表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
77/136

第九章 緑の海 二節

挿絵(By みてみん)


二節


 (とばり)が織り上がったのは、七日目の夜半だった。


 広げれば、船の荷の一隅をすっぽりと覆えるほどの、大きな一枚の布。色は、はっきりとしない。夜には、夜の色に、荷の陰では、陰の色に見えた。川霧の糸と、乾眠の鱗の理と、金の光糸…三つの材が、セレナの歌で撚り合わされて、そこにあった。


 試しは、簡単だった。


 ロウが、帳の下に潜った。セレナが、目を閉じ、精靈(アーコン)の耳で探した。…いない。ロウの、あの、獣の熱も、匂いも、気配のざわめきも、帳の下からは、何も立ちのぼってこない。まるで、そこに、眠りが一枚、敷かれているようだった。


「…こいつは」ロウが、帳から顔を出して、鼻に(しわ)を寄せた。「中にいると、妙な心持ちだぜ。…自分の匂いが、しねえ。自分が、薄まっちまったみてえだ」


「乾眠の理じゃ」と、ジャベが言った。「眠る沙蛇は、砂と、見分けが、つかぬ。息も、熱も、気配も…**在って、無い**。…それを、布に、教えたのじゃな」


「ただし」と、キサーラが、静かに条を付けた。「この帳は、使えば、疲れます。ひと日、気配を眠らせたら、ひと晩、帳自身を、眠らせないと。…続けては、利きません」


 (うろこ)も、成った。


 六枚。親指の先ほどの、小さな、鱗の形の守り。琥珀(こはく)の粉と、光糸を幾重にも編み込んで、鈍い、蜂蜜の色に光る。肌に直に当てて、紐で胸に下げる。ミラ、ドレク、ロウ、セレナ、ガルド、ジャベ…死すべき六人の、胸に。


「言っておくが、こいつは、鎧じゃねえ」ガルドが、一人一人の紐の結びを検めながら、念を押した。「**一度きり**だ。月の得物の致命の一太刀を…一度だけ、解いて、砕ける。二の太刀は、もう、生身だ。…編み直しの材は」彼は、革の小袋を、掌の上で量った。「…あと、六たび分。それきりだ。安売りするんじゃねえぞ。命の値でだけ、使え」


 あと、六たび。


 その勘定は、口にされぬまま、全員の胸の底に沈んだ。


「なあ、嬢ちゃんの分は」と、ドレクが問いかけ…ガルドの目で、止まった。キサーラ自身が、静かに首を振った。


「私には、要りません。…私を、傷つけられるものは、この守りでは、どのみち、防げませんから」


 半分は、まことだった。残りの半分を、ガルドだけが識っていて、黙っていた。


 翌る日の昼前。川が、それを運んできた。


 流れが緩み、前をゆく船影が増え…やがて、見えた。川幅の狭まる、岩の瀬。その両岸から、鎖と浮きの太い仕切りが、川を横一文字に塞いでいた。仕切りの中央に、一箇所だけ、船の通れる、口。岸には、石の詰め所。(のぼり)には、水甕を戴く蛇の紋…帝の水律法の印。


「…川の関だ」船主が、初めて、問われもせぬのに口をきいた。低い、乾いた声で。「先月までは、なかった。…荷の間に、入んな。**何も、訊かねえ**、と言ったろう。…訊かねえもんは、答えようが、ねえからよ」


 一行は、穀物の袋の谷間に身を伏せた。その上に…帳が、広げられた。


 船の列は、遅々として進まなかった。検めの声が、水面を渡って近づいてくる。荷を検める鉤竿(かぎざお)の音。誰何(すいか)の声。そして、その、人の声たちのあいだに…**それ**は、混じっていた。声を出さぬのに、そこに在ると判ってしまう、あの、静かすぎる気配が。


 帳の薄い織り目、越しに。ミラは、見てしまった。


 詰め所の桟橋に、銀色が二つ、立っていた。人の形。人の丈。けれど、人の立ち方では、なかった。疲れも、退屈も、重心の揺らぎもない…置かれた道具の立ち方だった。そして、その一方の手には、鎖。鎖の先に…鳥籠に似た、光の(おり)


 檻の中で、何かが、身を(よじ)っていた。


 小さな、光。風の精靈(アーコン)の成りかけのような、淡い揺らめき。それが、細い光の輪に幾重にも縛められて、檻の中を、右へ、左へ、休みなく、突き当たっては、跳ね返されている。探せ、と、命じられているのだ。嗅ぎ出せ、と。精靈(アーコン)を、猟犬に(おとし)めた…縛られた精靈(アーコン)だった。


 キサーラの指が、動いた。


 ほんの、僅か。袋の陰で、誰にも見えぬほど、僅かに…解く手の形に。あの縛めなら、解ける。糸の結び目は、ここからでも視えている。三つ、いや、二つ、ほどけば、あの子は、自由に…


 指は、そこで、止まった。


 解けば、檻が破れる。破れれば、狩人が気づく。気づけば、帳も、船も、船主も、六枚の鱗も、そして、届けると誓った八百と十五の名も…すべてが、この川の関で、終わる。


 キサーラは、指を畳んだ。ゆっくりと。拳の形に。


 船の番が、来た。


 詰め所の役人が乗り込み、鉤竿で袋を突いた。一突き、二突き。袋の谷の、すぐ(きわ)を。ロウの喉の奥で唸りが生まれかけ…ドレクの手が、その首すじの毛を、静かに押さえた。ミラは、自分の心の臓の音が、帳を突き破るのではないかと思った。けれど、帳は…すべてを、眠らせていた。熱も、匂いも、鼓動のざわめきも。


 桟橋の銀色の一方が、船縁に歩み寄った。


 覗き込みも、しない。ただ、立って…**聴いて**いた。檻の中の縛られた精靈(アーコン)が、ひときわ激しく身を揉んだ。光の輪に突き当たり、跳ね、また、突き当たる。狩人の顔のない顔が、檻へ傾く。読もうと、している。猟犬の騒ぎの、意味を。


 …けれど、それは、嗅ぎつけた騒ぎでは、なかった。


 ミラには、後から思えば、そうとしか思えなかった。あの小さな精靈(アーコン)は、探し当てたのでは、なくて…**呼んで**いたのだ。帳の下の、視えぬ誰かへ。気配は届かぬのに、それでも、そこに、いると…(ねが)いだけが、識っていた。助けて、とも、違う。ただ、いる、いる、と、跳ね続ける、あの必死は…


 狩人は、檻を一振り、した。


 精靈(アーコン)の光が、乱れて、縮んだ。騒ぎは、偽りと裁かれたのだ。銀色は、船に背を向け、次の船へ歩み去った。役人が通行の銭を受け取り、仕切りの口が開いた。


 船は…通った。


 誰も、長いこと、口をきかなかった。関が、川曲がりの向こうに消えても。帳が畳まれて、眠りに就かされても。


 夕暮れ、キサーラは、船首に独りで座っていた。


 ミラが、隣に来て、座った。何も、訊かなかった。訊かぬまま、川の民の礼儀のように、ただ、隣にいた。先に口を開いたのは、キサーラだった。


「…見捨てました。今日、私は」


 声は、静かで、そのぶん、深かった。


「解けたんです。あの縛めは。…指の届く、ところに、いた。呼んでいるのも、聴こえていた。…でも、私は、指を、畳んだ。八百と十五の名前と、六枚の鱗と、この船の、みんなを、秤に、載せて。…正しい勘定です。何度、やり直しても、私は、同じに、畳む。…でも」


「…でも、正しい勘定は、あの子を、助けない」と、ミラが引き取った。


 キサーラは、頷いた。金色の目が、暮れてゆく川面を視ていた。


 ミラは、暫く黙って、それから、言った。慰めの声では、なかった。帳面をつける者の声だった。


「…なら、覚えておきましょう。あたしたち、二人で。…風の子が、一人、川の関の檻の中。…借りは、返すものでしょう? あなた、約定を破らない側の人なんだから」


 キサーラは、ミラを見た。


 それから、ほんの僅かに…笑った。


「…ええ。帳面に、つけておきます。…取り立ては、必ず」


 船は、南へ下ってゆく。両の岸の緑は、日ごとに濃く、深く迫り…川風の匂いが、変わり始めていた。乾いた土の匂いが絶えて、代わりに、湿った、葉と、花と、腐って、また生まれるものの、濃い匂いが満ちてくる。


 緑の海が…近い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ