第九章 緑の海 一節
一節
水の匂いに、最初に気づいたのは、ロウだった。
砂海を南へ抜けて、七日目。乾いた岩の台地を下り続けていた、その夕暮れ。狼の鼻が、ふいに高く上がった。「…水だ」と、彼は言った。それから、自分の言葉を疑うように、もう一度、風を深く嗅いだ。「…違う。水、なんてもんじゃねえ。…**水の匂いしか、しねえ**」
翌日の昼。台地の最後の縁に立った一行は…それを、見た。
大河。
言葉が、あるのは、知っていた。ドレクは、渡り手の寄り合いで、南の大河の話を聞いたこともあった。けれど、目の当たりにした、それは…川では、なかった。少なくとも、彼らの識っている、川では。金色に濁った広大な水が、地平の右から、左へ、ゆったりと、うねりながら動いている。対岸は、霞んで、緑の影に見えるだけ。水面を風が渡るたび、幾千の細かな光が、砕けて散った。
誰も、口をきかなかった。
いちばん長く黙っていたのは…ジャベだった。
彼は、岸辺まで降りても、まだ黙っていた。二又の舌すら、出てこなかった。閉じた瞼を大河へ向けたまま、彫像のように立ち尽くして。やがて、その痩せた膝が、砂利の上に、ゆっくりと折れた。祈りの形では、なかった。ただ、立っていられなくなった者の、崩れ方だった。
「…量られて、おらぬ」
しわがれた声が、言った。
「…封も、されておらぬ。…序も、ない。…水が。水が、ただ…**流れて、おる**」
幾星霜、一滴を量って、分かち、蓄え、序を守って生きてきた民の目の前で…その掟の根の前提が、音もなく崩れていた。ミラが、そっと傍らに膝をついた。慰めの言葉を探して、見つからず、結局、こう言った。
「…飲んでも、いいんですよ。ここでは、誰も、量らないから」
ジャベは、長いこと動かなかった。それから、震える両手で川の水を掬い…掬う前に、あの誦えをした。水は、誰のものでもなく、渇く者の、ものである、と。誰にも量られぬ水を前にしてなお、彼は、誦えずには飲めないのだった。飲んで、彼は、笑った。乾いた、ひび割れた、それでいて、少年のような笑いだった。
「…のう、娘。儂は、いま、恐ろしいことを、考えておる。…この水を、あの砂海に、一掬いずつ、運べたなら…と。…掟は、身体に、染みついておるのじゃなあ。水が、余っておっても、儂の手は、まだ、量っておるわ」
「…それは、恥じることじゃ、ないと思います」と、ミラは言った。「量る手が、あったから…あたしたち、救われたんだもの」
船は、ドレクが見つけてきた。
河岸の小さな寄り場に、南へ下る、穀物運びの平船があった。渡り手の札は、この大河筋でも通じた。船主は、白髪の無口な川の民で、銭と、札と、そして「途中、何も、訊かぬこと」を値として、荷の間に、一行の場所を空けた。訊かぬのが、川の民の礼儀なのだと、ドレクは言った。「陸の道は、いま、うるせえらしい。…北の水の道の詰め所が、片っ端から、旅人を、検めてる、って話だ。…川は、まだ、静かだ」
まだ、という言葉だけが、棘のように残った。
船は、流れに乗り、南へ下り始めた。
そして、夜…荷の帆布の覆いの下で、それは、始まった。
三人の手仕事。
最初の卓に載せられたのは、武具では、なかった。布に幾重にも包まれた…**旧き灯**。隠れ里が餞に持たせてくれた、絶えて久しい灯の一つ。造れず、直せず、ただ守り方だけを幾星霜、伝えてきた、あの乳色の灯の、冷たくなった骸だった。
「…直して、返す」と、ガルドは言った。誰にともなく。おのれの指に、言い聞かせるように。「貰いっぱなしは、性に合わん。…それに」
彼の目が、細くなった。鑑定の目だった。
「…こいつを、直せた指は、あんたの身体の、もっと深いところも、直せるようになる。…そうだろう、嬢ちゃん」
キサーラは、頷いた。「ええ。…この灯と、私は…同じ言葉で、できていますから」
仕事は、静かだった。
ガルドが、灯の継ぎ目なき肌を、指の腹で読む。どこで、糸が切れているか。職人の勘が、当たりをつける。キサーラが、その箇所に指先を当て、目に見えぬ、細い、細い糸を…セレナにだけ、金色の微かな燐光として視えた…するり、するりと、手繰り、結び直してゆく。ほどく手の、逆の手。ガルドは、その指の運びを、瞬きも惜しんで見つめていた。見て、盗む。職人の学び方だった。
「…そこだ。いや、待て。…その結び、いま、あんた、**三度、撚った**な。二度じゃ、ねえ。なぜだ」
「切れた糸は、怯えているから。…二度では、また、ほどけようとする。三度目は、結びではなくて…約定、です」
「…約定、ときたか」ガルドは、鼻を鳴らした。それから、低く笑った。「いいや、わかる。…鎚でも、同じだ。折れた鉄は、怯えてやがる。焼き直しの、最後のひと打ちは、鍛えじゃねえ。…宥めだ」
三日目の夜。
灯は…点った。
乳色の柔らかな光が、帆布の下に満ちた。幾星霜ぶりに目を覚ました灯は、瞬きもせず、ただ、静かに光った。誰も、歓声を上げなかった。ジャベが、深く、深く、頭を垂れ、ガルドが、無言で、おのれの両の掌を見下ろしていた。その指は、もう、昨日までの指では、なかった。旧き素材の糸の文法を…言葉にはできぬまま…指が、覚えていた。
「…返しに行く日が、楽しみになったわい」と、ジャベが囁いた。
「その前に、だ」ガルドは、掌を閉じた。職人の顔に戻っていた。「…次の卓に、かかるぞ。嬢ちゃん、蜘蛛の姐さん、手伝え。…**帳から、だ**。追手より、先に、仕上がらねえと、洒落にならん」
帳の材は、三つ、だった。
セレナが、川の精靈たちに声をかけ、分けてもらった、水の糸…この大河の精靈たちは、砂海のそれとは、まるで違った。太り、機嫌よく、歌好きで、愛爾芙の歌への返礼に、霧のような細糸を、惜しげもなく寄越した。ジャベが脱いだ、おのれの古い鱗…乾眠の理が染みた鱗。眠りの間、身の気配を殺す、あの理が。そして、キサーラの糸。
その、三本目の糸を、彼女がどこから取り出しているのか。
気づいたのは…ガルドだけ、だった。
夜更け。皆が寝静まった、船尾で。キサーラが、袖の内に指を入れ、静かに、細い金の光を一筋、手繰り出すのを。それが、彼女自身の腕の内から…あの、光の糸の筋から、抜かれているのを。鑑定の目は、見てしまった。一筋抜くたび、彼女の指先の動きが、ほんの僅か、鈍ることも。
ガルドは、何も言わなかった。
言わずに、翌日から、彼の繕いの手当てが、一度、増えた。「歳だ。手慰みだ」と、職人は言った。キサーラも、何も言わなかった。帆布の下の小さな工房で、言葉にされない勘定が、一つ、静かに増えただけだった。
五日目の夕暮れ。
船が、大きな川曲がりにさしかかった時…ロウが、船縁で、ふいに頭を上げた。耳が、北へ立った。
「…どうした」と、ドレクが問う。
「…音だ。ずっと、後ろ。…北の岸」狼の目が、暮れてゆく上流の遥かを睨んだ。「…**角笛だ。人の吹き方じゃねえ**」
夕闇の川面の、遥か果て。北の岸辺に、一瞬…銀色の小さな光が、二つ、動いた。星の出には、まだ早い刻だった。
誰も、それが何か、口にはしなかった。する必要が、なかった。船は、流れに乗り、南へ…緑の影の濃くなるほうへ、下ってゆく。帆布の下では、帳の織りが、夜を徹して続けられた。
そして、六日目の朝。
朝靄の晴れた、南の地平に…それは、もう、隠れようもなく、立っていた。
天と地とを繋ぐ、一本の細い、細い、柱。朝の光を受けて、その、あまりの高さの、中ほどから上は、青く霞み、目で追い続けると、首が痛んだ。近づいているのだ。一日、川を下るごとに、確かに。
世界蛇の背骨。
ジャベが、船首で、静かに誦えた。約定された水は、必ず、来る、と。
その声は、もう、待つ者の誦えでは、なかった。…**届けに行く者**の、誦えだった。




