表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
80/136

第九章 緑の海 五節

挿絵(By みてみん)


五節


 量りの手は、翌る朝には、もう、宿へ届いていた。


 報せたのは、セレナだった。夜明け前、房の梁に宿っていた、小さな家の精靈(アーコン)が、怯えて(ささや)いたのだ。灰色の衣が、来る。帳面を二つ、抱えて、と。宿帳と、水帳。泊まった者の名と、飲んだ水の量りとを突き合わせる(あらた)めだった。数の合わぬ房は、開けられる。一行は、裏の木戸から、朝の巡礼の群れへ滑り込んだ。追われたのでは、ない。まだ、誰にも、疑われてすら、いない。ただ、この都では…**数えられること、そのものが、網**だった。


「…潜るぞ」と、ドレクが低く言った。「どこの街にも、底はある。帳面の届かねえ底が。…渡り手の、いろはだ」


 だが、その、いろはが、この都では通じなかった。半日歩いても、底が見えない。物乞いの座る辻がない。屑を拾う(わらわ)がいない。傾いだ長屋の一棟もない。都は、隅々まで、白く、乾いて、量られていた。ドレクの顔に、渡り手が道を見失った時の、あの、薄い汗が浮いた。


 見つけたのは、結局、ロウの鼻だった。


「…湿ってる」と、彼は言った。乾いた広場の隅。使われていない、古い石の水盤の裏側で。「石の下だ。…古い水だ。樋の水とは、匂いが、違う。…**量られてねえ水**の、匂いがする」


 水盤の裏の石畳が、一枚、浮いた。


 その下に…都の、もう一つの顔が、あった。


 旧い、涸れ(みぞ)だった。今の青銅の格子の走る樋よりも、遥かに古い。人の背丈より深く、幅広く、石の肌は黒ずんで、丸い。帝都が、帝都になるより、前…柱を建てた者らが掘った水の道だと、後で識れた。今の都は、その骸の上に、量りの網を被せて、建っているのだった。


 涸れ渠の闇を暫く行くと…雫の音が、した。


 皿だった。欠けた素焼きの皿が、渠の壁の染みの下に、幾つも、幾つも、並べて置かれ、天井の石の継ぎ目から滲む雫を、一滴ずつ、受けている。どの皿の水面も、揺れるほどには溜まっていない。その、皿の列の奥の仄暗がりに…人が、いた。痩せて、静かで、目ばかりがこちらを視ている、幾十の人が。


「…量り手の匂いじゃ、ないね」


 闇の奥から、女の声が言った。乾いた、けれど、崩れてはいない声だった。


「量り手は、灯を、持って来る。あんたたちは、灯より、先に、耳と、鼻で、歩いてる。…逃げてきたんだろう。上の帳面から」


 女は、ナイラと名乗った。


 齢の頃は、ミラの母ほど。灰色の衣を着ていた…いや、着ていたものの、成れの果てを。胸の蛇の紋は、糸で解かれた痕だけが残っていた。元、量り手だと、彼女は、隠しもせずに言った。


「二十年、量った。一滴も、違えずに。…最後の日に、一杯、違えた」


 語り口は、帳面を読み上げるようだった。務めを終えた、隣家の老爺。最後の水を受ける前の、三日の間…律法は、その三日、水を下さない。量りは、もう、返された後だから。老爺は、渇いて、譫言(うわごと)で、娘の名を呼び続けた。ナイラは、夜、おのれの量りから一杯、汲んで、飲ませた。


「翌る朝、帳面から、私の名が、消えていた。…罪状は、一つきりさ」


 彼女は、皿の列の雫を視たまま、言った。


「…**量りを、違えるな**」


 空気が動いたのは、ジャベだった。閉じた瞼の(おきな)が、杖を握り直し、一歩、前へ出た。二又の舌が、震えていた。


「…その言葉を。…その言葉を、この都は、そのように、使うのか」


「爺さんは、砂の人だね」ナイラの声に、初めて、僅かな揺れが混じった。「知ってるよ。あんたたちの、(とな)えが、元だってことは。量り手は、皆、知ってる。習うんだ、最初に。…渇きの掟は、砂の民が、天より、授かり、帝が、それを、律法に、鋳直された、って」


「鋳直された」と、ジャベは繰り返した。道標の彫り潰された文字をなぞった、あの指の震えが、声に移っていた。「…砂では、な、量り手の娘よ。量りは、渇く者の、ためにあった。掟が、民を、生かしておったのじゃ。…ここでは、あべこべじゃ。**民が、律法を、生かしておる**。一杯の水で、隣人を、生かした手が、罰せられる量りに…何の、まことが、あるか」


 闇の中の幾十の目が、(おきな)を視ていた。


 ナイラは、長いこと黙っていた。それから、問うた。量り手の正確さで。


「…あんたたちは、何者だい。西から来た、金の目の一党、ってのは…あんたたちの、ことだろう」


 隠しても、詮の無いことだった。頭布の下から、キサーラの黄金の瞳が、闇の民を一直線に視た。ざわ…と、皿の列の奥が揺れ…ナイラが、手で制した。


「…布告は、聞いた。匿う房に、水は下されぬ、とさ」彼女は、短く嗤った。「好都合だ。**ここには、はなから、下されちゃいない**」


 その夜、一行は、雫の民の火を囲んだ。


 語られたのは、この都の消え方だった。務めを終えた者は、最後の水を賜り、白い衣で、柱の第一の門へ送られる。柱に、召される、と、上では言う。帰ってきた者は、いない。墓は、ない。哭く声は、律法で慎まれる。…だから、この都には、朽ちる匂いがないのだ。ロウの、あの、鼻の答えが、ここにあった。死は、消えたのではない。**量られて、視えぬ所へ、流されている**だけだった。


「あたしらは、その量りから、こぼれた雫さ」と、ナイラは言った。「量られた水に、目減りがあるように、量られた都にも、目減りがある。あたしらは、その、目減りの中で、生きてる。…だがね。近頃、その、こぼれた雫が…**乾き始めてる**」


 消えるのだ、と、彼女は言った。渠の民が。一人、また一人。上の浚いなら、灰色の衣と、灯とで来る。それなら、判る。逃げられもする。だが、これは、違う。灯も、音もなく、ただ、朝、皿の前に、人がいなくなっている。ここ、ひと月ほどの間に、七人。


 ミラの背筋が、冷えた。西の門の埋もれた者らの路地で聞いた話と…寸分、同じ形をしていた。


「…ナイラさん」と、キサーラが静かに問うた。「消えた方たちに、報せは、立ちましたか。魔獣の仕業だとか。流行り病だとか」


「…いいや」ナイラは、首を振った。「それが、いちばん、薄気味悪いのさ。報せすら、立たない。…あたしらは、帳面に、いないからね。**いない者は、消えても、消えたことにならない**」


 報せの要らぬ狩り場。仕立ての要らぬ獲物。…西の門では、メルカルトの縫い針が、まだ、狩りの痕を隠していた。ここでは、律法そのものが、痕を先回りして消している。狩人にとって、これほど都合の良い庭は、あるまい。キサーラの額の奥で、琥珀が、鈍く疼いた。


「…ナイラさん。もう一つだけ」


 キサーラは、渠の闇の奥を指した。雫の皿の列が途切れた、その先。黒い、丸い、石の喉が続いている、その先を。


「この、旧い水の道は…どこまで、通じていますか」


 ナイラは、キサーラの金の目を、暫く、量るように視ていた。それから、答えた。


「…柱の根まで。渠は、みんな、そこから、伸びてる。旧い水は、みんな、柱の裾から、来てたのさ。…七重の垣なんてもんは、後から、上に、建った蓋だよ。**水の道に、垣は、ない**」


 闇の奥の奥で…雫が一滴、皿に落ちた。


 その、澄んだ音に被さるように。渠の遥か、入口のほうから、別の音が届いた。石畳の浮く音。それから…静けさ。足音のしない静けさが、渠の闇を、こちらへ下りてくる。


 ロウが、立ち上がった。全身の毛が、逆立っていた。


「…来やがった。…**匂いの、しねえやつが**。…二つだ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ