第九章 緑の海 六節
六節
ナイラの下知は、早かった。
「…奥へ。皿は、捨てな。**水は、また、滴る。命は、滴らない**」
雫の民が、闇の奥へ流れ始めた。走らない。この民は、逃げることにも練れていた。音を殺し、壁を伝い、幼い者と老いた者を、真ん中に。その、いちばん遅い、ひとかたまりの上に、ミラとセレナが帳を広げた。夜の色の布が、幾十の熱と、匂いと、怯えた鼓動とを…眠らせた。
残る者は、渠の、道が三つに分かれる、広間めいた合流に立った。ドレク。ロウ。ジャベ。ガルド。そして、キサーラ。
「…見えるか、爺さん」と、ロウが囁いた。
「見えるとも」ジャベの閉じた瞼が、渠の上手へ向いていた。「熱の眼にはな、この闇も、人の身は、灯のように、映る。…じゃが、あやつらは、映らぬ。熱が、ないのじゃ。歩いてくる、人の形の…**冷たい、穴が、二つ**」
灯りが、先に来た。
狩人たちの掲げる灯では、なかった。彼らの装いそのものが、光っていた。一人は、孔雀の尾に似た、意味のない、豪奢な飾りを背に負い、その羽の一枚一枚が、青白く燃えていた。一人は、嗤いの形の面。面の目と口の切れ込みから、同じ青白い光が洩れていた。狭い渠には、あまりに場違いな、祭りの色だった。そして、面の者の手には、鎖…鎖の先の、光の檻。檻の中で、小さな、青い揺らめきが、狂ったように跳ねていた。
水の精靈…だった。湿りを嗅がされているのだ。雫を頼りに生きる民を、雫で探させるために。…消えた七人の消え方が、そこにあった。
孔雀の者が、足を止めた。渠の皿の列に目を落とす。幾旬もかけて、一滴ずつ溜められた、命の皿を。彼は、その一枚を、爪先で軽く返した。水が、黒い石に吸われて消えた。
「…妙な、住まいだ」と、その声は言った。若く、澄んで、退屈していた。「巣、と呼ぶべきか。…おい、名乗ってやれ」
嗤いの面が進み出て、芝居がかった一礼をした。
「…**宵闇の連峰を統べ、百の谷に哭かれし、常しえの…**」
「長え」
ロウが、跳んだ。
名乗りの途中を、狼の爪が裂いた…否、裂いたはずの、面の男の姿が、そこになかった。半歩。ほんの半歩だけ、ずれた所に立っている。慌てた足の運びではない。踊りの足だった。面の嗤いが、深くなった気がした。
「…作法を、知らぬ獲物だ」
「良いではないか」と、孔雀が嗤った。「作法を知らぬ獲物ほど、躾け甲斐がある」
そこからは、渦だった。
光の細い縄が、二筋、三筋、闇を走った。月の得物…触れれば、並の得物なら断たれ、並の身なら、縛られて終わる。だが、ドレクの山刀が、その一筋を受けて…**断たれなかった**。青白い縄と噛み合った刃筋に、金の微かな燐光が走り、縄のほうが弾かれた。孔雀の声から、初めて、退屈が消えた。
「…ほう。**折れぬ**」
「折れねえよう、打ったんでな」と、闇の中からガルドの声が応じた。彼は、刃を交えなかった。壁際に退き、鎚の頭で、こつ、こつ、と、渠の石の肌を叩いて回っていた。まるで、戦の外の検分屋のように。
ジャベの声が、拍子を刻んだ。「…右じゃ、狼。穴が動いた。…娘の後ろ、上手から、縄が二筋」。熱の穴は、隠形を許さない。セレナの歌が低く渠に流れ、走る縄の精靈の乱れを読んで、来る筋を報せる。狼が跳び、渡り手が受け、翁の杖の仕込みの刃が、縄を払う。誰も、狩人の身には届かない。届かなくて、いい。**退け庇い、逃がす**。刃は、そのためにだけ、打たれていた。
「つまらんな」…と、銀仮面が言った。声に、笑いが滲んでいた。少しも、つまらなそうではなかった。「…いや。**面白い**。逃げ隠れる鼠かと、思えば。…巣に、牙を、蓄えていたか」
それが来たのは、その時だった。
孔雀の背の羽が、一枚、音もなく抜かれ…青白い、光の鏃となって、放たれた。狙いは、戦の輪の外。渠の分かれ道の口で、民の殿を見送っていた…ナイラ。
量り手の目は、それを視た。視て、避けられぬことも量れた。
影が、割り込んだ。
ドレクだった。考えた足ではなかった。届くはずのない間合いを、身体ごと投げ出して、ナイラの前に…胸から突っ込んだ。青白い鏃が、渡り手の胸板に突き立ち…
…**砕けた**。
鏃では…ない。胸の鱗が。蜂蜜色の光が、一瞬、渠の闇を昼にして、膨れ、青白い光を、内から解きほぐし、そして…細かな、金色の欠片となって、散った。ドレクの身体は弾き飛ばされ、石の床を転がり…転がりながら、もう、起き上がっていた。生きていた。左の胸の衣だけが焼け焦げて、その下の生身の肌が、無傷のまま、覗いていた。
六が…五に、なった。
「…ほう?」
孔雀の声が、初めて低くなった。遊びの声では、なくなっていた。
その、僅かな注意の逸れを…キサーラは、待っていた。
彼女は、戦の間、一歩も動いていなかった。ただ、伏せた睫毛の下で、視ていた。面の者の手の鎖を。鎖の先の檻を。檻を成す、光の輪の結び目を。三つ…いや、二つ。川の関では、畳んだ指を。
今は、伸ばした。
誰の目にも留まらぬ、二筋の指の動き。檻の結び目が…ほどけた。
光の輪が、花の萎むように開き、青い、小さな揺らめきが迸り出た。それは、一瞬、跳ね、渦を巻き…嗅がされ続けた湿りの方へは、行かなかった。闇の天井へ、高く逃れて、消えた。猟犬の鎖が、空になった。
面の嗤いが、ゆっくりと、キサーラへ向いた。
「…いま」と、その声は言った。囁きだった。「…**ほどいた**な?」
「…今だ、狼っ!」
ガルドの怒鳴り声と、鎚の一撃が重なった。検分屋の、こつこつは、遊びでは、なかった。彼は、探していたのだ。旧い渠の天井の、要の石を。幾星霜、水に洗われ、疲れて、待っていた、その一点を。錨の鎚が、寸分違わず、そこを打ち…ロウの双の爪が、続けて、同じ点を抉った。
渠が、鳴いた。
石の天蓋が、狩人たちと一行との間へ…雪崩れ…落ちた。土煙と轟きが渠を塞ぎ、青白い光が、石の向こうに閉ざされた。
崩れの向こうから、声が届いた。埃にも、石にも、少しも慌てぬ、澄んだ声が。
「…良い。実に、良い。**追い立てる狩りは、久しい**。…逃げよ、逃げよ。狩りはな、追うほどに、獲物が、肥えるのだ」
足音は、しなかった。ただ、冷たい穴が二つ、遠ざかるのが判った、と、ジャベは、後で言った。
…奥の闇で、勘定が行われた。
命は、欠けていなかった。鱗は、一枚、欠けていた。ガルドが、無言で、革袋から材を量った。あと、六たび分、と言った袋は、まだ、六たび分のまま…だが、編み直しには、火と、卓と、一夜が要る。帳も、今日、一日、働いた。今宵は、眠らせねばならぬ。守りのすべてが、息を切らしていた。
ドレクは、壁に凭れて、おのれの両手を見下ろしていた。まだ、微かに震えている手を。ナイラが、その前に立った。
「…なぜだい」と、元・量り手は問うた。声が掠れていた。「あんた、あたしの、名前も、ろくに知らないだろう。帳面にも、いない女だよ。…なんで、量りもしないで、飛び込んだ」
ドレクは、暫く黙って、それから、疲れた顔で笑った。
「…昔、俺も、帳面から、零れ架けたことがあってな。…その時、隣に、飛び込んでくれた奴が、いた。それだけだ。…量って、間に合う話じゃ、ねえんだよ、こういうのは」
ナイラは、何も言わなかった。ただ、床に散った、蜂蜜色の小さな欠片を一つ、拾い…量り手が、貴い分銅を扱う、あの手つきで、握り込んだ。
少し離れた、闇の中で。
キサーラは、独り、天井を視ていた。小さな、青い揺らめきが消えた、あの、闇の高みを。逃げよ、と、彼女は思った。もう、誰にも、鎖を握らせるな。…その祈りに、応えるように…闇の奥の奥、旧い水の道の、柱の根へと続く方角に、青い、微かな光が一つ、ぽつりと灯って、待っていた。
行き先を報せる、灯のように。
あるいは…借りを、返しに来た者のように。




