第十章 嗤う面の房 二節
二節
水の昇る道は、青い灯が、識っていた。
夜半。奇瑞に、沸き疲れた都が、寝静まるのを、待って、キサーラと、ロウと、ガルドの三人は、渠の闇へ、戻った。小さき精靈は、迷いなく、幾つもの分かれを、選び…やがて、行き止まりの、白い壁の前で、止まった。壁では、なかった。耳を、寄せれば、その灰白の肌の向こうで、太い水の駆け上がる音が、絶え間なく、していた。奪われた根の水の昇り筋。柱の裾から、第七の垣の高みへ、水を、持ち上げる、旧き叡智の太い脈だった。
「…水ってのはな、坂を、下るもんだ」と、ガルドが、髭の奥で、唸った。「上る水なんてのは、あっちゃならねえ。…あっちゃならねえもんを、平気で、拵えるのが、あいつらよ」
彼の鎚が、こつ、こつ、と、壁の肌を、渡り歩き…一所で、止まった。
「…あった」
識る目が、視たのは、糸ほどの、四角い継ぎ目だった。押せば、白い肌の一枚が、内へ、静かに、開いた。中は、狭い、乾いた、上りの道。太い脈に、寄り添って、螺旋に、高みへと、続いている。
「検めの道だ」と、ガルドは、言った。「普請ってのはな、建てる時から、直しに来る奴のことを、考えて、建てるもんだ。脈があるなら、脈を、検めに歩く道が、傍に、要る。…旧き叡智の連中は、そこは、律儀だったのさ。**考えてねえのは、月くらいなもんだ**」
三人と、一つの灯は、昇った。
長い、昇りだった。狭い道の壁越しに、水の脈が、休みなく、鳴っていた。太く、温かく、生き物の拍動のように。キサーラは、一度だけ、壁に、掌を、当てた。掌の下を、約定の水が、駆け上がってゆく。待ちびとの水。皿の水。帝の水。…そして、この脈の遥かな上流は、あの、天へ届く道の内に、繋がっている。掌が、微かに、家の方角を、憶えた。彼女は、静かに、手を、離した。今宵の届け先は、そこでは、ない。
昇りが、尽きる、少し、手前だった。
ロウが、拳を、上げて、二人を、止めた。狼の耳が、立っていた。道の天井近く、白い肌に、風を通すための、細かい石の格子が、切られており…その、格子の向こうから、**音が、降りてきていた**。
乾いた、小さな、硬い音。とん。…とん。石の卓に、骨の札を、置く音だった。
「…で、幾つになった」
声が、した。若く、澄んで、退屈した声。**孔雀だ**。ロウの全身の毛が、音もなく、逆立った。
「六十と、四つ」と、別の声が、応じた。聞き覚えのない、女の声だった。気だるく、甘い。「そなたの、その、緑の海の分を、足してもよいなら、だが」
「足すがいい。数えるほどのものでもなし」
とん、と、札の置かれる音。低い、幾つもの、笑い。…息の混じらぬ笑いだった。人の笑いには、必ず、息が、混じる。それが、なかった。房には、二つどころでは、ない。四つ…五つ。あるいは、それ以上の声が、あった。
「数えるほどのものでは、ない、と来た」と、女の声が、甘く、嗤った。「では、なぜ、そなたら、**あの、金の目のことを、まだ、上へ、報せておらぬ**」
札の音が、止んだ。
「…根の戸のことは、報せた」と、孔雀の声が、言った。初めて、僅かに、慎重になった声だった。「戸は、月の関わるところ。報せねば、ならぬ。だが…獲物は、別だ」
「別、とは」
「**上に、報せてみよ**」。嗤いの面の声だった。あの、心の底から、愉しげな。「審問官どもが、雲霞と、降りてくるぞ。あの、無粋な、告死の青いのがだ。獲物は、裁かれ、灰にされ、帳面に、書かれて、終わる。…久方ぶりぞ、同胞。**折れぬ刃を、蓄えた獲物**は。追えば、肥える獲物は。それを、裁きの帳面なんぞに、呉れてやると?」
「…宴で、獲る」と、孔雀が、締めた。「月の満ちる夜。皆の観る前で。それでこそ、値打ちが、立つ。…餌は、もう、吊るしてある」
息の混じらぬ、笑いが、また、幾重にも、降ってきた。とん、と、札が、置かれた。誰かが、言った。では、金の目に、幾ら、賭ける…。
格子の下の闇で、三人は、石になっていた。
やがて、ロウが、耳の向きを、変えた。声の卓からでは、ない。もっと、低く、近い所…**足元の床の奥**から、別の音を、拾ったのだ。彼は、腹這いになり、道の床に、耳を、押し当てた。長いこと、動かなかった。それから、顔を、上げた。その目が、濡れたように、光っていた。
「…唄だ」と、狼獣人は、囁いた。「…ちっちゃい声で、唄ってやがる。…雫の数え唄だ。皿に、落ちる雫を、数える唄。…渠のガキどもが、唄ってた、あれだ」
彼は、指を、折りながら、なお、聴いた。
「息が…………………………一つ。二つ。…唄ってるのは、一人だが。…息は。…**七つ、ある**」
七つ。生きている。この、白い房の床の下の、どこか。雫の落ちぬ闇で、落ちるはずの雫を、数え続けながら。…キサーラは、目を、閉じた。胸の帳面の七つの貸しの、頁が、熱を、持った。餌は、もう、吊るしてある。彼らは、識っているのだ。金の目が、この七つを、取り立てに来ることを。宴とは、盤であり、七人は、盤の上の撒き餌なのだ。
帰りの、螺旋を、降りながら、ガルドが、押し殺した声で、言った。
「…罠だと、判っちまったな。まんまと、判らされた、と言うべきか。…どうする、嬢ちゃん。罠と、識って、踏むか」
キサーラは、暫く、降りる足音だけで、答えなかった。壁の向こうで、奪われた水が、鳴っていた。やがて、彼女は、言った。静かな、揺れない声だった。
「…餌にされた七人を、餌のまま、置いては、いきません」
それから、ほんの、僅かに、声の色が、変わった。観察者の冷たさとも、違う。渇きを、識った者の静けさだった。
「それに。…あの方々は、一つだけ、量り違えています。盤を、拵えたのは、自分たちだと、思っておられる。…**盤の下に、道を、掘ったのが、誰か、まだ、ご存じない**」




