第八章 祈りの道 七節
七節
語りは、地表の刻で、夜通し続いた。
柱の裾の七つの門。そのまことの名。開く順。門ごとに捧げる、祈りの言葉…司祭たちが、意味も知らず、幾星霜、なぞってきた、あの祈りが、まことは何であるのか。長老は、一語も違えずに語った。壁の刻みを、指でなぞりながら。時折、声が途切れ、拍が遠くなり、ミラが息を詰め…また、続いた。残りの火を、惜しみなく薪にくべる語りだった。
語り終えたのは、地表に朝の来る刻だった。
「…これで、すべてじゃ」
声は、もう、囁きに近かった。白い鱗は、来た時よりも、なお透きとおって見えた。
「…眠る。…こんどの眠りは、長い。…たぶん、いちばん、長い」
覚めぬ、ということを、この民は、そう言うのだった。ミラの目に、涙が盛り上がった。長老は、それを熱の眼で視て、乾いた声で笑った。
「…泣くな、涙の娘。豊かな民じゃのう、お前たちは。…そのように、水を、こぼしても、よいとは」
それから、彼は、震える手を、石の台の縁へ…台の下の、あの暗がりへと伸ばした。ミラが、灯を寄せる。長老は、石の欠片を拾い、幾百年なぞり続けた、あの小さな一行の、その下に…新しい傷を、刻み始めた。浅く、震えて、けれど、確かに。
**…まことに、戻られるのか。**
その、問いの下に。
**…水は、来ていた。**
刻み終えると、石の欠片は、指からこぼれた。
「…ディンガ」と、彼は言った。「それが、儂の名じゃ。壁の八百と十四に…儂の名を、添えて、届けてくれ。…務めを果たした者の、いちばん、しまいに」
「…必ず」と、キサーラは言った。
ディンガは、頷き、ゆっくりと身体を丸め、眠りの姿に戻っていった。拍が、間遠になってゆく。どく…………………………………………………どく…………………………………………………………………………………………………と。眠りに落ちる、その間際に、彼の口が、微かに動いた。誦えるのでも、詫びるのでもない、安らいだ声で。
「…よい、朝じゃ」
地の底に、朝は、ない。けれど、誰も、それを違うとは思わなかった。
…里へ戻ると、キサーラは、老母の前に立った。
「発つ前に、一つ、報いさせてください。…掟は、報いねばならぬ、と、教わりましたから」
彼女が皆を連れて行ったのは、砂海の、あの窪地だった。ジャベと出会った、にじみ水の。老母と、長たちと、里の民が幾十人、暁闇の砂丘に、静かに集った。
キサーラは、窪みの砂に、両の掌を置いた。
あの、小さな、忘れられた精靈は、まだ、そこにいた。彼女は、呼び、そして…**問うた**。
声には、出さなかった。指先から、糸のような問いが降りてゆくのを、セレナだけが、辛うじて聴いた。…お前は、かつて、川だった。緑の岸を抱いて、流れていた。その記憶が、まだ、お前の芯に、ある。…もう一度、流れたいか。砂の下の骨の道を、伝って。もっと、深く、もっと、広く。姿を、変えることになる。今のお前では、なくなるかもしれない。…それでも、と、私は、問わない。**それでも、か、どうかを、決めるのは、お前だ。**
長い、沈黙が、あった。
砂丘の上の里の民は、何も見えぬまま、身じろぎもせず、待った。待つことにかけては、この星の誰よりも練れた民だった。
やがて…窪みの底の湿りが、微かに震えた。
それが、答えだった。小さき精靈が見せたのは、恐れでは、なく…記憶だった。岸辺の緑。水面を渡る、風。岸で水を汲む、遠い、遠い日の人々の手。…流れたい、と、その記憶のすべてが、言っていた。
「…ありがとう」と、キサーラは言った。
そして、彼女は、編み始めた。
解く手が、逆に動くのを、セレナは、生まれて初めて見た。縺れを、解くのではなく…幾筋もの見えない糸を、選り、揃え、結び、撚り合わせてゆく。精靈の小さな芯を、壊さぬまま、その周りに、新しい、広い、深い器を、編み上げてゆく。指の動きは、囁くように静かで、されど、その下で成りつつあるものの大きさに、セレナは眩暈がした。遠い半身が、幾星霜の学びの果てに識り尽くした理…**解くことを、覚えた手は、いつか、結ぶことを、覚える**。
だが。
器が、成っても…芯は、灯らなかった。
キサーラは、手を止めなかった。止めぬまま、老母を振り返った。
「…器は、編めます。けれど、精靈の芯は、技では、灯らない。芯を灯すのは、土地と、命と…**祈り**。幾星霜の祈りだけです。…そして、それを、この砂海の誰よりも、持っているのは」
彼女は、頭を下げた。
「…あなたがたです。どうか、貸してください。あなたがたの、掟を」
老母は、暫し、閉じた瞼でキサーラを視ていた。それから、曲がった腰を砂の上に正し、しわがれた声を上げた。幾星霜、変わらなかった、あの誦えを。
「…渇く者に、背を向けるな」
里の民が、唱和した。幾十の乾いた声が、暁の砂丘に重なった。
「…水は、誰のものでもなく。渇く者の、ものである」
「…分かち合え。蓄えよ。量りを、違えるな」
「…渇きに、耐えよ。序を、守れ」
そして、最後の一条。幾星霜、果たされなかった約定を、教義に変えて守り抜いた、あの一条が、砂の海に響いた。
「…**約定された水は、必ず、来る。**」
その声が、重なった、その時。
キサーラの掌の下で…灯った。
目に見える光では、なかった。天に柱の立つような壮麗も、なかった。ただ…砂が、窪みを中心に、静かに、静かに、色を変え始めた。乾いた金色が、深い、湿った色へ。それは、波紋のように広がり、砂丘の裾を伝い、砂の下の岩の骨の道を選んで、里のほうへ、遥かな深みへと、根のように伸びていった。冷たい、微かな、水の匂いのする風が、砂の面を渡った。ロウが、鼻を上げ、低く震える声で言った。「…水だ。…砂の下、ぜんぶ…**流れてる**」
姿は、ない。声も、ない。天を衝きもせず、名乗りもしない。砂の下に、広く、深く、根を張り、隠れ里にだけ水脈を囁く…隠れ水の大いなる精靈。旧き叡智は、天に届く塔を建てた。月は、すべてを、上から視ている。…この精靈は、その、どちらの流儀でもない。**覆いの下の灯**だった。
里に戻ると、報せが二つ、待っていた。
一つは、喜びだった。里の水路という水路に、雫が増え始めている。涸れかけていた、いちばん深い水甕に、細い、新しい滲みが生まれている。…そして、いちばん深い房。眠るディンガの石の台の傍らの岩肌に、清い水が一筋、静かに滲み出している、と。台の下の、あの刻みの、すぐ、そばに。まるで、問いに答えるように。
里の民は、その水を汲まなかった。ただ、名をつけた。誰が言い出すでもなく、皆が、そう呼んだ。
…**約定の水**、と。
もう一つの報せは、風だった。
物見の若い沙蛇が、砂にまみれて駆け込んできた。二又の舌が、忙しなく震えていた。
「…水の道に。帝の量り手の詰め所に…**銀のやつらが、来てる**。月の狩人が。…問うて回ってる。西から、来た、旅の一党を。金色の目の…人の形をした、何かを、連れた一党を、と」
房の空気が、凍った。ロウが唸り、ガルドの手が、腰の鎚に伸びた。
メルカルトの偽りの触れ。西の門で命を繋いだ、あの火縄が…燃え尽きかけている。審問官府の獲物、という嘘が剥がれる前に、狩人たちは、獲物の行方を、おのれの足で追い始めたのだ。西から、南へ。祈りの道の入口へ。
「…夜のうちに、発て」と、老母が言った。声は、静かで、揺るがなかった。「案ずるな。この里は、幾星霜、隠れてきた。隠れることに、かけても、我らは、練れておる。…それに、今は」彼女の閉じた瞼が、僅かに緩んだ。「…水が、味方じゃ」
そして、ジャベが、進み出た。旅の革袋を、既に肩に掛けて。
「…儂が、案内する。柱の裾まで」
「ジャベさん…」ミラが言いかけるのを、彼は掌で制した。
「言うな、娘。…儂は、視たのじゃ。長老の最後の勤めを。約定の水の生まれるところを。…視た者には、務めが、生じる。それが、掟じゃ」二又の舌が、ちろりと出て、引っ込んだ。「それにな。…祈りの道の、まことの祈りを、託された旅人を、道に迷わせたとあっては。儂は、死んでも、死にきれぬわい」
夜…地表の、まことの夜…一行は、砂の腹の隠れ里を後にした。
振り返ると、砂丘は、何事もなかったように、金色にうねっているだけだった。里の入口も、窪地の水も、もう、どこにも見えない。ただ、足の裏に…ロウには、耳に、セレナには、精靈の囁きに…感じられた。砂の下を、深く、静かに、水が流れている。彼らと、同じ、南へ。
遥か、南の地平の果て。
夜の底に、それは、初めて視えた。星々を、細く、長く、遮って…天と地とを繋ぐ、一本の影。
世界蛇の背骨。
祈りの道の果てに、立つもの。
キサーラの額の奥で、遠い半身が、静かに目を凝らした。届けるべき復命と、八百と十五の名を…胸に、抱いて。




