窪地の縁に立って、彼女は息を呑んだ。
白い塩の底に、人が一人、倒れていた。
ひと眼・・・美しい女・・・であった。長い髪が、塩の上に解けて広がっている。それが・・・ミラは最初、陽の加減かと思った・・・金であった。麦の穂の金ではない。鍛えた金属の、あの重く澄んだ黄金の色そのものが、髪となって地に流れていた。
更に彼女は、黄金の衣を纏っていた。星の墜ちた夜の灰を被り、塩に塗れて、尚、その布の織りは、ミラがこれまで見たどんな貴人の衣装よりも精緻で、黄金に輝き、見たことのない緻密で繊細な装飾が施された・・・異国風のものであった。けれど彼女の肌には、塩ノ原に幾刻も伏していた者の荒れも、渇きも、火傷の痕も、なかった。眠っているだけの様に、ただ静かに、傷一つなく横たわっていた。異常なまでに端正なその顔・・・総ゆる絵画が彼女の前では、不出来な失敗作となろう・・・その異様な美貌・・・。
そして、その額。
前髪のあわいに、琥珀色の石が一つ、嵌っていた。いや、嵌っているというより、肌から生え出ているように、自然にそこにあった。陽を受けている訳でも無いのに、その石は、其の奥の方で、呼吸でもするかの如く、極淡く灯っていた。
「魔石・・・」ミラの口から、知らず言葉が漏れる。
隊商の者たちが追いついてきて、誰もが立ち竦んだ。霧は、ミラが窪地に踏み入っても、退きも襲いもしなかった。ただ、彼女の周囲を巡るのを止め、今は、ミラのことも、その環の内に静かに迎え入れている。
その時、霧の中から、頭に直接、囁やき掛けるような声が聴こえた・・・精靈の聲か?・・・
風の音にも、人の声にも似て、何方でもない。乳色の霧そのものが、形にならぬ口で、ゆっくりと言葉を紡いでいく様であった・・・。
『・・・月の子ではない・・・』
ロウが牙を剥き、セレナが息を止めた。
『・・・魔の主でもない・・・』
聲は、呻く様でも・・・問う様でもあった。
『・・・されど・・・古き因果より、来たる者よ・・・』
誰も、動けなかった。
その時、黄金の女の瞼が、震えた。
金の睫が、ゆっくりと上がる。
現れた瞳もまた、黄金であった。底の見えぬ、澄みきった黄金・・・其の耀きをオパールの如き妖しきファイア:虹色の煌めきが覆う・・・地上では察たことのない色彩だった・・・。その目は、まず空を映し・・・それから、恐る恐る覗き込んでいるミラの顔を・・・視た。
彼女は、自分が何処に居るのかを問う様に、唇を動かした。されど・・・声は紡がれなかった。乾いた喉が、幽かに鳴っただけ・・・。
ミラは、母の嘆いた悪い癖のままに、その手を取った。塩の冷たさを予期していたミラの指は、意外なほど温かいものに触れた。
「大丈夫・・・」と、ミラは言った。何故そう口にしたのか、自分でも分からない。「あなた、もう、大丈夫だから・・・」
女は、ミラの顔を見つめた。長く・・・永く・・・見つめた。
まるで、人というモノを、生まれて初めて見るかの様に・・・。




