第九章 緑の海 九節
九節
うつろの内には、刻が、なかった。
朝も、夜も、届かない。あるのは、仄白い、絶えざる微光と、遥かな高みを走り続ける、水の音ばかり。疲れ切った雫の民は、白い床に、身を寄せ合って眠った。ロウが、渠育ちの童を二人、腹の上に乗せたまま、眠っていた。ドレクは、壁に凭れ、砕けた鱗の二枚目の欠片を、掌の上で転がしていた。ミラのを、拾ったのだった。
どれほど経った頃か…セレナが、皆を、そっと起こした。
「…壁が」と、彼女は囁いた。「…泣いています」
うつろの白い内壁の一所を、糸ほどの細さの水の筋が、伝い降りていた。門が応えた、あの時から、滲み始めたものらしかった。幾星霜、堰かれていた根の水の、ほんの、目減りの、そのまた、こぼれ。けれど、それは、絶えなかった。細く、澄んで、絶えなかった。
雫の民が、静かに動いた。
誰に言われるでもなく、懐から、抱えてきた欠けた素焼きの皿を取り出し、水の筋の下に、並べ始めたのだ。渠で、していた通りに。一枚、また一枚。最初の皿が満ちるのに、さして掛からなかった。渠では、幾旬を要した嵩だった。皿を視つめる、幾十の目が、あった。声を上げる者は、いなかった。ただ、あちこちで、痩せた肩が、小さく震えていた。
「…あたしらの量りじゃあね」と、ナイラが、掠れた声で言った。「…**これは、洪水だよ**」
身の振り方の談合は、その、皿の列の傍で行われた。
ナイラの答えは、初めから決まっていた。雫の民は、ここに残る。根の水の傍らに。「上には、あたしらの帳面は、ない。ここには、水がある。…それに」と、彼女は、閉じた白い瞼の門のほうを視た。「あの、向こうにゃ、待ちくたびれた人たちが、寝てるんだ。皿は、空のままだ。…誰かが、注ぎに、行ってやらなきゃ」
それには、門を開ける声が、要った。
キサーラは、長いこと黙っていた。胸の内で、地の底の乾いた声に、問うていたのかもしれない。それから、彼女は、ナイラを水の筋の傍へ招き、声を低くして…第一の門の、まことの祈りを、一度だけ、唱えて聞かせた。
「…一度で、いいのかい」
「あなたは、二十年、一滴も、量りを違えなかった方です」
ナイラは、目を閉じた。そして、唱えた。角の丸まらぬ音、音と音との、正しい切れ目…**一語も、違えなかった**。当然のことのように。二十年、それだけをしてきた者の、当然さで。キサーラは、頷いた。譲られた言葉が、また一人へ、譲られた。地の底の翁から、星から来た娘へ。星から来た娘から、帳面から消された女へ。
「務めを、預かるよ」と、ナイラは言った。量り手の、あの、帳面を読み上げる声に…初めて、祈りに似た温度が混じっていた。「向こうの、皿を、満たす。骨を、看る。彫りかけの名を…あたしらの手で、彫り終える。…それから」
拳が、固く握られた。
「七人が、帰ってきたら、ここの水を、飲ませる。**帰ってくるんだろう**」
「…取り立てに、参ります」と、キサーラは言った。「帳面に、記してあります」
その、あとの、火の傍だった。
鱗の材に火を入れる、ガルドの小さな炉を、皆で囲んでいた。キサーラは、輪から少し離れて、膝を抱えていた。あの言葉を口にしてから、彼女は、どこか、おのれの手を、遠くに置くように、していた。ミラが、隣に来て、座った。暫く黙って、炉の火を視てから、言った。
「あのね。あたし、討たれなくて、嬉しかった」
単純な、声だった。
「けど、あんたが、討たなかったのは、もっと、嬉しい。…それだけ。難しいことは、判んないけど」
「…難しいことなら、爺に、任せい」
と、炉の向こうで、ジャベが言った。閉じた瞼が、火の温みのほうを向いていた。
「星の娘御よ。…討ちたい、と、思うたか。よい。それはな、**渇き**じゃ。人は、渇く。庇うものに、矢を向けられて、渇かぬ者は、おらぬ。…渇くこと、それ自体は、罪ではないぞ。恥でもない」
翁は、杖の先で、白い床を、こつ、と突いた。
「考えても、みよ。渇かぬ者のためなら、掟など、要らぬのじゃ。水は誰のものでもない、と、序を守れ、と、量りを違えるな、と…なぜ、わざわざ、誦えねばならぬ。皆が、渇くからじゃ。渇いて、目の前の水に、手が、伸びるからじゃ。…掟はな、渇かぬ聖者のためには、無い。**渇いて、なお、量りを違えまいとする者のために、ある**のじゃよ」
キサーラは、顔を上げた。
「…渇いて、なお」
「そうじゃ。…お前さんの、話に聞いた、底の討つ者はな、渇きを、識らなんだのじゃろう。ゆえに、量りも、識らなんだ。月とやらは、渇きを、恐れるあまり、民の喉から、渇きごと、抜き取ろうとしておる。…どちらも、掟の要らぬ世じゃ。そして、掟の要らぬ世は…**人の住めぬ世**じゃった。お前さんは、いま、初めて、渇いた。ようやく、掟の、こちら側へ、来たのじゃ。…ようこそ、渇く者らの、世界へな」
火が、爆ぜた。
キサーラは、おのれの右手を視た。裂けて、塞がった指先を。討ちたい、と、思った手。それでも、あの時、結び目を拾うことだけをした手。遠くに置いていた手を、彼女は、静かに、膝の上へ戻した。…渇いて、なお、量る。その細い道の上に、自分は立っている。スルトの立てなかった道。月の恐れて、埋めた道。半身が…臆病な、優しい巨人が、幾星霜、佇んだままでいる、道。
(歩けます、と、いつか、報せましょう)
琥珀が、微かに温かった。
発つ前に、キサーラは、うつろの高みを仰いだ。
仄白い喉は、上へ、上へ、目の限りを超えて続いていた。あの、遥かな高みを、奪われた水が走っている。その、さらに上に、天へ届く道の残りが、あるのだろう。八百と十五の名の、届け先へ。…復命の道は、頭上に、真っ直ぐだった。
だが、彼女は、視線を下ろした。閉じた、白い瞼の門のほうへ。あの向こうの、上の都の高い、白い房。嗤う面の、たくさん掛かった房へ。
「…上へ、参ります」と、黄金の観察者は、皆に言った。「けれど、道は、二度、曲がります。…先に、取り立てが、七人ぶん」
ガルドが、革袋の材を量りながら、ぼそりと言った。月は、見えぬが、太っておるぞ、と。
判っています、と、キサーラは答えた。白いうつろの、遥かな高みで、約定の水は、今も、絶え間なく、走り続けていた。




