第九章 緑の海 三節
三節
船旅の終わりは、川の曲がりだった。
「ここから、先は、大河は、西へ、逸れる」と、船主は言った。「柱へ、行くなら、南へ、まっすぐ…**緑の海を、突っ切る**しか、ねえ。…俺の船は、ここまでだ」
銭を払い、荷を下ろし、別れ際に、白髪の船主は、初めて、訊かれもせぬことを、もう一つだけ言った。
「…何も、訊かなかったし、何も、知らねえ。だがよ。…緑の海じゃ、川の礼儀は、忘れな。**森は、森の礼儀だ**。取る前に、断れ。通る前に、名乗れ。…森は、耳が、いいからよ」
そして、緑の海は…言葉の通りだった。
岸から一歩、樹々の下に踏み込んだ、その途端。世界の音量が、変わった。頭上、遥かに、幾層にも重なる葉の天蓋。射し込む光は、緑に濾されて、水底のよう。鳥の声、虫の声、遠くで何かの吼える声、滴る水、軋む幹…音の絶える隙が、ない。そして、匂い。生きているものと、朽ちてゆくものとが、境目なく混ざり合った、濃い、湿った匂い。
セレナが…泣き笑いのような声を、あげた。
「…いっぱい」愛爾芙の長い耳が、震えていた。「精靈が…どこもかしこも、精靈だらけ。…歌ってる。何百も、何千も、いっぺんに。ああ、うるさい、うるさい…なんて、嬉しい」
砂海で、絶えかけた小さき者らを一つずつ数えてきた精靈読みには…それは、飢えた者が、市の食い倒れ通りに放り込まれたに、等しかった。
逆に、ジャベは…日ごとに、口数が減った。
乾いた砂の道読みの眼は、この湿った緑では、半ば閉ざされた。砂の下の骨は、ここでは、根と腐葉土の底。熱視の眼は、あまりに多くの命の熱で、白く霞む。そして、何より…湿気が、彼の乾いた身体に、重くまとわりついた。三日目の夜、焚き火の傍らで、ジャベは、掠れた声で笑った。
「…のう、学のある者らよ。儂は、いま、身をもって、識ったわ。…**水も、過ぎれば、渇きと、同じ**じゃな。息が…溺れる」
「無理は、するな、爺さん」と、ロウが、ぶっきらぼうに言った。彼は、この森で、水を得た魚だった。「道は、俺と、蜘蛛の姐さんで、読む。あんたは、砂で、俺たちを、生かした。…森じゃ、俺たちが、あんたを、生かす。番ってのは、そういうもんだ」
群れ、と言いかけて、番、と言い直したのを、誰も指摘しなかった。
焼き直しの卓が開かれたのは、その夜だった。
森の岩の窪地。ガルドが、半日かけて炭を焼き、セレナが、森の火の精靈に…礼を尽くして断りを入れ、名乗りを上げてから…火床の熱の番を頼んだ。小さな、赤い精靈は、面白がって引き受けた。鞴なしで、炭火が白く唸る。にわか仕立ての、森の鍛冶場だった。
卓に載ったのは、四つ。
ドレクの渡り手の山刀。ロウの革の手甲…爪の拳の受けと、握りの芯金。ジャベの道読みの杖の石突きと、仕込みの短い刃。そして…ガルド自身の、鎚。
手順は、灯を直した夜と、同じで、まるで違った。ガルドが、火と鎚で鉄を目覚めさせ、その赤らんだ肌に、キサーラが、金の糸を…髪の毛よりもなお細い、光の糸を…刃筋に沿って、幾条も、幾条も、**編み込んで**ゆく。鉄の内側へ。焼きの熱が、糸を鉄に馴染ませる。セレナの歌が、火の精靈の機嫌を保つ。三位が、一つでも欠ければ、成らぬ仕事だった。
「…いいか、勘違いするなよ」打ちながら、ガルドは言った。弟子に教える口調だった。誰が弟子かは、言わなかった。「こいつらは、**月の得物と、渡り合っても、折れず、欠けず、鈍らねえ**。月の細工の物…錠でも、鎖でも、絡繰でも…断てる。…だがな。月の縁者の、**身は、討てねえ**。俺が、そう、打ったからだ。そういう風に、しか、打たなかったからだ」
「…なぜ、って、訊いても、いいか」と、ドレクが言った。
「客が、そう、注文したからよ」ガルドは、鎚を置かずに、顎でキサーラを指した。「文句なら、あっちだ」
キサーラは、糸を編む手を止めぬまま、静かに言った。
「…銀の狩人たちは、かつて、人だったものの、成れの果てです。彼らを、討ってよいのかどうか…その答えを、私は、まだ、持っていません。持っていない答えを、刃物に、先に、出させるわけには、いかない。…だから、この刃は、折れない。それだけです。折れなければ…あなたたちは、退けます。守れます。逃がせます。**生きて、選び直せます**。討つ力より、選び直せる力のほうが、強い。…私は、そう、教わってきましたから」
焚き火の爆ぜる音だけが、暫く続いた。
「…上等だ」と、ロウが言った。それで、その話は、終わった。
最後に、ガルドは、おのれの鎚を、火に入れた。
この一本だけは、誰にも手伝わせなかった。いや…キサーラの糸だけは、受けた。けれど、打つのは、最初から最後まで、彼、独りだった。打ち上がった鎚は、見た目には、何も変わらなかった。古びて、柄は汗で飴色で、頭には幾十年の打ち傷。ただ、ガルドが、その鎚で、キサーラの腕に…光の糸の露出した、あの繊細な筋に…そっと、触れた時。
鎚は、弾かれなかった。
「…触れた」ガルドの声が、僅かに掠れた。「星降りの、素材に。…道具が、届きやがった」
繕える。もっと、深くまで。野の真ん中でも。そして…月の細工の錠が、七つの門で待っていようとも。
「錨の鎚、じゃな」と、ジャベが名をつけた。「流される者を、繋ぎ止める、鎚じゃ」
仕舞いに、ガルドは、火床の残り火へ目をやった。それから、樹々の天蓋の切れ目に僅かに覗く、夜空へ。細い、細い、三日月が、そこに掛かっていた。
「…効きは、**月が、ひと巡りする間**だ」と、彼は言った。「今宵の、あの月が、痩せて、消えて、太って、満ちて…また、あの細さに、戻る夜。焼きは、冷める。帳も、鱗も、刃も、みんなだ。…そこから先は、ただの、良い道具に、戻る」
「…月に、備える支度が」ミラが、空を見上げて呟いた。「…月の暦で、尽きるんですね」
「皮肉が、利いてるだろ」ガルドは、笑わずに言った。「…**急げ**、ってことだ」
翌る朝から、一行は、緑の海を南へ進んだ。
ロウが獣道を拾い、セレナが精靈たちに道を問うた。森の礼儀は、守られた。取る前に断り、通る前に名乗る。森は、耳がよく…そして、名乗る者には、思いのほか寛かった。
五日目。
森の只中で、一行は、それに行き当たった。
道、だった。緑の海を南北に貫く、石畳の古い、まっすぐな道。両の側に、等間隔で石の柱が立ち…巡礼の道標だった。ジャベが、その一本に歩み寄り、閉じた瞼を寄せて…動きを、止めた。
「…どうした、爺さん」
「…見よ」ジャベの指が、道標の面をなぞった。「上に、彫られておるのは、帝の文字じゃ。**祈りの道…跪きて、進め**、とある。…じゃが、その下。彫り直された、傷の底に。…古い文字が、残っておる。我らの、祖の文字が」
「…何て、書いてあるんです」と、ミラが問うた。
ジャベは、暫く黙っていた。指先が、震えていた。読めたのだ。彫り潰された、その底の一行が。
「…**帰る者を、迎える道**」
と、彼は言った。
「…ここは、跪く道では、なかった。…天へ、発った者らが、いつか、帰ってくる。その者らを、**迎えに、往くための道**、だったのじゃ」
鋳直された掟が…石に刻まれて、そこにあった。
一行は、石畳を避け、その道に沿う森の翳りを、南へ進んだ。道標は、幾里ごとに現れては、過ぎた。跪きて、進め。跪きて、進め。…その、すべての足元に、彫り潰された「迎える道」を隠したまま。
そして、七日目の夕暮れ。
樹々が、ふいに切れた。
眼下に、盆地が開け…その、真ん中に、**それ**は、立っていた。
もう、細い線では、なかった。天蓋を突き破り、夕焼けの、雲の遥か上へ…雲が、その中腹に、輪になってまとわりついていた…視界の上端を越えて、なお続く、白い、白い、一本の。裾野には、灯が幾万と、瞬き始めていた。都だった。柱の裾に、へばりつくように、環をなして広がる、巨大な都。
世界蛇の背骨と…その根元を締める、帝都。
「…着いたぞ」と、ロウが言った。声が、無意識に低くなっていた。
キサーラは、黙って、柱を見上げていた。目で、追って、追って、首が痛むまで追っても、その天辺は、夕闇に溶けて、見えなかった。あの、遥かな果てに…約定を破った者たちが、いる。そして、その遥かな手前、彼女の胸の内に…届けるべき、八百と十五の名前が、あった。
細い月が、柱の肩の上に、掛かっていた。
刻限の、月だった。




