第十章 嗤う面の房 四節
四節
宴の前日、都は、舞台に、変わっていった。
第一の門の前庭に、白い砂が、撒かれた。観る場と、狩る場とを、分ける、木の柵が、組まれ、垣の外囲いには、桟敷が、雛壇なして、高く、積まれてゆく。人足たちの、掛け声すら、どこか、浮き立っていた。奇瑞の門の御前で、英傑がたの、狩りを、拝せる…都は、祭りの匂いのしない祭りの、静かな熱に、膨らんでいた。
その、人波に、紛れて、ミラと、セレナと、ジャベは、明日の道筋を、最後に、検めて、歩いた。
囮の逃げ水の道。桟敷の切れ目。人の溜まる辻と、流れる辻。触れ役の立つ壇の死角。ミラは、干し果の売り子の籠を、提げていた。売り子は、どこに、立っても、誰にも、訝しがられない。それは、彼女が、リム・サラディアの市で、身体で、覚えてきた、たった一つの、兵法だった。
「…あそこだね」と、セレナが、目だけで、示した。
前庭の正面。第一の門と、向かい合う位置に、他の桟敷より、一段、高い、四角い座が、組み上げられつつあった。柱は、黒く、塗られ、四方に、厚い、白い帳が、降ろされている。帝の御座だった。臨まれる、と、触れは、言った。だが、あの座は、四方を、閉ざしたまま、開く気配の微塵もない、拵えだった。姿を、視せずに、臨む座。
ジャベが、そちらへ、閉じた瞼を、向けて、長いこと、立っていた。
「…どうしたの、爺さま」
「…いや」と、翁は、首を、振った。「まだ、空じゃ。熱は、ない。…ないが、の。あの座だけ、**普請が、違う**。木と、帳の内側に、白いものが、視える。熱の眼にはな、あの白は…**柱の白と、同じに、映る**のじゃ」
旧き叡智の白。運び込まれた、玉座の芯。…三人は、それ以上、視なかった。視すぎる目は、視られる。売り子の籠から、干し果が、三つ、売れた。
夜が、来た。
水場の隠れ処では、最後の支度が、進んでいた。ガルドの小さな炉が、この旅で、幾度目かの、そして、この都では、最後の火を、入れられた。四枚の鱗が、編み直され、検められ、一枚ずつ、持ち主の胸へ、渡ってゆく。ドレクは、研ぐ要のない、折れぬ刃を、それでも、布で、拭い続けていた。手が、何かを、していないと、落ち着かぬ夜が、渡り手にも、あるのだった。セレナは、帳を、畳んでいた。歌いながら、だった。よく、眠って、明日は、よく、隠して…精靈読みの、低い子守唄が、夜色の布に、染みてゆく。
その、片隅で。
ミラが、キサーラの黄金の衣を、整えていた。
旅塵に、汚れた裾は、洗われ、ほつれた縫い目は、繕われて、衣は、灯の乏しい闇の中でさえ、静かに、光を、湛えていた。ミラの手が、襟を、正し、肩の線を、撫でつけ、帯の結び目を、締め直す。市の娘の手は、こういうことに、迷いがなかった。
「…ねえ。この衣ってさ」と、手を、動かしながら、ミラが、言った。「遠くの、あの人の…**家が、恋しいって気持ちが、形になったもの**、なんだよね」
「はい」
「明日は、それを、着て、囮になるんだ」
「…はい」
ミラの手が、止まった。それから、また、動いた。
「あたしね、思うんだ。いちばん目立つ衣が、いちばん、あんたらしい衣で、よかったって。…嘘の衣で、囮になるんじゃない。**ほんとの姿で、立つ**んだ。それってさ、強いとか、そういうのじゃなくて…………………………ええと、なんて言うんだろ、こういうの」
言葉に、詰まって、彼女は、代わりに、おのれの髪から、赤い、細い組み紐を、解いた。母から、貰った、古い紐だった。それを、キサーラの金の髪の、ひと房に、結んだ。
「…迷子に、ならない、おまじない。市で、はぐれた子に、してやるやつ。…あんたが、どこへ、引っ張り回されても、これが、あたしたちの、目印だからね」
金の中の一筋の赤を、キサーラは、指先で、そっと、触れた。温かい、と、思った。糸に、温度など、ないはずなのに。
夜半、彼女は、ジャベの傍らに、座った。
「翁。…明日、あの方々の前に、立って。もし、また、渇いたら」
「渇くとも」と、翁は、事もなげに、言った。「七人を、餌に吊るした者らじゃ。渇かぬほうが、どうかしておるわ。…渇いたらな、娘御。誦えよ。声に、出さずともよい。**水は、誰のものでもない**…あの、一行目だけで、よい。あれはな、水の話では、ないのじゃ。命は、誰のものでもない。おのれの、渇きのものでも、ない。…そう、思い出すための、一行目じゃよ」
「…一行目だけで、よいのですか」
「掟が、長いのはな」と、ジャベは、莞りとした。「渇いておらん時に、覚えるためじゃ。渇いた時に、要るのは、いつも、一行目だけよ」
その晩、月を、仰いだ者と、仰げなかった者が、いた。
白い房の高欄では、狩人らが、面の連なりの下で、杯にも、映らぬ月を、愛でていた。とん、と、札の音がして、誰かが、明日の金の目の最初のひと駆けに、途方もない数を、賭けた。息の混じらぬ笑いが、夜気に、散った。
帝の宮の閉じた窓は、閉じたままだった。ただ、その、窓のない壁の内で、倦まぬ声は、今夜も、明日の水の量りを、読み上げていた。宴の日とて、量りは、休まない。
地の底、根の里では、雫の民が、皿の水面に、映るはずのない月を、思った。ナイラの留守を、預かる年嵩の女が、幾百の骨に、水を、一皿、供えて、言った。…明日、あんたらの、七人が、帰ってくるよ。
涸れた枡の白い闇では、唄が、続いていた。とん。…とん。落ちない雫を、数える声は、掠れて、細く、それでも、絶えなかった。
そして、水場の屋根の縁で、キサーラは、独り、膝を抱えて、月を、仰いでいた。あと一夜で、満ちる月。額の琥珀に、掌を、当てる。遠い、遠い、星の彼方へ、届くはずのない声で、彼女は、囁いた。
「…あなたの、望郷を、着て、参ります。…観ていて、ください」
観る者が、観られる側に、立つ。その、逆さまの夜が、明ければ…
月は、満ちる。




