第九章 緑の海 八節
八節
声は、静かに、出た。
それは、歌に似て、歌では、なかった。誦えに似て、誦えでは、なかった。地の底の、あの、乾いた声が、一語も違えず譲り渡した通りの…角の丸まっていない、音と、音との切れ目の正しい、第一の門の、まことの祈り。キサーラの声は、高くも、低くもなく、乾いた大広間を渡っていった。幾百の待ちびとの骨の上を。空の皿の列の上を。
言い終えて…静寂が、あった。
長い、静寂だった。ミラが、息を呑み込んだままでいるのが、判るほどの。青い灯が、キサーラの肩の高さで、じっ、と、動かずにいた。
それから。
円い縁の七つの印の一つが…**灯った**。
内から滲むような、淡い光。続いて、二つ目。三つ目。順に、環を巡って、七つが灯り終わり…糸ほどの、閉じた輪郭が、音もなく緩んだ。白い瞼が、幾星霜ぶりに目覚める者の、まぶしげな緩慢さで…**開いた**。
誰も、声を上げなかった。上げられなかった。
円い口の向こうは、闇では、なかった。仄白い、巨きな、うつろ。柱の内なのだ。首を入れて仰げば、そのうつろは、上へ、上へ、目の届く限りを遥かに超えて、続いていた。乾いていた。渠と同じに、乾いて…けれど。
「…聞こえるかい」と、ナイラが、掠れた声で言った。
聞こえた。遥かな、上。うつろの高みの、そのまた奥から。微かに、絶え間なく…**水の走る音**が、していた。
豊かな音だった。太い、川ほどの水が、休みなく駆けている音。青い灯が、震え、高く、鳴くような光り方をした。生まれ故郷の水の声を聞いた者の、震えだった。
その時、一滴が、落ちた。
開いた口の白い縁を、伝って。ひと粒の雫が、糸を引き、落ちて…骨の傍らの、空の皿の一枚に、澄んだ音を立てた。幾星霜、待ち続けた皿が、初めて受けた、一滴だった。
ナイラが、歩み出て、縁を伝う次の一滴を、指先に受けた。口に、含む。彼女の目が、見開かれた。
「…甘い」
言い伝えの、通りだった。そして、量り手の舌は、それだけでは済まなかった。彼女の顔から、みるみる、血の気が引いていった。
「…この味。…あたしは、この味を、識ってる。二十年、毎朝、検めた。…**帝の水だ**」
ガルドの鎚が、開いた口の内の壁を、こつ、と突いた。ジャベの熱の眼が、うつろの高みを仰いだ。二人の読みは、一つの所へ落ちた。根の水は、涸れたのでは、なかった。今も、湧いている。湧いて、この、うつろの高みへ汲み上げられ…そこで、曲げられて、都の青銅の格子の走る、量りの樋へ、注がれているのだ。
「…来ていたのか」と、ジャベが言った。杖を握る手が、震えていた。「約定の水は。…幾星霜、一日も、欠かさず。…来ておったのか。**この人たちの、頭の、すぐ上をな**。…量られて。値を、付けられて。跪く者にだけ、下される水に、姿を変えられて」
ナイラは、骨の列を振り返った。二十年、一滴も違えず、量って、配った水。その水の、まことの持ち主たちが、空の皿を並べて、床に待っていた。彼女は、何かを言おうとして、言えず、ただ、口を手で覆った。
…猶予は、そこまでだった。
「上じゃ」と、ジャベが鋭く言った。「…門が、応えた時、光が、根を、伝って、走りおった。上でも、視えたはずじゃ。…来る。冷たい穴が、二つ。真っ直ぐに。**速い**」
遠く、渠の来た道の彼方から…角笛が、鳴った。緑の海で聞いた、あの、狩り立ての音だった。
キサーラの下知も、早かった。
「…皆さん、門の内へ。雫の民から。…この門は、まことの声にしか、開きません。**通って、閉じれば、追えない**」
ナイラが、我に返り、民を流し始めた。幼い者から、円い口へ。ガルドとドレクが、縁の内と外に立って、老いた者を抱え上げ、渡す。その間に、ロウとミラとセレナが、来た道の狭まりに、眠り明けの帳を張った。夜の色の布が、渠の口を覆い…追手の目から、この、大広間の景を、束の間、隠す。
束の間で、しかなかった。
帳の手前の闇で、足音のない静けさが膨れ…青白い光が、布の際から洩れた。
「…隠したな?」
嗤いの面の声が、帳の、すぐ向こうで、した。愉しげだった。「隠すということは、な。**そこに、在る**ということだ」
光の縄が、帳ごと、闇を薙いだ。布は断たれなかったが、留めの石が弾け、夜の色が崩れ落ちて…二つの銀が、大広間へ踏み込んだ。孔雀の羽が青白く燃え、面の切れ込みが、光を洩らす。そして、二つの銀は、開いた白い門と、そこへ流れ込む民の列を…視た。
「…ほう」
孔雀の声から、遊びが、一段、剥がれた。
「根の戸が、開いている。…これは、報せねばなるまいよ。だが…**その前に**」
羽が、一枚、抜かれた。青白い鏃が番えられ…その切っ先が向いたのは、刃を構える狼でも、渡り手でも、なかった。門の際で、雫の民の童の手を引く…**ミラ**。
狩りの、作法だった。牙のある獲物より、群れが庇うものを、先に。
鏃が放たれ、ロウが跳び、届かず…蜂蜜色の光が、爆ぜた。ミラの胸元で、鱗が、青白い鏃を内から解きほぐし、金色の欠片となって、散った。ミラは、童を抱いたまま、石の床に倒れ込み…生きていた。五が、四に、なった。
二の矢は、もう、番えられていた。
同じ的へ。倒れて、起きられぬ的へ。孔雀の指が、羽を離れ…
…その、青白い一条は、的に、届かなかった。
届く道の半ばで、それは、**解けた**。
編まれた光が、目に見えぬ手に、結び目という結び目を一息に拾われたように、ふわりと、ほどけ、無数の青白い、蛍めいた粒となって、闇に散った。放った孔雀が、おのれの指先を視た。それから、視線を上げた。
門の前に、キサーラが、立っていた。
頭布は、落ちていた。金の髪が、開いた門の仄白い光を受けて、燃えるようだった。金の目が、まっすぐに、二つの銀を視ていた。伸ばした右手の、二本の指の先が、細く裂けて、赤い血が、一筋、伝っていた。
嗤いの面が、ゆっくりと、首を傾げた。
「…ああ」と、その声は言った。心の底からの、歓びの声だった。「…**見つけた**」
「行ってください」
キサーラは、振り向かずに言った。ガルドが、最後の一人を押し込み、ドレクが、ミラと童を抱え上げて、縁を越えた。ロウが、セレナが、ジャベが、ナイラが、続く。青い灯が、最後に、名残るように、一度、骨の列の上を巡って…内へ、滑り込んだ。
キサーラは、後ろ手に、縁へ退きながら、唇だけで、まことの祈りの、結びの句を紡いだ。開ける言葉の裏に、畳まれていた、閉じる言葉を。
白い瞼が、閉じ始めた。
狭まる、円い光の向こうで、二つの銀は…追わなかった。追えぬと、識っていたのか。それとも、追わぬことすら、遊びなのか。嗤いの面が、狭まる光の中で、芝居がかった、深い一礼をした。
「良い狩りであった、金の目。…ああ、名乗りは、要らぬ。**次で、聞く**」
瞼が、閉じた。
角笛も、青白い光も、嗤いも…白い静寂が、断ち切った。
…うつろの、根の仄白い闇の中で、皆は、暫く、床に座り込んだままでいた。誰かの荒い息だけが、していた。遥かな高みで、奪われた水が、絶え間なく走っていた。
ミラが、這うように、キサーラの傍へ来て、その右手を、両手で取った。裂けた指先の血は、もう、止まりかけていた。取られた手が…微かに、震えていることに、ミラは、気づいた。塩の原の、あの日、震えていたのは、取られる側の手ではなかったか。
「…キサーラ?」
「…怖かったのです」
と、黄金の観察者は、小さな声で言った。ミラにだけ、聞こえる声で。
「あの人が、二の矢を、あなたに向けた時。…私は、初めて。…**討ちたい**、と、思いました」




