第九章 緑の海 七節
七節
青い灯は、つかず、離れず、先を行った。
呼べば、少し近づき、近づけば、少し退く。鎖に繋がれていた者の間合いだった。それでも、分かれ道に来るたび、灯は、必ず、一つの口の前で待った。迷いのない待ち方だった。この小さき者は、道を識っている。…否、と、セレナが、歌うように言った。識っているのでは、ありません。**憶えている**のです。…この水の道は、この子の生まれた道なのだと。
雫の民も、共に降りた。
ナイラが、そう決めた。崩れた渠の、こちら側は、もう、巣ではない。狩りの庭だ。「根の水は、甘い、って、言い伝えがある」と、彼女は皆に言った。「柱の根にはね、いちばん、旧い水が、眠ってるんだと。…眉唾だと、思ってた。けど、眉唾の言い伝えを、辿って生き延びるのも、二度目となりゃ、芸のうちさ」。彼女の握った拳の中で、蜂蜜色の欠片が、微かに温かった。
道は、降りるほどに、古くなった。
初めは、人の積んだ石だった。目地があり、鑿の痕があり、補いの継ぎがあった。それが、深くなるにつれ、石の肌から、目地が消えていった。継ぎが消え、鑿の痕が消え…やがて、渠は、掘られたものであることを、やめた。壁も、床も、天井も、一枚の灰白の肌。ガルドの鎚が、こつ、と、それを叩き、彼は、長いこと動かなかった。
「…継ぎ目が、ねえ」と、杜瓦夫は呻いた。「石じゃねえ。焼き物でもねえ。…どこまで行っても、**一枚**だ。…山をくり抜いたんじゃねえ。これは…**育てた**んだ。水の道の形に」
一夜の休みを、取った。
帳を眠らせ、鱗の材に火を入れるためだった。その、小さな火の傍で、セレナが、青い灯に掌を差し伸べた。灯は、長いこと揺れて、迷い…やがて、羽虫の重さで、彼女の指先に降りた。精靈読みの目が、閉じられた。
読み終えた時、愛爾芙の頬は、濡れていた。
「…この子は、根の水の生まれです。いちばん旧い水の。…水が涸れてから、幾星霜、独りで、道を憶え続けて…上へ、迷い出た所を、捕まった」。声が、一度、途切れた。「…七人の方は、生きています。少なくとも、この子が視た時は。眠らされて、上へ、運ばれて行きました。銀の方々は、笑っていたそうです。…**壊すためでは、ありません。遊ぶ、ために、獲るのです**。都の上の、どこか、高い、白い房へ。…嗤う面が、たくさん、掛かった房へ」
誰も、口をきかなかった。ナイラの拳だけが、白くなった。生きている…その二文字が、慰めであるのか、より深い闇であるのか、誰にも量れなかった。キサーラは、胸の帳面に、静かに記した。七人。嗤う面の掛かった房。…取り立ての先が、また一つ、増えた。
翌る日…道が、尽きた。
尽きた、というのは、正しくない。すべての道が、そこへ注いでいた。幾筋もの旧い渠が、四方から集まり、一つの、円い、大きな広間に合していた。乾いた、水の大広間。その、いちばん奥の壁は…壁では、なかった。
柱の、根だった。
灰白の渠の肌よりも、なお白い。月光を固めて磨いたような、巨大な、白い、湾曲した面が、広間の奥を丸ごと成していた。地の底で、それは、微かに、それ自身の光を湛えていた。キサーラの額の琥珀が、燃えるように疼いた。遠い半身が、息を詰めている。…ここは、根なのだ。あの、天まで届く道の。**家へ、帰る道の**。
そして、その根の手前の乾いた床に…**彼らは、いた**。
人の、骨だった。
幾十…いや、百を超えて。乱れては、いなかった。争った骨では、なかった。皆、床に、行儀よく、列をなして横たわり…その、すべての頭が、白い根のほうを向いていた。眠りに就く形で。**待つ、形で**。傍らには、素焼きの、水の皿。どの皿も、空だった。
「…渇いて、果てたんじゃ、ねえな」と、ガルドが低く言った。「…順に、逝ってる。若い骨が、年寄りの骨を、並べ直した痕がある。最後の一人まで、誰かが、誰かを、並べてる」
ジャベの杖が、床を探りながら、根の際へ進んだ。白い面の裾に、彫りがあった。名だった。壁面の低い所に、ぐるりと、幾百の名。翁の指が、その彫りをなぞり…止まった。二又の舌が、震えた。
「…この、手癖」と、彼は言った。「…儂は、この彫りを、識っておる。里の名の壁と…**同じ、手癖じゃ**」
同じ、根の民だった。
幾星霜の昔。一つの民が、二つに分かれたのだ。一方は、地の上、迎えの道の傍らに里を結び…「帰る者を、迎える」ために。一方は、地の底、道の根の傍らに残り…**水の帰るのを、待つ**ために。上の壁に、八百と十四の名。下の根に、幾百の名。二つの壁は、幾星霜、互いを識らぬまま、同じ約定を、両側から抱いていたのだった。
名の列の、最後の一つは…彫りかけで、終わっていた。
最後の一人を、並べる者が、いなかったのだ。おのれの名を、半ばまで刻んで、鑿を置いた誰か。ミラが、その、途切れた彫りの前に膝を突き、声もなく泣いた。ナイラと雫の民は、立ち尽くしていた。量りからこぼれた者らが…幾星霜前の、待ち続けた者らと、同じ床に立っていた。
ジャベが、骨の列に向き直った。
杖を置き、砂の民の作法で、両の掌を地に着け…誦えた。しわがれた声が、乾いた大広間に、低く渡っていった。
**…水は、誰のものでもなく、渇く者のものである。序を、守れ。量りを、違えるな。…約定された水は、必ず、来る。**
まことの誦えが、まことを守って果てた者らの上を、初めて、渡った。青い灯が、骨の列の上を、ゆっくりと一巡りした。弔いの灯篭のように。
キサーラは、白い根の前に立った。
彫られた名の列の上。ちょうど、人の立って、手を伸ばす高さに…それは、あった。円い、継ぎ目。白い肌に、糸ほどの細さで閉じた、円い輪郭。かつて、水が、ここから渠へ注いでいた口。今は、閉ざされた、白い、瞼のような…**門**。
その、円い縁に、七つの小さな印が、環をなして刻まれていた。
キサーラは、目を閉じた。地の底の、あの、乾いた声を呼び起こす。一語も違えず、譲り渡された、七つの門の、まことの名と、開ける順と、まことの祈り。その、第一のものを。…胸の内で、八百と十五の名が、静かに並び直すのが、判った。上の壁の名も、いま、この背後の幾百の名も、皆、この一声を待って、果てたのだ。
これは、祈りではない。**復命**だ。
琥珀が、熱い。遠い半身が、遥かな星の彼方で、身を乗り出している。ガルドが、ロウが、ミラが、セレナが、ドレクが、ジャベが、ナイラが、雫の民が…幾百の待ちびとの骨が、彼女の背を視ていた。
幾星霜の静寂が、耳を澄ませた。
キサーラは、唇を、開いた。




