第九章 緑の海 四節
四節
帝都には、門より先に、音があった。
鐘だ。夜明けの薄闇の底、盆地へ降りてゆく坂の遥か下から、それは湧いてきた。一つでは、ない。幾十の鐘が、寸分違わず、同じ刻に、同じ数だけ打たれて、重なる。谺すら、揃って還ってくる。ロウの耳が、伏せられた。
「…揃いすぎだ。…鐘ってのは、もうちっと、ずれて鳴るもんだぜ。人が、撞くんならな」
坂を下るほどに、道連れが増えた。
巡礼だった。北から、東から、幾筋もの道が、盆地の縁で、あの石畳に合わさり、白い頭布の群れとなって、都へ注いでゆく。跪きて、進め…道標の命じるままに、幾歩かごとに膝を折り、額を石に寄せては、また、立つ。一行は、その流れに紛れた。ミラが市で購った頭布が、キサーラの金の髪と、額の琥珀を覆った。伏せた目で、彼女は歩いた。帰る者を、迎えるための道を…跪く者の姿を借りて。
城門には、卓が並んでいた。
量り手たちだ。水甕を戴く蛇の紋を胸に着けた、灰色の衣の官吏が、入る者を一人ずつ、卓に迎える。名。在所。数。目当て。答えは帳面に走る。ジャベが、一行の先に立った。砂海の道読み。巡礼の案内人。閉じた瞼の沙蛇の翁を、量り手は疑わなかった。祈りの道に、砂の民の案内人は珍しくないのだと、後でジャベは言った。「珍しくないほど、里の外の同胞が、この道で食うておるということじゃ」と、低く付け足して。
帳面の次に来たのは…水だった。
卓の脇の大甕から、量り手が、一人にひと掬い、青銅の枡で水を汲み、差し出す。〈帝の水〉と、彼らは呼んだ。門をくぐる者は、まずこれを飲む。飲む前に唱える。卓の上の石版に彫られた文言を。
**…水は、誰のものでもなく。ゆえに、天のものである。天の量りを、地に預かるは、帝である。**
ミラが、唱え飲んだ。ドレクが、ロウが、セレナが、キサーラが…続いた。そして、ジャベの番が来た。
彼は、枡を両手で受けた。閉じた瞼が、石版のほうへ向いた。読めぬはずの彫り文字を、読むように。皆が待った。長いと、量り手が思うより、僅かに手前で…嗄れた声が、唱えた。一語も違えずに。抑揚のない、乾いた砂のような声で。飲み干して、枡を返した。
門を抜けて、暫く歩いてから、ミラは見た。ジャベの両の拳が、袖の中で、まだ固く握られたままであるのを。彼女は、何も言わず、ただ、その袖の傍らを歩いた。
「…前の半分だけ、まことじゃ」
ややあって、ジャベが、誰にともなく言った。
「水は、誰のものでもない。…そこまでは、我らの誦えと同じ。寸分、同じ。…その、まことの尻に、嘘を…継ぎ足しおった。誰のものでもないゆえ、天のものじゃ、と。天のものゆえ、帝が量る、と。…のう、学のある者らよ。儂は西の門で、お前たちの話に聞いた、あの、報せの織り手を、思うておるわ。まことの糸で、嘘を縫う。…最も、解き難い縫い方じゃ」
都は…満ちていた。
水の音が絶えなかった。塩ノ原を…渇きを…抜けてきた身には、それは…まず、驚嘆に値する豊かさ…に聞こえた。通りという通りに石の樋が走り、澄んだ水が、音を立てて流れてゆく。けれど、目が慣れてくると、見えた。樋の口という口に嵌められた、青銅の細かな格子。流れを量る、幾つもの刻み枡。水を汲んでよい刻を…報せる、小さな鐘。誰も樋に、直には手を入れなかった。水は、溢れるほどに在り…そして、一滴も、量られずには、流れていなかった。
人々は肥えて、穏やかで清潔だった。物乞いがいない。喧嘩の声がない。市は、有った。だが、西の門の、あの、値を競い、声を張り上げる市では、なかった。値は札に彫られ、誰も競らない。売り手も、買い手も、量りの目盛りを視ているだけ。ドレクが、通りの隅々へ渡り手の目を走らせて、首を振った。
「…掏摸がいねえ。賭場がねえ。…夜逃げの、匂いがねえ。…こんな街、俺は、初めてだ」
「匂いなら、まるでねえよ」と、ロウが鼻に皺を寄せた。「人が、これだけ居るのにだ。…飯の匂いも、汗の匂いも、薄っすい。腐るものが、ねえんだ。…森と、あべこべだぜ。あっちは、生きるのと、朽ちるのが、混ざって、あんなに、濃かった。…ここは、生きてるはずなのに…朽ちる分が、ねえ」
三つ目の鐘が鳴った時、都が、一斉に止まった。
通りのすべての人が、荷を下ろし、柱のほうへ向き直り、膝を折った。慌てる者も、渋る者もいない。水が、格子で堰かれるのと同じ静けさで、人の流れが堰かれ、跪いた。一行も、頭布の群れの中で膝を折った。石の壇の上から、声が、律法を読んだ。今日の水の量。明日の務めの割り。生まれた者の数と、務めを終えた者の数…死んだ、とは、言わなかった。
跪いた額の下で、キサーラは、その声を聴いていた。
揺れない声だった。倦まない声だった。幾つもの壇の、幾人もの読み手の声が、都のあちこちで重なっているのに…抑揚の山と谷が、寸分揃っていた。鐘と同じだ。人の喉を借りてはいても、あれは、人の読みではない。読ませている大元が、一つ、ある。疲れを識らぬ何かが。ナブーの無数の声と、同根の…けれど、あの、書庫の埃っぽい温みとは、似ても似つかぬ、乾いた…白き不動の…存在。
この都は統べられている。隅々まで…一滴まで…
(…お会いするのは、まだ、先です)
彼女は、伏せた睫毛の下で、静かに思った。(今は…届け物が、先)
柱の裾へは、夕刻、巡礼の列に就いて、寄った。
近づくほどに、それは、建物であることをやめていった。白い、崖だった。天蓋のない、白い山だった。首を限りまで反らせても、中ほどの雲の輪までしか、目は届かぬ。その根元を、七重の白い垣が、環をなして囲んでいた。垣ごとに、門。巡礼が許されるのは、いちばん外の、第一の門の前庭まで。人々は、そこで、磨り減った敷石に額を着け、祈りを置いて、帰ってゆく。幾星霜の額が、敷石を鏡のように磨いていた。
刻限が来ると、門の上の回廊に、白い衣の司祭たちが並んだ。
そして、謡い始めた。第一の門の祈りを。
キサーラは、頭布の陰で、目を閉じた。地の底の、あの乾いた声が、一語も違えず譲り渡してくれた、まことの祈りを、胸の内で、司祭たちの声に重ねてゆく。…似ていた。骨組みは、同じだった。けれど、幾星霜の口伝えが、音を崩していた。角が丸まり、音が隣の音へ流れ、切るべき息が繋がっている。子守唄を、意味も知らずに歌い継いだ、遠い子孫の歌だった。
それでも…門は、聴いていた。
誰も、気づかない。けれど、キサーラの目は、視た。謡の、ある一節が過ぎる、その刹那。第一の門の、継ぎ目なき白い肌の奥深くを、糸のような微かな光が、一条、走って…掻き消えるのを。呼ばれて、寝返りを打つ者のように。惜しいところで届かぬ名を、呼ばれ続ける、眠りのように。
(…生きている)
琥珀の奥で、遠い半身が、息を詰めるのが、判った。
(門は、まだ、待っています。幾星霜…正しい声を)
その、正しい声を、いま、この胸だけが抱えている。八百と十五の名と、共に。キサーラは、磨かれた敷石に、皆と同じに額を寄せた。跪く姿の、その内側で、それは、祈りではなく…**復命の予行**だった。
異変は、宿に戻った夜に、来た。
巡礼宿の狭い房で、乾いた麺麭を齧っていた時だ。通りが、ざわめいた。ざわめき、というものを、この都で聞くのは、初めてだった。ロウが、窓の鎧戸へ素早く寄り、隙間へ目を当て…動きを、止めた。
太鼓と篝火の列が、大路を、柱のほうへ上ってゆく。沿道の民が、われ先に跪く。歓びの声すら、上げて。列の中ほど、輿も、馬も用いずに歩む影が…四つ。銀色だった。篝火を浴びても、その銀は、温まらなかった。一つは、孔雀の尾のような、意味のない、煌びやかな飾りを背に負い、一つは、面を着け、その面が、嗤いの形に造られていた。
布告の声が、太鼓の合間に、通りへ響いた。
…月より、英傑がたの、降られたるを、告げる。都の穢れを、検め、浄めたもうため。心当たりある者は、申し出よ。西より、来たりし、旅の一党。金の目の人の形をした、何かを、連れたる者ども。…匿う房に、水は、下されぬ。
鎧戸の隙間から、ロウが、顔を離した。低い声が、唸りを噛み殺していた。
「…四人だ。それとな。…**血の匂いが、しねえ**。あんだけ、飾り立てて、歩いてやがるのに、だ」
誰も、暫く、口をきかなかった。麺麭を置く、微かな音だけが、した。窓の外、太鼓は遠ざかり、都は、また、あの完全な静けさへ戻ってゆく。水の音だけが、量られながら、流れている。
キサーラは、鎧戸の隙間の、その先…柱の白い肩に掛かる月を、視た。
細かった月が、もう、僅かに、太り始めていた。




